夢の子供
デルゾゲードの深奥へ向かい、俺たちはゆるりと歩いていた。
あちこちの壁にはアベルニユーの落書きが刻まれており、それに忙しなく視線を移していたサーシャが、ふいに通路の奥へ顔を向けた。
じっと彼女は目の前を見つめる。
「……ねえ、アノス。この先、なんか、すごく既視感があるわ」
俺を振り向き、彼女は言う。
「なにがあるの?」
「神界の門だ」
ぱちぱちと瞬きをして、ミーシャが俺を見上げた。
「<四界牆壁>は?」
「他の壁同様、とうに消えているはずだ」
「んー、じゃ、もしかして、これまで神族が地上にやってくるときって、ここを通ってきてたってことだ?」
人差し指と首を傾け、エレオノールが訊いてくる。
「俺が転生する前は知らぬが、その後はここを通ってはいないようだ。まあ、わざわざ俺の懐に飛び込んでくるような真似はしまい」
「軍神ペルペドロだったかしら? あいつみたいに、神の扉を使ったってこと?」
サーシャの問いに、俺はうなずく。
「他にも手段はいくらでもあったはずだ。とはいえ、この先にある神界の門は神族にとっては一番使い勝手のいい通用口でな。塞がれては、さぞ不便だっただろうな」
ペルペドロが使おうとした神の扉も、開くまでに時間を要した。
この黒穹にデルゾゲードを構えたことで、神族どもが地上へ降りてくるのを、ある程度は抑制できていただろう。
「……ちょっと……待って……」
記憶を思い出そうとするように、サーシャが頭を手で押さえる。
彼女はどこか、深刻そうな顔をしている。
「神界の門の近くに、なにか書いた気がするわ……」
「大事なこと?」
ミーシャが淡々と尋ねる。
「……うん……たぶんだけど……すごく、大事なことだわ……そんな気がする……」
「ふむ。気になるところだな」
ちょうど通路を抜け、開けた場所に到着した。
室内は球形になっており、デルゾゲードの立体魔法陣が起動している。
黒き粒子がその場を満たし、中心には、神々しく輝く巨大な門が浮いていた。
バチバチと門から放たれる目映い光が、デルゾゲードの放つ暗黒と鬩ぎ合い、激しく火花を散らしている。
「ついたぞ。あれが神界の門だが――」
サーシャを振り向き、俺は問うた。
「どこに落書きをした?」
彼女は少々困ったような表情で、室内をぐるりと見回す。
しかし――
「書くところがない」
ミーシャが言った。
室内には無数の魔法陣が描かれ、壁は魔力を有する影に覆われている。
落書きができるような場所は見当たらない。
「確か、えーと……」
サーシャが俺の顔を見て、バツが悪そうに視線を逸らす。
「どうした?」
「……確か、アノスを困らせようとして、書いたような気がして……他の落書きを見つけたら、探したくなると思うから、わかりにくい場所に……」
「仕方のない奴だな」
「にっ、二千年前のことを言われても困るわっ! 神様だったんだしっ!」
わからぬ弁解をする。
「責めてはおらぬ。おかげで大凡見当がついた」
俺はまっすぐ神界の門へ向かい、歩いていく。
前方の道は途切れていたが、そのまま中空に向かい、足を踏み出す。
すると、黒い粒子が集まり始め、影の橋をかけた。
それは、部屋の中央にある神界の門へ続いている。
「このデルゾゲードにある物のうち、神界の門だけは俺の支配下にない。隠すにはもってこいだろう」
影の橋を渡り、神界の門の前までやってきた。
「んー、門にも特に落書きはないぞ?」
背中から、エレオノールが言う。
隣でゼシアが懸命に視線を巡らせていたが、やはり落書きは見つけられぬ様子だ。
「さて、サーシャ。俺を困らせたいなら、この門のどこに書く?」
「あー、そっか。サーシャちゃんは記憶がないだけで、アベルニユーなんだから、考えれば同じことを思いつくはずだぞっ」
エレオノールたちの視線が、サーシャに集中する。
「えーっと、怒らないで聞いてくれる? たぶん、たぶん……なんだけど」
そう前置きをして、ひどく気まずそうにサーシャは言った。
「門の裏じゃないかしら……?」
「わおっ。アノス君が命を捨てて<四界牆壁>で塞いだ門の裏側に書いておくなんて、サーシャちゃん、ひどいぞっ」
おどけたように、エレオノールが両手を上げて仰け反った。
サーシャを見ながら、俺は言う。
「俺が開けたくはない門を開けねば、落書きに辿り着けぬというわけか」
