樹冠天球
『無事についたようだな』
俺の声を聞き、エレオノールから安堵のため息が漏れた。
「もー、ちょっと焦らしすぎだぞ。ドキドキしちゃった」
「アノスは……応答、大変でしたか……?」
エレオノールとゼシアが言う。
『少々、秩序と混沌について問答していたものでな』
「……難しい……お話中ですか……?」
『なに、お前のえいえいおーとうのおかげで切り上げられた』
「ゼシアのアドバイスが……効きました……!」
嬉しそうな声が聞こえてくる。
エレオノールの魔眼を覗けば、幾重にも折り重なった枝と木の葉が目に映った。緑に覆われた僅かな隙間から、空が覗いている。
そばにはウェンゼルとエンネスオーネもいる。
彼女たちは巨大な木の枝の上に立っているようだ。
奇妙なことに、その場所に地面はない。上下左右どこを見ても空であり、同様に枝が広がっている。
『ふむ。現在地は把握しているか?』
「ウェンゼルの話だと、樹理廻庭園ダ・ク・カダーテの樹冠天球ってところらしいぞ」
エレオノールが答えると、ウェンゼルが<思念通信>に入ってきた。
「転変の空の異名を持つ、転変神ギェテナロスの神域です」
すると、ゼシアがぴょんっとエレオノールの胸に抱きついた。
抱えられながら、彼女は言う。
「アノス……これから、どうしますか……? ゼシアは魔王の命令を……一生懸命がんばります……!」
エレオノールに抱っこされながらも、彼女は騎士の真似事でもするかのように聖剣エンハーレを空に掲げる。
「アノス君はどこにいるんだ? 一回合流した方がいいのかな?」
エレオノールが訊いてくる。
『こちらは、深層森羅に下りた。深化神ディルフレッドと話していてな。俺が世界の滅びの元凶と宣うもので、目下、穏便に交渉中だ』
「わーおっ! 穏便なんて穏やかじゃないぞっ」
ゼシアが足をジタバタさせるので、エレオノールが彼女を下ろす。
とことことそのままゼシアはエンネスオーネのそばに移動し、こそっと耳打ちした。
「……エンネ……穏便のおは、襲いかかるのお……です」
エンネスオーネが頭の翼をパタパタとはためかせ、首を捻る。
「魔王は、そんなに暴虐なの……?」
『なに、相手次第だ。穏やかではない交渉をする羽目になれば、少々手間もかかる。お前たちは別行動でデルゾゲードとエーベラストアンゼッタを探せ』
「了解だぞっ」
勢いよく返事をした後、彼女はすぐに指先を口元に持ってきた。
「……んー……でも、どうやって探せばいいんだ?」
ゼシアが元気よく手を挙げる。
「お、偉いぞ、ゼシア。わかるのかな?」
「……えいえいおさがし……です」
得意満面で彼女は言った。
「あー……えいえいおさがしは……ちょっと語呂が悪いぞ?」
ぶすっとゼシアはふくれっ面になった。
「え、えーと……えいえいおーしても、見つけるのは難しいかもしれないから、別の案にしよっか?」
エレオノールがとりなすように言う。
「だめ……ですか……?」
ゼシアが肩を落とすと、彼女の手を取って、エンネスオーネが言った。
「エンネスオーネは、一緒にえいえいおさがしするよっ?」
ゼシアがぱっと笑顔になり、エンネスオーネとつないだ拳を頭上に上げた。
「……ゼシアとエンネのえいえいおさがしで……絶対見つけますっ……!」
エレオノールは途方に暮れたような顔で、ウェンゼルを見た。
彼女はくすりと笑い、静かに歩き出す。
「こちらへ。樹冠天球には、親しくしている神もいます。心を持つ彼らなら、きっと力になってくれることでしょう」
「あれ? でも、この枝ばっかりの空、転変神ギェテナロスっていう神の神域じゃなかった? 他の神族もここにいるんだ?」
「ええ。秩序の近しい神は、その神域にて恩恵を受けることができます。樹理廻庭園ダ・ク・カダーテという巨大な神域では、その中に小さな神域を設ける神もいるのですよ」
