生誕神
ガラガラと音を立てて、エレオノールたちの周囲を覆っていた鉄格子と鎖が崩れ落ちた。
緊縛神ウェズネーラが<緊縛檻鎖縄牢獄>に拘束されたことにより、魔力が減衰し、魔法を維持できなくなったのだろう。
「んー、やっと自由になれたぞ」
<四属結界封>を解除して、エレオノールが解放感たっぷりにぐーっと伸びをする。
「ふむ。どうやら、あれだけは特別なようだな」
ウェンゼルを閉じ込めている魔法の檻に視線をやる。
緊縛神の魔力がここまで弱まっていても、それは崩れることなく、堅固な護りを保ったままだ。
是が非でも、生誕神を外に出したくはないということか。
『ゼシアお姉ちゃん……あそこまで、連れてってくれる?』
「任せる……です……ゼシアは……お姉さんですっ……!」
エンネスオーネを背負い、ゼシアはウェンゼルのもとへ駆けていく。
「あっ、こらっ、ゼシア、勝手に行ったら危ないぞ。まだ悪い奴が隠れてるかもしれないぞっ」
エレオノールが慌てて、彼女を追いかける。
「…………だめだ……だめだよ……僕のママなんだ……僕が守るんだ……」
俺の足元で、ウェズネーラが譫言のように呟く。
五感を縛られているため、最早まともに見ることも、聞くこともできぬだろう。
その鎖を手に、緊縛神を床に引きずりながら、俺は奥にある魔法の檻へ向かう。
近づけば、そこには様々な壁画があった。
神族にまつわることを示したものか?
一見して意味のわからぬものが山ほどあった。
『助けに来たよ、ウェンゼル』
檻の鉄格子ぎりぎりに接近したゼシアの背中でエンネスオーネが言う。
『魔王アノスと、ゼシアお姉ちゃんとエレオノールを連れてきたの』
ウェンゼルもまた鉄格子のそばに立っている。
彼女はその隙間から手を伸ばし、エンネスオーネの頭を優しく撫でた。
「……本当に、仕方のない子ですね。堕胎神に見つかるから、わたくしのことは助けに来ないように、言い聞かせたでしょう」
柔らかい口調で、その神は言った。
『……ごめんなさい……』
頭の翼をしゅんとさせて、エンネスオーネは謝る。
『でも、エンネスオーネは待ちきれなかったの。早くしなきゃって、思ったの』
「早く生まれたがっているのですね、あなたは」
もう一度優しくエンネスオーネの頭を撫で、生誕神ウェンゼルは俺に視線を向けた。
「初めてお会いしますね、魔王アノス。わたくしは、樹理四神と呼ばれる秩序の一人、生誕神ウェンゼルと申します」
ふんわりと微笑み、ウェンゼルはそう俺に挨拶をした。
「樹理四神というのは、初耳だが?」
「秩序の根幹、生命の根源の基本原則、それらを樹理四神と申します。わたくしは、生誕の秩序を司り、生きとし生ける者の誕生を育む神」
秩序の根幹を司る、か。また大層な神だな。
樹理四神ということは、あと三神いるのだろう。
「ミリティアに近い秩序か?」
ゆっくりとウェンゼルは首を縦に振った。
「近いといえば、近いでしょう。しかし、ミリティアは世界の創造を担う神、生誕神は世界を生むことはできません。樹理四神は本来、神々の蒼穹、その深奥に座し、人に名を知られることなく、世界の幹を保ち続ける役割を担います」
「ふむ。ここは深奥どころか、まだ神々の蒼穹にすら入っていないが?」
なにがあったのか、と言外に含ませると、ウェンゼルは静かにうなずいた。
「あなたを待っていました」
穏やかに、彼女は俺に笑いかける。
「いずれ、暴虐の魔王が神々の蒼穹へやってくると聞きました。他の樹理四神に先立ち、あなたに会うために、このフォースロナルリーフで待つことにしました」
「誰から聞いた?」
「ミリティアです。彼女は、わたくしの唯一の知友ですから」
アベルニユーの落書き通りか。
「神々の蒼穹へ行くとミリティアに口にした覚えはない。今日ここへ来たのも半ば偶然のようなものだが、なぜ彼女はそれを知っていた?」
「わたくしも、多くは存じません。順を追って説明いたしましょう」
ウェンゼルは、エンネスオーネに視線をやり、言葉を続けた。
「この子、エンネスオーネは、ミリティアがわたくしに託した新しい秩序です。生誕神ウェンゼルの権能にて、生誕を願ってのことでしょう」
「ふむ。断定できぬのは、ミリティアと直接話せなかったからか?」
ウェンゼルは沈痛な表情を浮かべ、首肯する。
