終焉神
ターバンの男が足を踏み出す。
僅かに残った水溜まりに靴が触れれば、蒸発するでもなく、吸収されるでもなく、それは涸れた。
さながら、水が終焉を迎えるが如く。
「そこで止まりなさい、終焉神アナヘム」
鋭い口調で言い放ったのは、生誕神ウェンゼルである。
「樹理四神であるあなたが枯焉砂漠の外に出て、いったい何用ですか? あなたがこの神域で力を振るえば、花は瞬く間に枯れ落ちるでしょう」
ウェンゼルの警告を無視して、終焉神アナヘムはゆるりと彼女たちのもとへ歩いていく。
「……それとも、この神域の神々を滅ぼした淘汰神ロムエヌとは、あなたのことですか……?」
「無駄な問いを口にする」
足を止めず、アナヘムは重たい声を発する。
「無駄……とは、どういうことでしょう?」
「淘汰神ロムエヌが、このアナヘムのもう一つの顔ならば、明らかにするわけもなし。違うと口にしたところで、嫌疑をかけたうぬが信じるはずもなし」
問答は無用とばかりに、奴は言う。
「いいえ。話し合えば、お互いの誤解も解けるでしょう」
「久方ぶりに顔を突き合わせたかと思えば、開口一番、このアナヘムに秩序を乱すという汚名を被せ、なにが話し合いぞ。痴れ者が」
ウェンゼルは返答に詰まる。
どうにも、気難しい男のようだな。
あるいは、気難しさを装い、神を滅ぼしたことを隠しているといったところか。
「非礼は詫びましょう、どうか落ちついてください、終焉神。なにゆえ、この樹冠天球に姿を現したのですか?」
「うぬのいぬ間に、火露が盗まれた。あるいは、うぬが盗ませたか?」
殺気立った鋭い視線で、アナヘムはエンネスオーネを睨んだ。
「その、神ならぬ忌むべき魔王の秩序に」
ゼシアがエンネスオーネを守るように、アナヘムの視線に立ちはだかり、両手を広げた。
「エンネスオーネはなにも盗んでないよっ」
「濡れ衣……です……!」
「黙れ、小娘ども!!」
エンネスオーネとゼシアを、アナヘムは豪胆な声で一喝した。
「うぬら以外に火露を盗める者はおらん。このダ・ク・カダーテには」
「わたくしが保証しましょう、終焉神。この生誕神の名にかけて」
すると、殺気立った視線を光らせ、アナヘムは言った。
「よかろう。では、エンネスオーネを引き渡せ」
「……なにを……? 彼女は、火露を盗んだ者ではないと言ったはずです……」
「盗んでいないというなら、引き渡せよう。うぬが無実だというのなら」
アナヘムが発する言葉だけで、ウェンゼルたちには重たい圧がかかった。
神域の花々がひしゃげ、花びらが散る。
「どうするつもりですか?」
「鉄槌をくだす。終焉というの名の」
容赦ない言葉だった。
気を抜けば、今にも飛びかかってくる気配がありありと見える。
「……彼女は神の秩序ではありませんが、わたくしにとっては我が子同然。愛する子が終焉を迎えると聞き、どうして引き渡せましょうか?」
「たわけ。このアナヘムに、かようたわごとが通じると思ったか」
ギロリ、と奴はウェンゼルたちを睨みつける。
「終焉の神が信じるに値するのは一つ。終わりし命の言葉のみぞ」
「……この神族、なに言ってるのか、全然わからないぞ……」
エレオノールが身構えながら、小さく呟く。
それを聞き取ったか、アナヘムは彼女に眼光を向けた。
「根源が終焉を迎えるとき、その生涯に培ったすべてをこの世に解き放つ。輪廻の終焉を司るこの神眼は、それを見逃しはせん」
アナヘムの体から魔力が発せられ、神域が脅えるように揺れた。
「終わる根源は嘘をつかん。しからば、追及は至極容易。終焉に導けば、それで済む」
