破壊の秩序
空に浮かぶ神族たちは、秩序だった動きにて、その陣形を瞬時に変えていく。
それは進軍の速度を上げるためのものか、彼らの体に<飛行>の魔法陣が描かれ、勢いよく魔力が溢れ出す。
空域を飛び抜け、ヴェヌズドノアの有効範囲から離脱するつもりだろう。
その陣形魔法陣が完成した瞬間、しかし、サーシャは眼下にいる神族どもを一睨みした。
機先を制され、神の軍勢がピタリと停止する。
蛇に睨まれた蛙のように、奴らは恐れ戦き、動けずにいた。
「ね。いいでしょ?」
酔いが醒めず、アベルニユーの想いと記憶が蘇っているのか、サーシャはどこか楽しげに、ヴェヌズドノアを指先でつついている。
やらせてみる価値はありそうだな。
「他のものを巻き込まぬというのなら、構わぬが?」
「わかったわ」
サーシャが理滅剣ヴェヌズドノアを握る。
彼女の言葉に従うよう、俺はその剣に働きかけた。
「魔王さまの許可が出たわ。元の姿に戻りなさい、サージエルドナーヴェ」
くるりと剣身を回転させ、遙か空に切っ先が向けられる。彼女が手を放せば、ヴェヌズドノアは更に上空へ飛んでいった。
すると、黒き粒子がその空に立ちこめ始める。
次第に、それは闇の長剣を球状に覆っていく。
暗闇に塗りつぶされるように理滅剣の姿は消え、そこには影の太陽が浮かんでいた。
「ね。知ってるかしら?」
ふわりと舞い上がるように、ツインテールの髪をなびかせ、サーシャは<破滅の太陽>を背にする。
「どんなに目を閉じていても、まぶたの裏側に映るわたしの視界を、みんなみんな、破壊の空って呼んだわ」
<破滅の太陽>は影のままだ。
しかし、その空域にいる限り、破壊の秩序は力を及ぼす。
「<四方秩序退陣>」
サーシャが空へ昇っていったのを確認した後、神の軍勢は好機とばかりに、その場から四方に離散した。
陣形魔法<四方秩序退陣>は、撤退時の速度を極限まで高めるのだろう。
完璧に秩序だった軍勢は、極めてスムーズに退却行動を取り、有する魔力を遙かに超えるほどの速度で、空を駆け抜け、影の太陽の支配下から脱出していく。
そして、それは、魔族の街や村への進軍を兼ねていた。
それだけの速度で空域を抜ければ、数秒とかからず目的地に着くだろう。
奴らの狙いは、世界を戦火に巻き込むこと。
戦えぬ魔族の民とて、容赦なく焼くことだろう。
しかし――
進めども進めども、奴らは逃れることができない。
とうに世界を一周するほどの距離を飛び抜けたにもかかわらず、眼下には依然としてネフィウス高原が広がっており、影の太陽は頭上にあった。
「そんな矮小な翼じゃ、<破滅の太陽>から逃れることはできないわよ。だって、この空の秩序は、壊れているんだもの。自由に飛べたのは、わたしの魔王さまと、その配下が描いたゼリドヘヴヌスだけ」
暗い光が、空を照らす。
それはあっという間に神の軍勢を飲み込んでいく。
「ナゼダ?」
「ナゼ逆ラウ?」
「破壊神アベルニユー」
「答エヨッ!」
剣兵神が、槍兵神が、弓兵神が、術兵神が、口々にサーシャへ言葉を放つ。
「なぜ秩序に逆らうのだ、破壊神っ! 破壊の秩序たる貴様がっ! なぜ世界の秩序を乱そうとするっ!?」
遙か地上で、軍神ペルペドロが叫ぶように言った。
「不適合者に、いらぬ戒めを植えつけられたかっ!?」
「ああ……そうね。思いだしたわ。それね、嫌いだったのよ」
「……なに?」
サーシャは微笑した。
まるで、破壊神アベルニユーのように。
「わたしは昔から、秩序なんて大嫌いだったって言ったのよ。むしろ、秩序の方が、わたしの戒めだったわ。魔王さまはその戒めから解き放ってくれたの」
サーシャは瞳に<破滅の魔眼>を浮かべ、眼下にいる軍神を睨みつけた。
「ねえ。あなたはそれで満足なのかしら、軍神さん? 軍勢の秩序として、世界に戦火をもたらすってあなたは言うけれど、それは本当に自分の意志なの?」
「我々に意志はなく、あるのはただ秩序である」
「ふーん。そ。可哀相な人ね、あなたは」
闇の光が、その空を覆いつくした。
破壊神は魔王城デルゾゲードと化している。サーシャ自身は破壊の秩序を有していないからか、<破滅の太陽>は影のまま、その力も本来ものとはほど遠い。
されど不完全ながら、それは確かにサージエルドナーヴェの滅びの光、黒陽だった。
「目を開けば、わたしの目にはいつも絶望が映った」
闇に染まる空域で、防御陣形を敷き、神の軍勢はかろうじて黒陽の照射に耐えている。
「オノ……レ……」
「戦火サエ、飲ミ込ムカ、破壊神……」
生物が死に絶えるその破壊の空をサーシャは飛び抜け、高く、高く、<破滅の太陽>サージエルドナーヴェのそばまで辿り着く。
「だけど、今は違うわ」
厳かにサーシャは両手を広げる。