「この子は、あなたに、この世界を優しくするための秩序だと語ったと思います。残念ながら、わたくしにも、この子から聞いたこと以外ははっきりと確かめる術はありません」
彼女は言葉を一旦切り、すっと息を吸う。
そして、また神妙そうな顔で説明を続けた。
「魔王アノス。あなたが転生した後、ミリティアは地上に留まりました。わたくしは、平素と同じく、神々の蒼穹、その深奥に。わたくしたちの間は、あなたが命がけで行使した<四界牆壁>によって隔てられていました」
「確かに、神族には絶大な効果を発揮する壁だ。神界の門を塞いだものは特にな。しかし、ミリティアの力で越えられぬとは思えぬ」
「ただ越えるだけでしたら、彼女も神々の蒼穹へ戻ってくることができたでしょう。ですが、エンネスオーネを創造したことで、彼女にはそれができなくなっていたのです」
穏やかな口調でウェンゼルは語る。
「彼女の意思とその行いは、創造神たる己の秩序に背いていました。ミリティアは創造の秩序に抗うことができず、その身は壁を越えることを拒否したのです」
創造神の秩序に背く行為、か。
<四界牆壁>さえなければ、己の秩序と戦いながらも、神界へ戻ることができていたかもしれぬな。
新たな秩序を生もうとしたミリティアの前に、俺が作った壁が立ちはだかったのなら、皮肉な話だ。
「彼女は諦めず、この地に、エンネスオーネだけを送りました」
エンネスオーネを撫でながら、生誕神は言う。
「この子は、まだ生まれてはいない、生まれかけの秩序です。この子をわたくしの権能で生誕させてほしいというミリティアからのメッセージだと思いました」
優しい母のように、ウェンゼルはエンネスオーネを見つめる。
「エンネスオーネに、わたくしは精一杯の力を注ぎました。そうして、エンネスオーネの秩序は芽吹き、この芽宮神都フォースロナルリーフが誕生しました」
「んー、なんでエンネちゃんを誕生させようとしたら、街ができちゃったんだ?」
エレオノールが疑問を浮かべる。
「痕跡神が有する痕跡の大地や、ナフタの限局世界のように、エンネスオーネの秩序が具現化しできたのが、この都というわけだ」
俺の言葉に、ウェンゼルはうなずく。
「魔王アノスの言う通りです。しかし、生誕神の秩序をもってしても、エンネスオーネは依然として根源胎児のまま、生まれることができませんでした」
「なぜだ?」
「いくつもの理由が考えられます」
そう前置きして、ウェンゼルはまた説明を続けた。
「まず第一にエンネスオーネの生誕が、現存する秩序に背いているということ。他でもない、わたくしのこの生誕神の秩序に。ですから、わたくしには、この子を完全に生むことができないのでしょう」
生誕の秩序に反する存在を、生誕神はその権能をもってしても生むことはできぬ、か。
「でも、ミリティアは世界を優しくするために、エンネスオーネの秩序を創造しようとしたのよね? それが、生誕神の秩序に反するってちょっと矛盾してる気がするわ」
サーシャが言う。
「あー、確かに、そうだぞ。生誕神の秩序は、アベルニユーみたいに危ないものにも思えないし、そこのところってどうなのかな?」
エレオノールが生誕神に問いかける。
「生命や根源の生誕を司るのが、生誕神。生物が胎内に子を宿すのは、生誕神ウェンゼルの秩序によるもの」
「……それに反してるって、逆によくない秩序のような気がしてくるぞ?」
エレオノールが疑問を浮かべると、エンネスオーネが悲しげに視線を落とした。
ゼシアが振り返り、じとっとエレオノールを睨む。
「エンネ……いじめ……ですか……?」
「ちっ、違うぞ。エンネちゃんがどうとかじゃなくて、エンネちゃんの秩序の話だからっ。ほら、破壊神だって、むちゃくちゃぶっ壊すひどい秩序だけど、サーシャちゃんは酔わなきゃ人畜無害だぞ」
「一言余計だわ……」
サーシャの白い視線がエレオノールに突き刺さる。
小さく手を上げて、ミーシャが口を開く。
「エンネスオーネを創造したのは、本当にミリティア?」
ミリティアとウェンゼルは、壁に隔たれ会うことができなかった。
ミリティアを騙る何者かが、エンネスオーネを送り込み、ウェンゼルを騙そうとした可能性は考えられる。