ミーシャがぱちぱちと瞬きをして、彼女を見つめる。
「……サーシャ……」
「うー……視線が痛い、痛いわ……」
そう言いながら、サーシャが両腕で俺たちの視線を防ぐ。
「まあ、確かにこれを開けたところで、今すぐ神がなだれ込んでくるわけでもなし、可愛い悪戯だがな」
「だったら、早くそう言ってよ……」
サーシャはほっと胸を撫で下ろしつつも、恨めしそうな視線をこちらへ向けてくる。
俺は両腕を多重魔法陣にくぐらせ、蒼白き<森羅万掌>の手にて、神界の門に触れた。
ぐっと押してやれば、中から真白の光を漏れ、両開きの門は開かれていく。
奥には白い石畳が続く通路が見えた。
壁もなく、天井もなく、その石畳は黒い空に浮かび、延々とどこまでも彼方に続いている。
「わーお、なんか、不思議空間だぞ」
エレオノールの言葉を耳にしながら、俺たちは白い石畳へ足を踏み出し、再び神界の門を振り返った。
門の裏側を見るため、<森羅万掌>の手にてそれを閉じようとすると、サーシャが慌てたように声を上げた。
「ちょっ、ちょっと、閉めて大丈夫なの?」
「思い出せぬか? 安心せよ。閉じ込められることはない」
ゆっくりと内側から神界の門を閉める。
そうして、門を一通り視線でさらった。
「ふむ……」
「あ……れ……?」
サーシャが戸惑ったような声を上げる。
「どこにもないぞっ?」
エレオノールが口にすると、ミーシャが門の上部を指さした。
「あそこ」
彼女が示したその箇所には、丸い穴が空けられている。
反対側には、同じ箇所に石板があり、魔法陣が描かれていた。
「神界の門は左右対称。あそこだけ、非対称」
「誰かが持ち去ったのだろうな」
サーシャが表情を険しくした。
「誰かって、誰よ?」
「この先には神しかいまい」
「えーと、じゃ、元々あそこにあった石板にアベルニユーは落書きをして、それを今度は神族の誰かが持って行っちゃったってことかな?」
エレオノールが言うと、サーシャは疑問を浮かべた。
「なんで、そんなこと……?」
『知ってるよ』
声が響く。
サーシャはばっと後ろを振り向いた。
先程までは誰もいなかった白い石畳の上に、幼い女の子が立っていた。
外見は六、七歳ほどか。
纏っているのは、神族がよく身につけている装束だ。
薄桃色の髪を持ち、頭には可愛らしい翼が生えている。
へその辺りがぼんやりと光り、そこから魔法線が現れていた。
その線の先は、どこにもつながっていないように見える。
「……あーーっっ……!!」
と、真っ先に叫んだのは、ゼシアだった。
「……ゼシアの妹……です……っ!」
ゼシアが少女を指さし、嬉しそうな表情で訴える。
『エンネスオーネ』
透明感のある細い声でその女の子は言った。
『――それが、この身を表す名前だよ』
彼女はそう言って、ニコッと笑った。
口を動かしてはいるものの声は出ておらず、その言葉は<思念通信>のように、直接頭に響いていた。
サーシャが警戒するように身構えつつ、ミーシャと横目で視線を交換する。
緊迫した面持ちで、エレオノールが息を飲んだ。
「……可愛い……名前……です……!」
ただ一人、まったくの無警戒でゼシアが少女の名前を褒めていた。
『ありがとう』
僅かに、エンネスオーネは笑う。
『ついてきて。エンネスオーネは待っていたの。ずっと、ずっとね。みんなが来てくれるのを、ここで待っていたよ』
くるりと反転し、エンネスオーネは白い石畳を駆けていく。
「……ついていき……ます……!」
ゼシアが喜び勇んで、その子の後を追いかけていく。
「え、ちょっ、ちょっとゼシア、待つんだぞっ。この先は、神界だからっ……! 知らない子についていっちゃだめなんだぞ」
エレオノールが慌てて、ゼシアを追いかける。
「……ゼシアの……妹ですっ……! ママの……子供です……!」
「そっ、それは夢の話だぞっ。ボクは産んだ覚えないぞっ!」
「隠し子……ですかっ……?」
「ぼっ、ボクには隠しようがないぞっ。いいから、待って、ゼシアッ!」
無邪気にエンネスオーネを追いかけるゼシアを、エレオノールは必死に追いかけていく。
「どうするの……?」
サーシャが訊いてくる。
「なに、神々の蒼穹はまだ先だ。行くぞ」
そう言って、俺はサーシャたちとともに、三人の後を追いかけた。
現れたのはゼシアの妹にして、エレオノールの隠し子っ!?
産んでいないはずのエンネスオーネ――