その体がサージエルドナーヴェに吸い込まれていき、やがて彼女は影の中に完全に消えた。
「わたしは魔族として、生まれ変わったの。魔王さまが、わたしに命をくれたんだわ」
「破壊神……アベル……ニユー……」
「それはもう昔の名前ね。わたしは、サーシャ・ネクロン。破滅の魔女にして、魔王さまの配下よ」
影の太陽がみるみる縮んでいき、金髪の少女がそこに姿を現す。
極限まで凝縮され、小さくなった<破滅の太陽>サージエルドナーヴェは、サーシャの左目に宿っていた。
「ディルヘイドはね、わたしの故郷なの。わたしはここで生まれて、育ったわ。楽しいことばかりじゃないけれど、ここは素敵なところよ。学院に通ったり、お店をやったり、農業をしたり、狩りをしたり。そうやって、みんな生きてる。みんな、笑ってるわ。だからね、神の軍勢だか、秩序だか知らないけど、この国を戦火に飲み込むって言うなら」
サーシャは、その空域全体を視界に収め、キッと睨みつけた。
「あなたたちに本物の絶望を見せてあげるんだからっ!」
左の魔眼に宿る、影の太陽が反転し、闇の日輪と化す。
それはまさに、<破滅の太陽>が完全顕現した姿――
「包囲セヨッ!」
逃げられぬと知った神の軍勢が、今度はサーシャへ向かって飛んでいく。
だが、先程と同じだ。どれだけ空を飛んでも、彼女のもとには辿り着かない。
彼我の力量がそれだけ離れているとでもいうように、常に軍勢の位置は彼女の眼下にあり、包囲することはおろか、近づくことさえ叶わない。
そうして、遙か高みから、サーシャが神々の軍勢を一望した瞬間、彼らの体だけが暗黒に飲まれる。
本来は無差別に照射される黒陽が完全に制御され、彼らだけを、照らし滅ぼしているのだ。
「……消エル……」
「体ガ……」
「神ノ軍勢ガ……」
防御陣形による反魔法でも、その破壊の視線を防ぎきれず、神の軍勢は瞬く間に、空に散った。
「……<終滅の神眼>を……なぜ、破壊の秩序を……我々に向けるのだ……アベルニユー……」
地上の穴という穴に落ちていた残りの軍勢も、黒陽に照らされ、滅びていく。
軍神ペルペドロの赤銅の鎧すら、最早半分以上が闇の光に飲まれている。
「いかに滅ぼそうとも、逃れられはせん。それがわからぬ、貴様ではあるまい」
「おあいにくさま。そんなことはすっかり忘れたわ」
「ならば、思い出せ。生きとし生けるものは争いを起こす。それが世界の秩序であり、理であり摂理、すなわち運命なのだ。何度扉を塞ごうとも、破壊しようとも同じことだ。再び扉は開き、軍靴の音が聞こえてくる。それを始まりに――」
黒陽がペルペドロのすべてを暗く照らし、彼は終滅を迎える。
その間際――
「世界は戦火に包まれる」
軍神は、最後にそんな言葉を残した。
「知らないのかしら?」
微笑しながら、サーシャは言った。
「運命なんて、ぶち壊すものだわ」
彼女は、自分の背中を振り返る。
「ね、アノス」
その視線の先に、<転移>にて転移した俺がいた。
さっと暗闇が消え去り、空は青さを取り戻す。
サーシャはふわふわとこちらへ飛んできた。
「ふむ。その目は、破壊神の神眼か?」
「そうよ、<終滅の神眼>。サージエルドナーヴェを通して、デルゾゲードから力を借りてるの」
闇の日輪と化していたその神眼が、影の太陽に戻る。
「今は半分ぐらいの力しか使えないし、数秒ぐらいしか維持できないけど」
サーシャが目の前を優しく睨めば、そこに影の剣が浮かび上がる。
彼女の瞳から、影の太陽が消えていき、代わりに理滅剣ヴェヌズドノアが目の前に現れた。
<終滅の神眼>は、いつもの<破滅の魔眼>に戻った。
「思い出したのか?」
「うーん、またちょっとだけね」
「ずいぶんとアベルニユーらしく話していたと思うが?」
サーシャはうーんと頭を捻って、額を手で押さえた。
その仕草はいつもの彼女らしい。
「なんでかしら? なんだか、そんな気分になったんだわ。神の軍勢が、破壊神に似てたから、昔のわたしは思うところがあったのかも?」
考え込むように彼女は言う。
「でも、この魔眼のことは、思い出したわ」
サーシャが座り込むような姿勢で浮かびながら、俺の魔眼を見つめる。
「どうして、わたしがアノスと同じ<破滅の魔眼>を持っているかとか」
「ほう。なぜだ?」
サーシャは<思念通信>にて、俺の頭に映像を送る。
魔法線を経由して、それをシンたち配下にも転送しておく。
「悲しみしか見えなかったわたしの神眼に、アノスが小さな笑顔を見せてくれたの」
ふふっ、とサーシャは微笑し、からかうように言った。
「わたしの魔王さまがね」
<思念通信>にて、彼女が思い出した記憶が伝わってくる。
二千年前の映像が、俺の頭に蘇った――
ほろ酔いサーシャ、使えるのは、心の理滅剣だけではなかったか……。