戦火の狼煙
見渡す限り広がる緑と一面に鮮やかに咲き誇る黄色い花。
風にそよそよと揺れ、空を舞う花弁は微弱な魔力を帯びている。
ネフィウスの花の生育に適したこの地を、古来から魔族たちはネフィウス高原と呼んだ。
高原の上空には、数羽のフクロウが旋回している。
七魔皇老が一人、メルヘイスの使い魔だ。
それを目印にするかのように、ネフィウス高原に複数の魔法陣が出現する。
<転移>の魔法にて、俺がその場に姿を現せば、レイやシン、ミーシャ、エレオノールたちが次々と転移してきた。
「……あれが……空間の裂け目ですか……?」
高原を一望するなり、ミサが驚きの声をこぼす。
草花に彩られたなだらかな丘の向こう側に、ぱっくりと開いた裂け目が見える。
縦は、ちょうど建ち並ぶ木々ぐらいの高さから地面に跨るぐらい、横幅はかなりの長さだ。四キロ程度との話だったが、今はもう五キロに達しているか。
「直接見ればなにかわかるかと思ったけど、予想以上に、普通の裂け目じゃないみたいだね。たぶん、奥になにかあるんだろうけど、魔力すら見えない」
レイがこちらを振り向く。
俺は首を左右に振った。
俺の魔眼でも、中は見通せぬ。
空間の裂け目は、ただ真白に染まっていた。
「いかなる魔法か知らぬが、この距離でなにも見えぬならば、まだ完成ではないのだろうな。なにをするつもりにせよ、魔法の効果を発揮しようとすれば、自ずとその力があらわになる」
「その前に、ぶっ壊しちゃうといいのかな?」
エレオノールが訊いてくる。
あの雑音の声は、俺たちを戦火に飲み込むと言ったが、しかし、どうだろうな?
「あれがディルヘイドに仇なすものならば、悠長に待つ必要もないが、馬鹿正直に信じるのもな」
逆に、あれを壊してほしい何者かがいたとしても不思議はない。
「裂け目の中に入ってみる?」
ミーシャがそう提案する。
確かに、そこまで近づけば、なにか見えるかもしれぬな。
「行ってみるか」
<飛行>で飛び上がろうとすると、俺の袖をサーシャがつかんだ。
「ねえ、魔王さま。さっきからみんななんの話をしてるの?」
サーシャは不思議そうな表情を浮かべている。
そういえば、まだ酔わせたままだったか。
「あそこにある空間の裂け目だ」
「空間の裂け目?」
サーシャは、高原の彼方に視線を向ける。
その隙に<解毒>の魔法陣を描き、彼女の酔いを醒まそうとすると――
「魔王さま。裂け目じゃないわ。あれ、扉よ」
手をピタリと止め、構築した術式を破棄した。
「わかるのか?」
「だって、神々の蒼穹にあったやつだわ。神の扉って言うのよ。昔、<四界牆壁>で塞いだ入り口……えーと、あれ、なんだったかしら? 神界の……門? うん、そう、神界の門と似たようなものだと思う……たぶん……」
想いを辿り、記憶を思い出しているのか、サーシャは辿々しく説明した。
「神々の蒼穹?」
ミーシャが小首をかしげる。
「神界の別名です」
シンが短く答えた。
「ふむ。つまり、あれは蒼穹へ続く扉というわけか」
「うん。神の扉は一方通行だから、向こうから、地上へ来ることしかできないけど」
神族の仕業か。
だとすれば、俺の身に直接響く声は、どこぞの神のものか?
いずれせによ、地上でこれほど派手に動くとは珍しい。
「あれだけ大きな扉を作らないと通れない神が降りてくるってことかな?」
笑顔を携えたまま、レイが巨大な空間の裂け目を見つめる。
「あるいは、それだけ多くの神族どもがやってくるのかもしれません」
シンが言うと、ミサが「あはは……」と乾いた笑声をこぼす。
「……どっちにしたって、あんまり良いことじゃなさそうですよね……」
「サーシャ。あの扉が開くのはいつ?」
ミーシャが尋ねると、うーん、とサーシャが頭を悩ませる。
「まだ数日はかかりそうな気がするけ……ど……?」
途中まで言いかけて、彼女は不思議そうにこちらに視線を向ける。
俺が前方に巨大な魔法陣を描いていたからだ。
「なに、今微かだが、あの奥に魔力がちらついたのでな。少々確かめるまでだ」
魔法陣の砲門から巨大な漆黒の太陽が姿を現す。
「<獄炎殲滅砲>」
彗星の如く撃ち出された漆黒の太陽は、黒き炎の尾を引き、みるみる加速する。
ゴオオオオオォォォと音を立て、神の扉の中心へ押し迫った<獄炎殲滅砲>は、刹那、その輝きを失い、巨大な石に変化した。
バラバラとなにかに切断されたかの如く、石となり果てた<獄炎殲滅砲>が無数に分割され、地面に落ちる。
「いかなる砲撃も、我らが前には石つぶてにすぎん――」
魔眼を向ければ、その空間の裂け目に人影が一つ映った。
「――死に急ぐな、魔族の王」
冷徹な声に、大気が震えた。
神の扉に隠されてはいるものの、それでもなお、人影からは膨大な魔力が溢れ出している。
「ふむ。貴様は神族か?」
「戦火の秩序、すなわち秩序の軍勢を率いる、戦の神。我は軍神ペルペドロなり」
「なにが目的だ?」
「戦火を」
軍神は短く答えた。
「不適合者。貴様が乱した秩序を整えるため、世界を戦火に飲み込む」
「乱した? ふむ。神族どもがよく宣う破壊神の秩序を奪ったことか?」
