相似精霊
ネフィウス高原にあった神の扉が消え去ったのを確認した後、俺たちは再びレグリア邸を訪れていた。
「……うーん……やっぱり、これ以上思い出せないわ……」
頭を手で押さえながら、サーシャが言う。
酔いも幾分か醒めてきているようだ。
「またお酒の力を借りなきゃだめかしら?」
「くすくす、サーシャちゃん、それ、完全にだめな酔っぱらいの台詞だぞ」
エレオノールがからかうように言う。
「なによ? しょうがないじゃない、お酒飲んだら思い出すんだから」
「でも、あれだよね。アノス君の<破滅の魔眼>がサーシャちゃんから譲られたものだったなんて、驚きだぞ」
のほほんとした表情で、エレオノールが人差し指を立てる。
「てっきりアノス君から遺伝したんだと思ってた」
「ふむ。まあ、サーシャが今持っている<破滅の魔眼>は、ほぼ俺からの遺伝といっても差し支えあるまい」
そう口にすると、エレオノールはきょとんとした顔を向けてきた。
「あれ? 破壊神アベルニユーが<終滅の神眼>を半分アノス君にあげて、力が弱まったのが、<破滅の魔眼>じゃなかったっけ?」
「過去を見た限り、俺が持っている<破滅の魔眼>は、破壊神の右眼だ。だが、左眼はサーシャが持っているのではなく、デルゾゲードと化している」
交換した<混滅の魔眼>の右眼とともに。
「あー、そっか。今のサーシャちゃんは、思い出せないだけじゃなくて、破壊神の秩序を持ってないんだっけ?」
「……そうみたいね。さっきみたいに、理滅剣を経由すれば、デルゾゲードから一時的に元の力を借りられるみたいだけど……?」
それとて、本来の力とはほど遠い。
真価を発揮するには、破壊の秩序をこの世に蘇らせる必要がある。
つまり、デルゾゲードの封印を解き、破壊神を元の姿に戻すということだ。
だが、そんなことをすれば、再び世界に死と滅びが蔓延することになろう。
「神の軍勢は」
控えめに、ミーシャが手を挙げる。
「滅んでいない?」
「……たぶん、そうだろうね。アノスが無理矢理扉を開いたから、あれが軍勢の全戦力じゃなかったのかもしれない」
レイがそう答えた。
「あるいは、番神などと同じようにいくらでも湧いて出るのかもしれませんね」
静かにシンが述べる。
軍神ペルペドロは、軍勢を率いていた。他の秩序を司る神とは、少々毛色が違う。番神に近い特性を持つ、という予想も、あながち間違ってはいないだろう。
「世界は戦火に包まれるって言ってましたね……」
仮初めの姿に戻ったミサが、不安そうな表情を浮かべる。
「アノス様だから、簡単に倒しましたけど、もし街や村があの軍勢に襲われたら?」
「大変なことになっちゃうぞっ」
エレオノールが同意するように声を上げ、サーシャが続いた。
「あいつら、<灰燼紫滅雷火電界>で全滅しなかったものね……」
魔法砲撃を石に変える術式や、少数より多勢が優る秩序を有する。
他の者どもが、奴らを退けるには、戦う者の数を増やし、多勢には多勢で対抗する他ない。
その分、死者は増え、戦火は拡大するだろう。
「ディルヘイドの全魔皇に伝え、神の扉を探させる。アゼシオン、アガハ、ジオルダル、ガデイシオラにも通達しよう」
神族が地上への進軍を計画していたなら、地上へつなげた扉はあれ一つとは限らぬ。
あの軍勢は先遣隊で、本命の神がいる可能性もある。
特に魔眼の届かぬ竜域や、雷雲火山のように魔力場が乱れ、天然結界となっている土地などは警戒区域とした方がいいだろう。
その旨、七魔皇老へ<思念通信>を送っておく。
「アハルトヘルンも警戒した方がよい」
レノに言うと、彼女はうなずく。
「みんなに気をつけるように言っておくよ。そういうのを捜すのが得意な子たちもいるし、大丈夫だと思う」
「神の扉は見つけ次第こじ開け、軍勢を滅ぼす。だが、シンの予想通り、奴らがいくらでも湧いて出てくるならば、それとは別に策を講じねばならぬ」
「策って、どうするの?」
サーシャが訊く。
「たとえば、神界へ乗り込み、秩序の軍勢を生む魔力源を探し出し、それを断つ、とかな」
「わーお……策っていうか、ただの実力行使だぞ……」
呆れ気味にエレオノールが言葉をこぼす。
「まあ、まずは神の扉が先決だ」
「じゃ、これからボクたちで探しに行くんだ?」
「それは他の者に任す。俺たちはサーシャの記憶を探すとしよう」
秩序の軍勢は、破壊神の代わりとも言える。
