プロローグ ~はじまりの日~
それは、遠い遠い始まりの記憶――
この世界の原初にして、繰り返された幾億目かの創世であった。
銀髪の少女は、まぶたを開く。
最初に視界に映されたのは、一面が真白に染められた空。
上下もなく、左右もなく、見渡す限り、どこまでも白が続いている。
『おはよう』
声が響いた。
『おはよう。最期の子』
銀髪の少女は、ぱちぱちと瞬きをする。
周囲を見渡すが、声の主はどこにもいない。
『捜しても、もういない。私は、すでに滅んだのだから。これは、あなたに大切なことを伝えるために創造しておいた声』
「……あなたは誰……?」
少女が問うと、すぐに優しい声が返ってきた。
『私はあなたの前の代の創造神。名はエレネシア。あなたとあなたの妹の母』
「……妹…………?」
銀髪の少女は背中に視線を向ける。
そっと後ろ手を伸ばしたが、あるのはただ空だけだ。
誰かがそこにいた気がしたのだろう。けれども、それは幻想で、背後にはやはりなにもなかった。
それでも、彼女は誰かの手を握るような仕草をした。
『すべてを伝えるには、遺した声が足りない。可愛い我が子、あなたには、私の失敗を。エレネシアの世界の終わりを伝えておかなければならない』
真白の世界が、溶けていく。
それはまるで雪のように、優しく、柔らかく。
やがて、純白の世界の後ろに、荒れ果てた大地が現れた。
荒廃した街や村、涸れた海、枯れた森林、崩れた山。
生き物の気配のしない世界の終末が、少女の目の前に突きつけられた。
『これがエレネシアの世界の終わり』
「……悲しい世界……」
そう、銀髪の少女は呟いた。
『よかった』
と、エレネシアの声が言う。
『私は最期に優しい子を生むことができた』
大きな悲しみと、一縷の希望が、その言葉に込められていた。
『愛しい我が子。どうか聞いて。これは私たち創造の神が繰り返してきた世界の歴史。母から娘へ、代々受け継がれてきた神々のお伽噺』
荒れ果てた世界を俯瞰しながら、銀髪の少女は耳をすます。
とうに消え去った、その母の声に。
『創造神エレネシアは世界を創った。緑が溢れる、豊かで、美しい世界を。様々な生命がそこに生きていた。世界を安定させるには、秩序の整合を保たなければならない。特に破壊と創造が等しくなければ、世界は循環せず、根源は輪廻の枠から外れてしまう』
荒野の世界には、淡い光が散りばめられている。
終わった生命、その根源の光であろう。
『私は秩序を保った。破壊と創造の整合を必死で保ち続けた。けれど、エレネシアの世界では争いの種が絶えることはなかった。人々は争い続け、世界は少しずつ滅びへと向かっていった。行きついた先は、今、あなたが見ている通り』
死と滅びが蔓延り、限界を迎えた世界。
荒野に漂う根源が、再び肉体を得ることはなく、ただただひたすらに彷徨い続ける。
『私は間違えたのかもしれない。始まりのとき、世界を創るときに、なにかを間違えてしまったのかもしれない。だから、エレネシアの世界は不完全だった。創造したときにつけられたほんの小さな秩序の傷が、やがて広がり、世界を滅ぼした。私は優しい世界を創ることができなかった』
その言葉に、後悔が滲む。
役目を果たせなかった神の悲哀が、風に飲まれ、ふわりと消えた。
「……なにが、秩序の傷だった……?」
銀髪の少女が問う。
生まれながらにして、彼女は自身がこれから創世するのだと理解している。
エレネシアの秩序を受け継いだ少女は、紛れもなく、創造の神だった。
『わからない。この神眼には、秩序の傷が見えなかった。創った世界は完全かのように思われた。ずっと見ていたはずなのに、私にはそれがとうとうわからなかった』
罪を告白するかのように、重たく、悲しげな声が響く。
『私だけではない。私の母……エレネシアの前の創造神も、その前の創造の神も、そのずっとずっと前の神も、皆、誰もが世界の瑕疵に気がつかなかった。気がつかず、世界は限界を迎え、私たちは最期の創造を行ってきた』
「最期の創造?」
『創造神は、その秩序により、<源創の月蝕>を生涯に二度だけ、使うことが許される。世界の始まりとその終わりに』
瞬きを二度した後に、銀髪の少女は口を開く。
「新しい世界を創るときと、新しい創造神を創るときに?」
『そう。世界が限界を迎えたと理解したとき、創造神は滅びゆく根源を捧げ、自らの娘を創造する。新たな創造の神は、限界を迎えた世界を創り直し、新しい日々を、また一から始めることができる』
輪廻することのない根源は、その輝きを次第に弱めていく。
荒野の光は、刻一刻と薄まっていった。
彼女の言う通り、エレネシアの世界はとうに限界に達しているのだ。
『もしかしたら、この世界そのものが、もう遙か昔に終わっているのかもしれない。私たちは世界を創り直してきた。けれども、何度創り直しても、終わった世界は終わりへと向かうもの。世界の瑕疵はなく、終わることがただ宿命であり、秩序なのかもしれない』
創造神の根源を捧げても、とうに滅んだ世界を蘇らせることはできない。ただ滅んでいないように見せかけるのみだ。そう、エレネシアは言いたいのだろう。
『幾億の始まりを経て、私たちは、ただ我が子へ悲しみの宿命を繋いできた。あなたもきっと、この宿命からは逃れることができない。だから、私はこの世界を、創造の神たちが繋いできたこの大地を、エレネシアの空の下に生きた人々の笑顔を――』