堕胎神アンデルクは、芽宮神都の恩恵を受け、内部にいる俺を生まれぬ命として堕胎しようとした。
秩序同士、神族同士は密接に絡み合い、互いに恩恵をもたらすのだろう。
「もう少し急いだ方がいい気がするぞ?」
エレオノールが<飛行>の魔法を使う。
一瞬、体が浮かび上がったが、しかし、すぐに彼女の足は枝に着地する。
「あれ?」
「飛べないよ?」
エンネスオーネが頭の翼と、背中の翼を広げるも、やはり飛ぶことができない。
「ゼシアも……です……」
ゼシアはエンネスオーネの真似をするように手をぱたぱたしている。
「あー、ゼシアはもともとそれじゃ飛べないと思うぞ……」
苦笑しながら、エレオノールが言葉をこぼす。
「この樹冠天球を飛べるのは、転変神ギェテナロスだけなのです」
そう口にして、ウェンゼルは足を止めた。
「あそこをご覧になってください」
生誕神が視線を向けた方向には、純白の煙が漂っている。
「火露の煙です。火露とはダ・ク・カデーテを循環する力の源。枯焉砂漠にて燃え尽きた火露の火は、煙となり、この樹冠天球へ昇ってきます。そうして、この転変の空にて、風へ変わるのです」
ウェンゼルが口にした瞬間、純白の煙は、木漏れ日に照らされ、翠緑に染められる。
一陣の風が吹いた。
色のついた風――
翠緑の疾風が樹冠天球を舞い上がる。
「あれに乗りましょう」
「乗るって、どうするんだ?」
「ついてきてください」
エレオノールが訊いた頃には、ウェンゼルは枝から身を投げていた。
「わーおっ! 生誕の神様は、思いきりがいいぞ……」
「ゼシアも……やりますっ……!」
ゼシアとエンネスオーネは手をつないでまま、二人でぴょんっとジャンプして、青い空に落ちていく。
「んー、空しかないのに、どこに落ちてるんだ?」
不思議そうな顔をしながら、エレオノールも三人の後を追っていた。
落下を続ける彼女たちに向かって、一陣の風が吹く。
それは先程見た火露の風だ。翠緑の気流に乗るが如く、四人の体がふわりと浮かぶ。
「……ゼシアは、風に……乗りました……!」
「うんっ。すごいよっ。馬より速いのかなっ?」
「エンネ。お馬さんに乗ったこと……ありませんか?」
「ないよ……。だから、わからないの……」
エンネスオーネは頭の翼をしゅんとさせる。
それを慰めるように、ゼシアは言った。
「……大丈夫です……ゼシアが……お馬さんになります……!」
「どういうことなんだっ!?」
エレオノールが思わず叫ぶ。
それを気にもとめず、風に乗りながらも、ゼシアは四つん這いになった。
「エンネ……乗る……です」
「いいの?」
「お姉さん……ですから……」
背伸びをした口調でゼシアが言う。
「ありがとう、お姉ちゃんっ!」
嬉しそうにエンネスオーネは手を伸ばし、彼女の背中に跨る。
「ぱかぱかっ……ぱかぱかっ……」
お馬さんごっこをしながらも、風に乗ったゼシアたちは空を駆ける。
「お馬さんと……風……どっちが速い……ですか……!?」
「えっとね……同じなのっ……」
「答えが……出ました……!」
「当たり前だぞっ!」
エレオノールが声を上げる。
「ぱかぱかっ……ぱかぱかっ……」
「はいおー」
楽しげに、ゼシアとエンネスオーネの声が響く。
樹冠天球を駆け巡るように飛びながら、彼女たちの体は再び枝に迫っていく。
その上にあるのは、巨大な鳥の巣だ。
中は湖になっており、その周囲を花畑が覆っている。
「あそこです。飛び移りましょう」
ウェンゼルが言う。
みるみる大きな鳥の巣が迫ってきて、ふとエレオノールが言った。
「んー? なんだか、あそこ、変じゃなあい? お花が枯れてるぞ?」
エレオノールが指さした方角を見て、ウェンゼルが険しい表情を浮かべる。
「……急ぎましょう……」
彼らは火露の風から飛び降り、巨大な鳥の巣の中へ着地した。
外から見た通り、湖と花畑がある。
幻想的な色とりどりの花が咲いているが、エレオノールが指摘した通り、所々花は枯れ落ちていた。