二千年前のアベルニユーを知ることは、奴らの情報につながるかもしれない。
滅びるはずのものが滅びず、ゆえに軍神は世界に戦火をもたらそうとした。
その辺りをどうにかできれば、もう神は地上に攻め入っては来ないはずだ。
「そういうわけだが、レノ。かつて破壊神アベルニユーだったときの思い出が、サーシャの記憶を想起させるようでな。なにか役に立つ精霊がいればと思い、訪ねたのだが、どうだ?」
「記憶と思い出かぁ……ちょっと待ってね、今考えるから……」
レノはぶつぶつと精霊の名を呟きながら、考え込んでいる。
「あ……いるかも……? でも、実際、どうなのかはわからないんだけど……」
「構わぬ。なんという精霊だ?」
「相似精霊ペンタンっていうんだよ。ペンタンは変わってて、誰が見ても前に会ったことがあると思うんだよね」
また一風変わった精霊だな。
「どこにでもいて、誰でも会える精霊だから、私がいたら、すぐに会えるよ。ついてきて」
レノの後を追い、俺たちはレグリア邸の外に出た。
そのまま木の葉が生い茂る遊歩道を歩いていく。
「ペンタンの噂と伝承は、やっぱり少し変わっててね」
足を進ませながらも、レノが説明してくれる。
「一緒にいると、どこかで見たことがある初めてのことに遭遇するんだって。なんていうんだっけ、そういうの、えーと……?」
「デジャヴ?」
と、ミーシャが言う。
「そう、それ。デジャヴだよ。デジャヴって、初めてなのに、見たことあったり、体験したことあったりな気になるでしょ。なんでだと思う?」
ミーシャはぱちぱちと瞬きをして、首を捻った。
「なんで?」
「ただの気のせいだと思うがな」
俺が言うと、レノはうなずいた。
「うん、そう。アノスの言う通り、たぶん、ただの気のせいなんだよ。でもね、デジャヴにはこういう噂があるんだ。それは、忘れ去った前世の出来事を見たときに感じるって」
なるほど。
「それはあくまでデジャヴの噂で、ペンタンの噂と伝承じゃないから、ちょっと遠くて、確実ってわけじゃないんだけど。でも、噂は精霊に力を与えるから。もしかしたら、ペンタンと一緒にいて覚えるデジャヴのうちどれかは、本当に前世に経験した出来事なのかもしれないんだよ」
「試してみる価値はありそうだな」
「そうだよねっ」
レノは目の前を指さした。草花が生い茂っている。
「ほら、いたよ。ペンタン」
そこに置いてあったのは、一つの長靴だった。
右足用のものだけで、左足の長靴はどこにもない。
「んー、あれが精霊なのかな?」
「……長靴に……見えます……!」
エレオノールとゼシアが興味深そうに長靴に近づく。
すると、ぴょこん、と長靴から赤ちゃんドラが顔を出した。
「……トラ……です……!」
ゼシアが満面の笑みで言った。
「ふむ。不思議なものだな。確かに会ったことがあるような気がする」
全身で長靴を履いた赤ちゃんドラのペンタンが前足を広げ、空をかく。
謎の動きだが、それさえも妙に見たことがある気がした。
「サーシャ」
彼女はこくりとうなずく。
エレオノールとゼシアが一歩退き、サーシャはペンタンに近づいた。
すると、長靴がぴょんぴょんと跳ね出し、みるみるサーシャから遠ざかっていく。
「え? ちょ、ちょっと、なんで逃げるのよっ?」
慌ててサーシャは追いかける。
「たぶん、デジャヴを感じるところにつれていってくれると思うよ」
「では、後はこちらで色々と試してみる。シン、お前はレノとともにアハルトヘルンへ向かえ。精霊界にある神の扉を探すがよい」
俺の前ですっと跪き、頭を垂れながら、シンは言った。
「我が君の寛大な心に、感謝を」
「なにかわからないことがあったら、<思念通信>してね」
手を振るレノ、そしてシンと別れ、俺たちはサーシャの後を追った。
あまり近づきすぎると、俺やミーシャなどのデジャヴに辿り着くかもしれぬため、遠巻きに見守りながら、往来を歩いていく。
やがて、ペンタンは魔王学院へとやってきた。
城に入り、長靴を履いたトラは、奥へ奥へと進んでいく。
第二教練場の前で立ち止まったので、サーシャはドアを開けた。
「きゃっ……」
中から声が響く。
エレオノールがドアから室内を覗いた。
「あれ? 居残りちゃんだぞ?」
教練場には、ナーヤがいた。
いきなり入ってきたサーシャとペンタンに驚いている様子だ。
クゥルルルー、と彼女の腕の中にいるトモグイが、長靴を履いたトラに視線を光らせる。
食べられるのか、食べられないのか、迷っているように見えた。