一瞬、息が詰まった音が響く。
『ここで、終わらせることにした』
決意を込めたその声は、世界を覆った。
『この世界はこのままここで滅んでゆく。あなたは私が創った、新しい権能を持った創造神、その力で一から新しい世界を創って。古い始まりを捨て、新しい始まりをその手に。どうか、どうか――』
世界を見つめる少女の耳に、母は愛情を込めて言った。
『あなただけの優しい世界を』
俯き、しばらく考えた後に少女は、荒野と空を眺める。
淡い光が、ゆらゆらと揺れている。
そのうちの一つがすうっと飛んできて、彼女の手の平に乗った。
それを優しく手で包み込み、銀髪の少女ははっきりと首を左右に振ったのだった。
「大丈夫」
そっと彼女は言う。
「終わらせない。母が愛したエレネシアの世界はまだここに生きている」
一瞬の空白。
声が響いた。
『いいえ。もう終わっているの。それに私たちは気がつかなかった。いいえ、気がついていたけれど、目を背けてきた。そうして、悲しい宿命だけを子へ遺してきた。それはもう、私の代で終わり。あなたには幸せな世界を遺したい』
再度、少女は首を左右に振った。
「残されたのは、悲しい宿命だけじゃない」
生まれたての創造神は、優しい声でそう言った。
「母の母も、その母も。遙か遠い、始まりの母も。ずっとずっと、連綿とこの世界を繋いできた。この世界に生きる人々の笑顔を、みんな愛していたのだと思う」
すでに滅んだ母の顔を見つめるように、少女は白銀の神眼をじっと虚空へ向ける。
「だから、誰も終わらせられなかった」
エレネシアの声は、止まっていた。
我が子の言葉に、耳を傾けるように。
「わたしも、終わらせない。我が母、エレネシア。あなたにもらったこの創造の力で、今度こそ、この世界の笑顔を守るから。創造の神の祖先たちと同じように、この世界を愛し、ここに生きる人々を愛する」
銀髪の少女は両手を掲げる。
すると、その荒野に月が昇った。
「きっと、優しい世界を創るから」
白銀の満月に影が射す。
<源創の月蝕>が始まり、赤銀の光が世界を優しく染め上げていく。
「今日までずっと繋いでくれたあなたたちの想いは、わたしにつながっている。ただ悲しいだけじゃなかったと、この幸せな結末に繋がっていたのだと、みんなが安らかに眠れるように、わたしは優しい世界を創るから」
地響きがした。
優しく、温かく、どこまでも遠くへ伝わる――それは世界の胎動だった。
赤銀の光に照らされ、荒野に緑が満ち始める。
世界が新しく創り変えられようとしていた。
『我が子よ。あなたはとても優しく、とても強い』
エレネシアの声が響く。
『どうか約束を』
じっと母の言葉を、少女は待った。
『今日の日のことは、誰にも伝えないで。あなたの子以外には』
「どうして?」
『わからない。私たちはずっとこの言葉を繋いできた。この世界を生きる者に、始まりの日を伝えれば、秩序を阻む者に滅ぼされてしまう』
こくりとうなずき、少女は言った。
「約束する」
赤と銀の光に、世界は優しく包まれていた。
もうまもなく、創世は完了する。
新しい生命が生まれ、愛と優しさが世界に満ちる。
『もうお別れ。最後に、訊いておきたいことはある? 世界の創り方なら、教えられる。争いを少なくする方法、人々の笑顔を増やす方法、文明を発展させる方法。魔法を強化する方法。あなたが知らないことをなにか一つなら、まだ伝える力が残っている』
数瞬考え、少女は顔を上げた。
「名前は?」
そう問うた後、彼女は再び問う。
「わたしの名前」
戸惑ったように、エレネシアは答えた。
『あなたの秩序は、理解しているはず。創造神の名は、創造神自らがつける。それは、世界の名に等しいから。あなたに名を伝えても、なんの力にもなれない。もっと役に立つことを訊いてみるといい』
少女は首を左右に振った。
「人の親がそうするように、わたしも母がつけた名が欲しいと思った。その愛と優しさが、きっと、この世界に伝わるはずだから」
一旦言葉を切り、まっすぐ少女は言った。
「どんな世界の創り方より、わたしの力になるから。お母さん」
しばらくの沈黙の後、エレネシアの声が響いた。
『ミリティア』
その名を聞き、少女は微笑む。
『ミリティア。あなたとこの世界の幸せを、願っている。ともにいけない母を、許して欲しい。そばで教えを説けない母を、許してほしい。どうか、どうか、今度こそ――』
声が掠れ、消えていく。
名を授けたことにより、残した創造の力を使い果たしたのだろう。
すでに途絶えた命が、新たな可能性を生み出すには、相応の力を必要となる。
それでも、想いを振り絞るように、声が響いた。
『創造神と世界が、健やかに育ちますように』
それを最後に声は消える。
ミリティア。
伝えられたその名を優しく包み込むように、銀髪の少女は両手をきゅっと胸に抱く。
赤銀の光がぱっと弾け、緑豊かな世界がそこに広がっていた。
新しい創造の神は言った。
母への感謝を込めて。
「ありがとう」
それは悲しいはじまりのお伽噺――
ということで、がんばって戻って参りました。
今日から、また更新していきます。
また、休んでいる間に、先月発売された書籍2巻が重版決定しました。
皆様の応援のおかげです。本当にありがとうございます。
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