「いったい、誰が……?」
焦燥を押し殺すように、ウェンゼルが呟く。
「……お花が枯れていると、なにか不味いのかな?」
「神域の花は枯れることはありません。ここを司る開花神ラウゼルが滅びない限りは……」
周囲に視線を巡らせるが、神の気配はない。
「お姉ちゃんっ。ここに誰かいるよっ」
エンネスオーネの声に、全員が振り向く。
花に埋もれるように、一人の男が倒れていた。
農夫のような格好をしているが、間違いなく神族だ。
全身が傷だらけで、一目で重体とわかる。
「……ラウゼル……!」
ウェンゼルは駆けよると、男を抱き抱え、名を呼んだ。
呻き声が漏れ、開花神は目を開く。
「ああ……ウェンゼル……戻ってきたんだね……よかった……」
「なにがあったのですか?」
「樹冠天球の秩序が……乱されている……神を殺す神が……生まれてしまった……他のみんなは、全員、そいつに滅ぼされてしまったよ……」
拳を握り、ラウゼルは目に涙を溜める。仲間の死を悼むかのように。
「どのような神が?」
「……嵐とともにやってきた。淘汰神ロムエヌと、そいつは名乗ったよ……だけど、それ以外はなにも……姿を見ることすらできず……気がついたら……」
吐血し、ラウゼルは咳き込んだ。
「……回復……です……!」
ゼシアとエレオノールが、開花神に<抗魔治癒>と<総魔完全治癒>を使う。
目映い光に包まれ、彼の傷は癒えていく。
だが、根源の魔力は弱まっていく一方だ。
「……ありがとう、お嬢さん方。だけど、私はこれでも開花を司る神でね……。この神域の花が枯れ出してしまったら、もう滅びは避けられないんだ……」
エレオノールがウェンゼルを振り向くと、彼女はこくりとうなずいた。
「この神域の花、咲き続ける一三万株が開花神である彼の命です。一割程度なら問題ありませんが、三割以上が枯れてしまったら、もう……」
「じゃ、新しい花を咲かせればいいんじゃないかな?」
人差し指を立てて、エレオノールが言う。
けれども、ウェンゼルは首を左右に振った。
「各々の神域は、世界の縮図。世界の根源の上限が決まっているように、ダ・ク・カダーテの火露の数は決まっていて、この神域の花の数も決まっています」
枯れた花も一本と数えるため、生誕神の力でも一三万より増やすことはできぬのだろう。
ウェンゼルの秩序もまた、大きな秩序の歯車の一つだ。
「大丈夫っ。できるよ」
エンネスオーネが言った。
「エンネスオーネを使って。まだ不完全だけど、エンネスオーネは神の秩序に囚われない、魔王の魔法だよっ」
頭と背、二対の翼を広げた彼女の体が光輝く。
はっと気がついたようにエレオノールがうなずいた。
「わかったぞっ!」
彼女の周囲に魔法文字が漂い、そこから聖水が溢れ出す。
エンネスオーネのへそから魔法線が伸び、同じくエレオノールの下腹部から魔法線が現れる。
その二つは、へその緒のように結ばれた。
「<根源降誕>」
エンネスオーネが両手を広げ、魔法陣を描く。
そこから飛び出したのは、一〇〇二二羽のコウノトリだ。
花畑を飛ぶその鳥たちは、一羽一個、合計一〇〇二二個の種を土壌に振らせた。
静かに土に入っていったその種は、瞬く間に芽を出して、開花を始める。
すると――
「……驚いた……」
開花神ラウゼルは、ゆっくりとその身を起こす。
「……いったい、なにをしたんだい? 力が戻ってき――」
ラウゼルが目を見開き、絶句していた。
エレオノールが彼の視線を目で追えば、湖から高く水柱が上がっていた。
なにかが、そこへ飛んできたのだ。
「――見つけたぞ」
湖の底から、重たい声が響いた。
強大な魔力に、花畑が震え始める。
みるみる内に、湖の嵩が減っていき、そして完全に干上がった。
姿を現したのは、白いマントとターバン、曲刀を身につけた男だ。
「火露を盗んだな。エンネスオーネ」
謎の男現る――!?