「休みなのに、どうしたの?」
サーシャが訪ねる。
「熾死王先生が、時間が空いてるときは勉強を教えてくれるって。あ、でも、約束があるわけじゃありませんし、忙しいときは来られないので、今日は来られないかもしれないんですが……」
言いながら、ナーヤは慌て気味に黒板に描かれた沢山の文字を消す。
「ふーん」
すると、ペンタンがぴたりと動きを止めた。
ナーヤはなぜか、逃げるように第二教練場を去っていく。
「お邪魔しましたー。あっ、アノス様っ!?」
教練場を出た瞬間、ナーヤは俺の顔を見て、びっくりしたように声を上げる。
「しっ、失礼しましたっ!」
ぺこりと頭を下げ、彼女は走り去っていった。
「あれ? エールドメード先生を待ってたんじゃないのかしら……?」
不思議そうにサーシャが自問する。
ペンタンに視線をやれば、やはり、その精霊は動きを止めている。
目的が消えてしまったと言わんばかりだ。
「ふむ。あの黒板に書かれていたことに、なにかありそうだな」
俺は教室の外から、黒板に魔法陣を描く。
<時間操作>を使い、黒板の時間を戻した。
「んー、あれって、昨日の授業の内容だぞ?」
黒板を見つめながら、エレオノールが言う。
「あ……」
サーシャが声を上げる。
彼女の視線の先、黒板には、授業で書かれた魔法文字とは別に、エールドメードとナーヤの名が記されていた。
それを覆うように、見覚えのない術式が描かれている。
「初めて見るな。あれはなんだ?」
「相合い傘魔法陣」
ミーシャが淡々と答えた。
「珍しいが、お粗末な術式だ。見たところ、魔法を発動できそうもないが?」
ミーシャに視線を向ければ、彼女はこくりとうなずく。
「恋のおまじない」
「ほう」
「名前を書いた二人が結ばれると言われている」
すると、エレオノールが振り向き、指を立てた。
「でも、仲の良い二人が、からかわれるときの方が多いぞ」
「ふむ。では、昨日の放課後、あれを友人に描かれ、からかわれたといったところか。消すのを忘れたことを、今日思い出したのだろう」
「あはは、それで慌てて学院まで来たんでしょうか」
ミサが言う。
「あー、すっごくありそうだぞ。エレンちゃんたちとか、やりそう」
「……ですよね……」
まあ、あの相合い傘魔法陣の筆跡は、ナーヤのものだがな。
今日、この教練場で描いたのだろう。
おまじないか。
微笑ましいものだな。
とん、と俺の肩をレイが叩く。
「ペンタンが消えたみたいだね」
彼が言う通り、役目を果たしたというように長靴を履いた精霊の姿が消えている。
「……これ……見覚えがあるわ……」
サーシャが呟く。
教練場に入り、俺は尋ねた。
「その相合い傘か?」
「うん。これ、最初にわたしが書いたんだわ……悪戯で……二千年前に……」
そう口にして、サーシャが走り出す。
「ついてきてっ」
教練場を出て、全力で駆けるサーシャの後を、俺たちは追いかけていく。
数分ほど走り、彼女が足を止めたのは、地下ダンジョンの入り口だった。
壁に取りつけてある黒板には、ダンジョン使用の注意事項などが書かれている。
サーシャは<破滅の魔眼>で、その黒板を睨みつける。
一瞬にして、黒板は粉々に砕け散り、後ろに古い壁が見えた。
そこには、まるで落書きのように、相合い傘魔法陣が刻みつけられている。
一見して、相当昔に書かれたものだというのがわかる。
「やっぱり……これ、わたしの……アベルニユーの悪戯書きだわ……」
「黒板を増築する前、この壁にあった相合い傘の記号が、恋のおまじないとして広まっていったということか」
相合い傘の文字は削れてしまっており、なんと書いてあったかわからない。
俺はそこに<時間操作>の魔法をかけた。
「ちょ、ちょっとアノスっ、なななっ、なにしてるのっ!?」
「なにが書いてあったかわかれば、お前の記憶が戻る手がかりになる」
「そ、そうだけど……だけど、これっ、これって、だからっ……わたしと――!」
壁の時間が遡り、アベルニユーの名前がそこに刻まれる。
そして、もう一つの名は――
「わたしと……あれ……?」
――ミリティアと書いてあった。
サーシャは、心底不思議そうな表情で、相合い傘に書かれた二つの名前を見る。
ミーシャがぱちぱちと瞬きをして、ぼそっと言った。
「アベルニユーは、ミリティアが好きだった?」
「嘘でしょっ!?」
その落書きは、なにを思い出させるのか……?