デルゾゲード誕生
遠い過去の記憶――
暗い暗い闇が立ちこめている。
そこは滅びを凝縮したような暗黒の中心、<破滅の太陽>サージエルドナーヴェの深奥。
二人の男女の影が見えた。
「あれが、魔王さまの言ってたデルゾゲード?」
破壊神の少女がそう魔王に問いかけた。
<破滅の太陽>の外側には、闇に覆われた空が見えている。
夜ではない。
黒穹と呼ばれる、地上の生命が立ち入りできぬ空域だ。
そこに浮かんでいたのが、魔王城デルゾゲードである。
全体は菱形だ。上半分を見れば、普通の城だが、下半分には、いくつもの砲門や、固定魔法陣がついており、さながらそれは飛空要塞だった。
「器だけだ。肝心の中身がなくば、要塞としても、立体魔法陣としても役目は成さぬ。せいぜい神界の門を覆い、神族を牽制するぐらいだろう」
デルゾゲードの下部は、神界の門を覆うように構築されている。
神々の蒼穹から、地上へ神が降臨するとき、多くの場合、黒穹に浮かぶその門を通る。
魔王はその神界の門へ反魔法と魔法障壁を張り巡らせ、神々の地上への侵入を阻んでいた。
とはいえ、入り口はここだけではなく、また強大な魔力を有する神族ならば、それを抜けられなくもない。
「それで? あのお城を、わたしの新しい体にしようって言うのかしら?」
魔王はうなずく。
「あの器がお前の根源と神体で満たされれば、俺との魔法契約が結ばれる。破壊神の秩序をねじ曲げ、<破滅の太陽>サージエルドナーヴェを、理を滅する魔法、<理滅剣>に変える。それをもって、お前が有する破壊の秩序をこの世界から完全に奪い去る」
「ふーん。そ。お城、お城か。お城ねぇ……」
アベルニユーは、黒穹に浮かぶデルゾゲードにぼんやりと視線を向ける。
どことなく気乗りしないといった顔である。
「魔王さまって、お城に恋できるの?」
と、破壊神は尋ねた。
「さて。経験はないが」
と、魔王は答えた。
そんな彼をじっと見つめ、アベルニユーは微笑する。
「ねえ。でも、破壊神アベルニユーをあのお城に変えるには、わたしがうんって言わなきゃだめよね。まだ、わたしのぜんぶは魔王さまのものじゃないわ」
「ふむ。一通りもらったと思ったが?」
首を捻り、魔王は視線で問いかける。
<混滅の魔眼>と<終滅の神眼>を交換した後、魔王はアベルニユーと幾度となく勝負を重ね、彼女の体の、その所有権を一つずつ奪った。
「まだ一つ、心が残ってるわ」
優雅に微笑み、アベルニユーは言った。
「最後の勝負をしましょう。魔王さまが勝ったら、身も心もあなたのものになるわ。お城にしたければ、好きになさい」
破壊神に視線を向け、悠然と魔王は口を開く。
「勝負の方法を述べよ」
「恋をちょうだい」
予め考えていたのか、破壊神は即座に言った。
「魔王さまは、わたしが恋に恋をしてるって馬鹿にするでしょ?」
「馬鹿にしたわけではない」
「でも、言うじゃない。だけど、わたしは本当の恋なんて知らないわ。この気持ちが嘘か本当かもわからない。だって、知らないんだもの。本物の恋なんて見たことないわ」
ツンとした口調で、けれどもどこか楽しげにアベルニユーは言う。
「だから、それが勝負の内容。わたしに本当の恋を教えてよ」
「さて。本当の恋か。なかなかどうして、それは俺にも容易なことではないな」
「そ? 無理ならいいわ」
くるりと踵を返し、アベルニユーは暗闇の地面を歩いていく。
「その代わり、魔王さまの心をちょうだい。わたしの心をあげる代わりに、あなたの心をくれるなら、デルゾゲードになってあげてもいいわ」
弾むような足取りで歩を刻み、彼女は顔を魔王へ向ける。
「恋に恋しててもいいと思わない?」
アベルニユーの視線を、アノスはまっすぐ受け止め、見つめ返した。
「偽物でもいいじゃない」
彼女は言う。
「わたしの世界に、あなた一人しかいられないなら、世界で一番、好きなんだから」
アノスは穏やかに、彼女を見据える。
目を合わせることに慣れていないのか、照れたようにアベルニユーは視線を落とす。
「な、なんとか言いなさいよ……」
俯き加減になり、彼女は呟く。
魔王が無言を貫けば、沈黙に耐えられなくなったとでも言うように、彼女は上目使いで彼の顔を覗いた。
「……だめなの……?」
「偽物で良いなどと、つまらぬことを言うな」
魔王がゆるりと、彼女へ向かって歩き出す。
「見たいのではなかったか? この世界が笑っているところを。お前の願いは、叶えてやると言ったはずだ」
アベルニユーは不思議そうな表情を浮かべ、アノスに疑問の視線を向けた。
「アベルニユー。お前は、神としてこの世の秩序を全うするのではなく、魔族や人間のように、地上を歩き回りたかったのだろう? 花の形や、山の雄大さ、喜びや、嬉しさを、その目で見てみたかったはずだ」
「わかってるわ。だから、お城になった後に、存分に見ればいいって言うんでしょ?」
「いいや」
はっきりと魔王は言った。
「お前を魔族に転生させてやる」
一瞬、きょとんとした表情を破壊神は浮かべた。
「だけど、そんなの……」
できるわけがない、と彼女の顔が語る。