滅ぼした者の記憶や心などを、余さず知る権能を持つのだろう。
「エンネスオーネが無実であれば、どうするつもりでしょうか?」
まるで動じず、アナヘムは言った。
「歓喜に震えろ。特別に、終焉を五分伸ばしてやろう」
干上がった湖から上がり、アナヘムはなおも前進する。
その足が、花を踏みつければ、周囲の花々とともに、みるみる枯れ落ちていく。
開花神ラウゼルが、苦しげに顔を引きつらせた。
「こーら、土足厳禁だぞっ」
<聖域>の魔法にて、魔力を手の平に溜め、エレオノールは<聖域熾光砲>を撃ち出した。
巨大な光の砲弾が、終焉神アナヘムを勢いよく飲み込む。
それはさながら、洪水だ。圧倒的な魔力の光を全身に浴びせられながら、しかし、その男は意に介さぬとばかりに前進した。
「嘘っ、全然効かないぞっ!?」
愛と優しさを魔力に変換した<聖域熾光砲>。神族に有効なはずのそれを直撃しながらも、終焉神アナヘムは光を手で軽く押しのけるようにして進んでいく。
「このアナヘムは、根源の終焉を支配する神ぞ。うぬらの命を終わらせることなど、造作もない」
「隙あり……です……!」
<聖域熾光砲>を隠れ蓑に、ゼシアは終焉神の背後に回り込んでいた。
跳躍し、エンハーレを振りかぶった彼女は、<複製魔法鏡>にて、それを無数に増殖させ、一本に束ねた。
「ゼシアっ、だめだぞっ。逃げてっ!」
振り下ろされたエンハーレを、終焉神は左手で受け止める。
瞬間、光の剣身が粉々に砕け散った。
「紀律人形如きが」
アナヘムの手刀が、ゼシアの体を斜めに斬り裂く。
血がどっと溢れ出し、彼女は瞬く間に絶命した。
「<蘇生>」
エレオノールの魔法陣がゼシアを包み込み、彼女は蘇生される。
だが、ゼシアの死体を転がしたのは囮――エレオノールが<蘇生>に集中した瞬間、終焉神は一足飛びに間合いを詰めていた。
至近距離にて、アナヘムは曲刀を抜いた。
「<四属結界封>」
地水火風、四つの魔法陣が結界をなし、エレオノールは自らを守る。
「終焉に没せ。枯焉刀グゼラミ」
振り下ろされた白き曲刀は、<四属結界封>をすり抜け、エレオノールの手を斬り裂く。
否、手をもすり抜け、頭蓋をすり抜け、彼女の体をその刃は通った。
「……ぁ………………」
斬り裂かれたのは、エレオノールの根源だけだ。
すべてをすり抜け、根源のみを斬り裂き、その命を枯渇させる。それが、枯焉刀グゼラミの権能なのだろう。
根源を見る魔眼に長けているエレオノールは、いち早くそれに気がつき、僅かに後退していた。
根源は傷ついたが、致命傷ではない。
かろうじて動く体に鞭を打ち、彼女は追撃に備える。
しかし、その瞬間には、アナヘムはもう彼女の目の前から消えていた。
狙いは――エンネスオーネである。
刹那の間に接近を果たした終焉神は、枯焉刀をまっすぐ幼い体に突きだした。
ガギィィィィィィッ、と耳を劈く不快な音が鳴り響く。
根源のみを斬り裂く枯焉刀を、紺碧の盾が防いでいた。
それを手にし、エンネスオーネを守ったのは、生誕神ウェンゼルである。
「始まりの一滴が、やがて池となり、母なる海となるでしょう。優しい我が子、起きてちょうだい。生誕命盾アヴロヘリアン」
紺碧の盾が目映く輝く。
枯焉刀グゼラミが魔力の粒子を立ち上らせるも、ウェンゼルの盾はすり抜けられず、傷一つつけることができない。
いや、正確には盾は傷ついている。
しかし、次から次へと盾の部分部分が新しく生誕しているのだ。
根源のみで作られ、死しても、滅びても、新たに生誕を続ける。