「エンネスオーネは、<創造の月>アーティエルトノアによって創造され、この地に届けられました。ミリティア以外に、それができる神族はいません」
アルカナも使えるは使えるが、まあ、代行者の身では秩序を変えるほどの力は引き出せまい。
彼女がそれをするとも思えぬ。
「つまり、こうか。エンネスオーネは、生誕神の秩序に反しつつも、世界を優しくするための秩序だと?」
「……うーん……それってどういうことなのかしら? どんな秩序なのか、全然見当もつかないんだけど……?」
サーシャがそう言いながら、頭を悩ませる。
「まあよい。今考えたところで、いくらでも可能性はあろう。エンネスオーネが生誕せぬ他の理由はなんだ?」
「堕胎神アンデルク。堕胎の秩序が、エンネスオーネの生誕を妨害し、彼女を死産させようとしています。そして、それはエンネスオーネが、この世界にとって望まれぬ命であることを表しています」
「ふむ。堕胎神の役目は、世界の秩序を乱すものの誕生を抑止すること、といったところか?」
俺の問いに、ウェンゼルはうなずいた。
「その通りです」
「しかし、それは妙なことだな。堕胎神アンデルクと生誕神ウェンゼルは相反する存在ではないのか?」
一瞬の間の後、ウェンゼルは言った。
「確かに、わたくしはアンデルクと相反する秩序ですが……?」
「エンネスオーネの生誕は、堕胎神の秩序にも、生誕神の秩序にも反している。相反する二つの秩序に反しているとは、それはなんだ?」
数秒間、沈黙がそこに訪れる。
「……わかりません……。あるいは、エンネスオーネは、ありとあらゆる秩序から歓迎されていないのかもしれません……言うなれば、この世界そのものが、彼女の誕生を忌避しているのでしょう……」
ミリティアがこの地へ来られなかったのも、創造神の秩序が、エンネスオーネの誕生を拒否したためだ。あながち間違いでもないだろう。
「神族が不適合者と呼ぶ俺よりも、エンネスオーネの生誕は避けねばならぬと?」
「……はい……」
秩序と秩序は互いに密接に絡み合っている。
創造がなければ破壊がないように、生誕がなければ堕胎もない。
すべての秩序は言わば、世界を循環させるためのものだ。
その循環を乱すのが、エンネオーネだとすれば納得のいく話ではある。
しかし、そう考えると奇妙にも思えてくる。
神族というのは、それぞれ固有の秩序と固有の意識を持ちながらも、あたかも全体で一つの秩序として振る舞うのか?
「それに関係しているのかは定かではありませんが、エンネスオーネは不完全な状態でしか生まれません。彼女には、足りないものがあるのです。それがなんなのか、きっとミリティアは知っていたのでしょう。そして、恐らく――」
「エンネスオーネ自身がそれを知っているはず、か?」
ウェンゼルはうなずく。
「あなたがいずれ、神々の蒼穹へ向かうことを知っていたのもエンネスオーネです。それはミリティアが託した言葉でしょう。彼女が不完全でも生まれることができれば、きっと、ミリティアのメッセージを完全に思い出すはずです」
「ならば、話は簡単だ。エンネスオーネを生み、足りないものを見つけ、彼女を完全な秩序にすればよい。それで世界は今よりも優しくなる」
俺は魔法の檻に手を伸ばす。
「下がっていろ。檻を壊してやる」
「いえ」
ウェンゼルは静かに首を左右に振った。
「ここにいれば、堕胎神アンデルクがまたやってきます。わたくしは、もう一度、彼女と話し合い、説得してみようと思います」
「話し合いの余地があるのか?」
「……それは、わかりません。それでも、わたくしは彼女の姉なのです。アンデルクが秩序に背こうという感情に目覚めれば、彼女を滅ぼさずとも、エンネスオーネを誕生させることができるはずです……」
裏を返せば、堕胎神は感情らしい感情を持っていないということだ。
「説得できなければ?」
覚悟を決めた顔で、生誕神は言う。
「……そのときは仕方がありません。滅ぼしましょう……魔王アノス、あなたもどうか、アンデルクと相見えた場合は、情けをかけませんように……」
『……だめだよっ……!!』
声を上げたのは、エンネスオーネだ。
視線を向ければ、真剣な口調で彼女は言った。
『……だって、堕胎神は滅ぼしちゃいけないって、ミリティアが言ってたよ……!』
謎は深まるばかり――