「先に述べたように、デルゾゲードとなった破壊神の秩序は、理を滅する魔法へと変わる。その<理滅剣>を使い、お前の戒めを解き放つ。秩序と意識は分断され、お前はその足で自由にディルヘイドを歩き、その魔眼で世界を見つめることができるようになる」
「……破壊の秩序に、囚われることなく?」
半ば呆然とアベルニユーは尋ねる。
魔王は確かにうなずいた。
「俺もお前と同じく恋は知らぬ。本物の恋はくれてやれぬが、希望にぐらいは手が届く」
アノスは<契約>の魔法陣を描く。
「俺の心を奪う契約だ。ただし、平和は譲れぬ。俺の心と本物の恋、どちらもすべては渡せぬが、半分ずつならば、くれてやる。これで許せ」
アベルニユーは細い指先を<契約>に伸ばし、そっとそれを破棄する。
僅かに魔王の視線が驚きを示す。
破壊神の少女は、ふんわりと微笑んだ。
「契約なんていらないわ。その代わり、約束をちょうだい」
「約束など、容易く破られるものだ」
「だから、いいのよ。脆く崩れやすいほどいいの。それを壊さないように大事に守って、滅ぼさないように大切に見つめたいの。馬鹿なことって思うかもしれないけどね」
破壊神は目を細め、ほんの少し緊張した声で言った。
「わたしの魔王さま」
「……ふむ。意図がつかめぬ」
「わたしは、魔族に生まれ変わるんでしょ? だから、あなたはわたしの魔王さまになってよ」
アベルニユーの思惑が読めなかったか、アノスは疑問の視線を向けた。
「魔王さまも知らないんだったら、ちょうどいいわ。わたしが生まれ変わったら、会いに来て。それで、一緒に平和な日々を過ごしましょ。夢みたいな楽しい日常の中で、恋を勉強して、教えてもらったり、教えてあげたりするんだわ」
まだ見ぬ理想に思いを馳せ、魔王は表情を和らげた。
「よい夢だ。平和はまだ遠いがな」
「約束してくれる?」
魔王はうなずく。
「必ず果たそう」
「それじゃ、勝負は魔王さまの勝ちね」
そう口にして、アベルニユーは両手を広げる。
うっすらと彼女の神体が輝き始めた。
「まだ説明が済んでいない。神族から魔族への転生は一筋縄ではいかなくてな。転生すれば、記憶は残らぬ。それだけではない――」
「なにがあっても、責任はとってくれるんでしょ?」
軽い調子の彼女の問いに、魔王は即答した。
「当然だ」
すると、破壊神は満足げな表情を見せる。
「じゃ、いいわ。ここまでつき合ってもらったんだもの。本当はもっと早く、破壊神の秩序を奪いたかったんでしょ」
彼女の神体が光り輝いたかと思えば、灰色の粒子が<破滅の太陽>の中に立ち上る。
それは黒穹に浮かぶ魔王城デルゾゲードへ向かっていき、幾本もの魔法線をつないだ。
その神体を、その根源を、巨大な器へ移動させようとしているのだ。
「ねえ、わたしの魔王さま」
彼女は瞳に<破滅の魔眼>を浮かべて言った。
「わたしは、いつだって、絶望になんかなりたくなかったわ」
その声は、悲しみを吐露するように。
「滅びを見つめる秩序でいるのは、もう沢山。だけど、目を開けば、いつも、いつだって、なにかが壊れゆく瞬間が見えた」
涙の雫が、ぽたぽたと、暗黒の大地に落ちては、光を放つ。
「なにかがわたしを責め立てる。壊せ、壊せ、壊せって。なにもかも滅ぼしてやれって、もう一人のわたしが何度も訴えている。でも、これはわたしじゃない。わたしじゃないって思いたい。きっと、そう」
希望を持つかのように、彼女は言う。
「なにもかもが壊れる、この破壊の空で、あなただけが、わたしの神眼をまっすぐ見つめてくれた」
破壊神とは思えないほど、か細く、弱々しい表情で、少女は涙をこぼす。
「壊れないでいてくれた。わたしは初めて、自分を知ったように思ったわ。本当の自分を」
魔眼にいっぱいの涙を浮かべながら、彼女は震える唇で言葉を紡ぐ。
「世界は笑ってなんかいない、ずっと、そう思ってたの」
だけど、と彼女は呟く。
「あなたが、希望を見せてくれた。もしかしたら、違う答えがあるかもしれない。だから、わたしは、生まれ変わったら、それを探すわ。記憶はなくなっても、きっと、探しに行くと思う」
泣き腫らしたような赤い魔眼で、破壊神は微笑んだ。
「ありがとう。わたしは、ただ恋に恋をしていたんだって、あなたは笑ったけれど」
魔法線を辿り、彼女の神体と根源が光とともに消えていく。
「それでもこれは、あなたがくれた、かけがえのない想いだったから」
灰色の粒子が一斉に魔法線を伝い、デルゾゲードへ移動する。
闇より深き黒穹が、彼女の放つ輝きに照らされ、まるで真昼のような明るさだった。
魔王の目の前から、アベルニユーが完全に消え去り、彼を襲う破壊の秩序は跡形もなく消滅する。
声が響いた。
――もしも、この先があるなら――
アベルニユーの声が。
キラキラと瞬くように、それは響き渡る。
――もしも、この小さな恋が、本当の恋につながっているなら――
破壊の空を、まるで希望に塗り替えるように。
――わたしはその続きを、見てみたい――
そして、破壊神は生まれ変わり、再び、魔王と出会った――