「是である。しかし、それだけではない」
厳しい口調で、軍神ペルペドロが声を上げる。
「世界は平和に傾きすぎた」
すっとペルペドロが手を上げる。
すると、数百もの人影が空間の裂け目の左翼に現れる。
「ゆえに、神の軍勢はそれを粛正する」
更に数百の人影が、今度は右翼に現れる。
「起こるべき戦の芽を悉く潰した魔族の王。不適合者アノスよ。世界に咲くべき戦火の花を、貴様は散らした」
「人を殺す毒花があれば、その前に摘んでおくのが人情というものだと思うが?」
「されど、世界はそれを許容せず」
その言葉を笑い飛ばし、俺は言った。
「どうかな? 案外、世界はそれを望んでいるやもしれぬ。なあ、軍神とやら。ただお前がそう信じ込んでいるだけのことではないか?」
「否。神の軍勢は秩序である。信じる、信じぬに値せず。すなわち、この決定は、覆しようのない摂理なのだ」
くはは、と再び俺は笑った。
「またずいぶんと利いた風な口をきく神が現れたものだ。最近はなかなか話のわかる神族も多くてな。お前のような者は逆に新鮮だぞ」
軍神ペルペドロはじっと口を閉ざし、俺を睨む。
「天父神ノウスガリア以来か? 奴の末路を、知らぬわけではあるまい」
その言葉を意にも介さず、軍神は厳しい声を発した。
「宣戦布告する」
「ほう。魔王軍にか?」
「否。神の軍勢は、生きとし生けるものへ平等なる戦火をもたらす。我々の戦は必然だ。決して避けられぬ戦いの炎に、あらゆる人間、あらゆる精霊、あらゆる魔族が、飲み込まれる」
なるほどな。
「戦えぬ者とて、否応なしに戦場に立たせると?」
「是である」
簡潔に、軍神は述べた。
「させると思うか?」
「戦火の狼煙はすでに上がった。秩序の軍勢の前に、あらゆる抵抗は無意味であり、神の火は必ず、世界全土を燃やす。不適合者。貴様たち魔王軍が立ちはだかろうと、神の進軍を止めることは不可能だ」
神の扉、その純白の空間に、更に倍以上の人影が現れた。
「我々は個体ではなく、総体、すなわち秩序の軍勢である」
ゴゴゴ、ゴオオォォッと不気味な音が響き、空間の裂け目がますます広がる。
神の扉が開いているのだ。その隙間を埋めるが如く、また多くの人影が裂け目の奥に現れた。
「遙か神々の蒼穹より、彼の地への扉が開き、軍靴を鳴らす戦の橋がかけられる。もうまもなく、我々神の軍勢は地上へと至る。そのときこそ、世界が戦火に燃ゆるときだ、不適合者アノス・ヴォルディゴード」
ミサが険しい視線で、神の扉を見据える。
「……一〇〇や二〇〇じゃありませんよね……あんな数の神族が、地上にやってきたら……」
「大変なことになっちゃうぞっ」
エレオノールがそう声を上げる。
「以上だ。束の間の平和を楽しむのだな。軍靴の音が聞こえる、その日まで」
宣戦布告は済んだと言わんばかりに、無数の人影が、奥の方から、うっすらと消えていく。
踵を返そうとした軍神の背中に、俺は言った。
「どこへ行く気だ、軍神?」
ピタリ、とペルペドロは足を止める。
俺は多重魔法陣を両手で描く。
「秩序の軍勢とやらは、敵軍を前に尻尾を巻いて逃げるのか?」
「宣戦布告だと言ったはずだ。貴様らはまだ我が軍勢の前に立ってすらいない」
俺の挑発に対して、毅然と奴は言い放つ。
「我々は今、遥か彼方、神々の蒼穹にいるのだ。貴様らにとっては朗報だが、秩序の軍勢の力とて、地上への扉を開けるにはまだ幾分か時間がかかる」
軍神は、神の扉越しに、俺をじっと睨みつけた。
「軍備を整えるがいい、魔族の王。まもなく貴様らの前に、この世界に、絶望という名の戦火がもたらされるのだ」
奴は颯爽と踵を返す。
うっすらと、その人影は消えていった。
「なるほど。よくわかった」
多重魔法陣に腕を通せば、両手が光に包まれる。
蒼白き<森羅万掌>の手にて、高原の奥にある空間の裂け目、その上下をぐっとつかむ。
コオオオオオオオオォォォッと不気味な音が木霊する。
それは、あたかも神の扉が軋むかのようだ。
「…………なにを、しているのだ……?」
驚いたように、軍神がこちらを振り向き、そんな言葉を発した。
「なに、お前たちもさっさと世界に戦火をもたらしたいだろうと思ってな。俺とて、いつ来るともしれぬ軍勢を今か今かと待ち構えているのは億劫だ」
がっと神の扉をつかみ、上下に引きちぎるかの如く力を入れる。
ビギィィィィィィィッと大気が破裂するような音が、高原中に響き渡る。
「こじ開けてやる」
「……な……………………!?」
<森羅万掌>の右手を上に、左手を下に、渾身の力と魔力を込め、振り抜いてやる。
純白の光をまき散らし、空間の裂け目が、更に引き裂かれるようにぐんと広がり、弾けて散った。
徐々に光が収まっていく。
魔眼を凝らせば、人影でしかなかった神々がはっきりとその姿を見せている。
扉が完全に開け放たれ、神の軍勢がこの場に顕現したのだ。
「ふむ。ざっと二〇〇〇といったところか」
武装したその軍勢へ向かい、俺は軽く手招きをした。
「かかってこい。蹴散らしてやる」
敵軍を積極的に呼び込む、魔王……