それは生命の盾であった。
「引きなさい、アナヘム。秩序を尊ぶあなたが、樹理四神同士で争うつもりですか?」
「たわけ」
おもむろにアナヘムは、生誕命盾アヴロヘリアンをつかむ。
「生誕を司るうぬでは、争いにもならん」
終焉神が力を入れれば、ウェンゼルの体がふわりと持ち上がる。
生誕命盾と枯焉刀に優劣はないが、腕力ではアナヘムが遙かに勝った。
「邪魔だ。どいていろ」
「……くっ……」
ウェンゼルを盾ごと頭上に持ち上げつつも、アナヘムは直進し、エンネスオーネに枯焉刀を振り下ろす。
だが、今度は淡く光る結界がそれを止めた。
エレオノールが疑似根源で作った魔法障壁だ。
「その曲がった剣の防ぎ方はわかったぞ」
「無駄なことを」
ぐっと力を入れ、終焉神が疑似根源の魔法障壁を斬り裂く。
そのとき、優しい声が響いた。
「花粉よ、舞え」
開花神ラウゼルの合図で、神域の花々から一斉に花粉が舞った。
「風が来ますっ! 樹冠天球の風は、開花神の花粉を運んでくれるのですっ!」
ウェンゼルの言葉を聞き、エレオノールたちは即座に反応する。
翠緑の風が花畑の神域に吹き荒ぶ。彼女たちは花粉を追いかけるように大きく跳躍し、それに乗った。
「……逃げるが……勝ちです……!」
あっという間に遠ざかり、豆粒ほどの大きさになった終焉神に、ゼシアがVサインをしてみせた。
「――逃さん」
重たく声が響いたかと思うと、次の瞬間、終焉神アナヘムは一気に跳躍して、エンネスオーネの近くの枝に飛び移った。
「エンネちゃんっ」
エレオノールが魔法線を引っぱり、枯焉刀はエンネスオーネの頭をかすめていく。
火露の風はものすごいスピードで彼女たちを運んでいるものの、アナヘムは枝から枝へと飛び跳ねて、どこまでも追いすがってきた。
「なんか、ものすっごい神様だぞ……<飛行>が使えないのに、どうして追ってこられるんだっ……?」
「……追いつかれ……ますか……?」
ゼシアがエンハーレを構えながら、枝から枝へ飛び移るアナヘムに視線を凝らす。
「心配はいりません」
ウェンゼルが言った。
「ここまで来れば、飛び移る枝はもうあそこだけです。どうにか逃げ切ることができるしょう」
彼女は近づいてくる大きな枝に視線を凝らす。
瞬間、白い人影がそこへ飛び移るのが見えた。
終焉神アナヘムはすぐさま枝を蹴ると、一直線にエンネスオーネに向かう。
「終わりだ」
「ええ。お話はまたの機会に」
振り下ろされた枯焉刀を、ウェンゼルは難なく盾で防ぐ。
足場をなくしたアナヘムは、もう落ちていくことしかできない。
「殺せ、グゼラミ」
落下する最中、最後の足掻きとばかりに、アナヘムは枯焉刀を投擲する。
まっすぐエンネスオーネへ向かったその曲刀を、エレオノールが疑似根源の魔法障壁で受け流した。
アナヘムは落ちていき、彼女たちは風に乗って遠ざかる。
人差し指を立て、エレオノールは言った。
「しつこい男は、嫌われるんだぞっ」
そのとき――
「……ゼシアお姉ちゃんっ……!」
エンネスオーネが悲鳴のような声を上げた。
エレオノールがはっと振り向けば、ゼシアの首に布のようなものが巻きついている。
「……ぅ……ぁ……」
彼女はその布を、エンハーレで切ろうとしたが、しかし切断できない。
神の秩序が込められた物体、終焉神のターバンをほどいたものだ。
白い布を辿れば、その先に腕があり、アナヘムがぶらさがっていた。
殺気立った鋭い眼光が、エンネスオーネに向けられる。
「――逃がさん」
ターバン切れたら、落ちるくせに――!!