心、呼び起こす、魔王の強奪
いつか、二人が失った記憶だった――
<破滅の太陽>サージエルドナーヴェの中心。
破壊に満ちた深い暗黒が広がるその場所で、破壊神アベルニユーは膝を抱えている。
瞬き一つで地上を更地に変えてしまいそうなほどの魔力を有する彼女は、しかし、まるで迷子の幼子のように震えていた。
「魔王アノスだ」
アベルニユーの質問に、アノスは答えた。
「魔王……アノス……?」
その名を、少女の姿の神は繰り返す。
「……どうしてかしら?」
あどけない声で少女は疑問をこぼす。
感情が希薄な神は、けれどもひどく純真に見えた。
「なにがだ?」
「あなたはどうしてわたしの神眼を見つめていられるの?」
不思議そうにアベルニユーは問う。
その瞳に描かれた魔法陣が闇の日輪へと変わった。
<破滅の太陽>サージエルドナーヴェにそっくりな神眼を、アノスは真っ向から見つめている。
破壊神アベルニユーは静かに立ち上がった。
すると、一面の暗黒だったその場所に、真っ黒な地面が現れる。
「……この眼は、終わりを映す、<終滅の神眼>。わたしに見つめることが許されているのは、物事の終わりだけ。破壊神アベルニユーの眼前で、万物は滅びから逃れられない。それが、摂理だわ……」
少女は俯き、弱々しく言葉をこぼす。
「終わりをもたらす神の力だからといって、滅ぼされぬとでも思ったか」
そうアノスが口にすると、アベルニユーは静かに顔を上げた。
彼女が見据えるのは、滅紫に染まった魔王の魔眼。
深淵を覗けばその奥に、闇十字が描かれていた。
「……ありえないはずだわ……」
アベルニユーが言う。
「すべての終わり、すなわち滅びは、破壊神の秩序に従うもの。それがこの世の理、世界の摂理。誰も彼も、生きとし生ける者は、皆等しく秩序に従っている。その枠からは決して外れることはできないもの。破壊神の眼前で終わりに至るのは、覆せない運命なのに……」
「ならば、理屈は簡単だろう」
アノスの言葉に、破壊神は疑問の表情を浮かべる。
「その運命を滅ぼしてやったまでだ」
アベルニユーは口を閉ざす。
その神眼はまっすぐアノスの魔眼を見つめていた。
「ねえ……魔王……アノス?」
少女は問う。
「それとも、魔王さま? なんて呼べばいいかしら?」
「好きに呼ぶことだ」
「じゃ、魔王さま」
軽い調子でアベルニユーは、そうアノスを呼んだ。
「ここへは、なにをしに来たの?」
「この世界から、破壊神の秩序を奪いにきた」
破壊神は、唇を吊り上げ、目を細めた。
「あはっ――」
唐突に、破壊神は笑い出した。
嗜虐的に、ほんの少し、自虐的に。
「――あははははっ、あはははははははははっ。そう? そうなんだ。わたしを滅ぼしに来たの? 破壊神アベルニユーを?」
「なにがおかしい?」
<終滅の神眼>が、暗く輝く。
「だって、待っていたんだもの。いつか、こんな日がやってくるのを」
周囲に立ち上るのは、灰色の粒子。
夥しい量の灰の光が闇を照らし、破壊の力がますます充満する。
その容赦ない秩序は、魔王アノスですら、ただその場にいるだけで、魔力の消耗を余儀なくされるほどであった。
「ね。もう少しだけ、お話をしてもいいかしら? それとももう待てない?」
サージエルドナーヴェが再び黒陽を放つまでには、まだ幾分か時間がある。
アノスは鷹揚に答えた。
「許す」
「沢山、滅ぼしたわ。魔族も人間も精霊も、ときには神ですら、わたしは滅ぼしてきた。この世のすべての終わりは、わたしの手の平の上で起きたこと」
上機嫌に、アベルニユーは話し始める。
「だって、そうでしょ。人々が壊れ、根源が消え去るのは、破壊神の秩序があるからだもの」
破壊という秩序があるゆえに、命は永遠に続かない。
あらゆる死の原因を追及していけば、必ずアベルニユーに辿り着く。
「<破滅の太陽>だってそうね。あれを空に輝かせて、その滅びの光が、あなたの仲間を灼いたんだわ。何十人も、何百人も。もしかしたら、もっと沢山」
アノスはただ黙って、アベルニユーの言葉に耳を傾けている。
「その屍を乗り換えて、魔王さまはここまで来たのね」
一歩、アベルニユーはアノスに近づく。
「わたしが憎い? この破壊神の秩序が?」
「ああ」
短くアノスは答える。
彼の脳裏には、数多の配下の死と滅びがよぎったことだろう。
救えなかった、多くの命が。
「許さぬ」
魔王がそう答えると、アベルニユーは嬉しそうに笑った。
そうして、くるりと彼女は踵を返した。
「さっきも言った通り。ずっとね、待っていたの。誰かが、ここに来てくれるのを。願っていたわ。滅ぼして、滅ぼして、滅ぼしながら、わたしを憎む人が、やってこないかって。サージエルドナーヴェを斬り裂いて、わたしの目の前に、現れないかって。何度も何度も、諦めながら」
ゆっくりと歩を進めながら、彼女は語る。
「だって、つまらないんだもの。ずっと一人ぼっちで、こんな暗い明かりしかない太陽の中で、誰と話すこともできない。だからって、外に出たって、なにも変わらないわ」
ふっと笑い飛ばすようにアベルニユーは言った。
「わたしの神眼に映るのは、絶望と悲しみだけ。破壊神の眼前では、ただ終わりだけが横たわっている。地上を歩けば、一晩で世界は破滅するわ」
立ち上る灰色の粒子と戯れるように、少女は両腕を大きく広げた。
「ねえ、魔王さま、憎いって言ったわね?」
アベルニユーは問い、続けて言った。
「憎いって、どんな気持ち?」
嘲笑するように、彼女は尋ねる。
けれども、その表情は無邪気な少女を彷彿させた。
「憎しみの前には、喜びや嬉しさがあるのかしら? でも、それもわたしは知らないわ。喜びや嬉しさが、怒りに変わって、そこから憎悪が生まれるってことは、なんとなくわかるけど――」
後ろ手を組みながら、くるりと彼女はアノスを振り向く。
「ぜんぶ、わたしは知らないわ」
微笑を携え、彼女は言う。
「だって、ぜんぶ滅びるんだもの。花は美しいって言うけれど、どんな形をしているのかしら?」
アベルニユーが手を伸ばせば、灰色の粒子が、花に似た形を作る。
「山は雄大って言うけれど、どんな大きさなのかしら?」
今度は灰色の粒子が、そびえ立つような山に似た形へ変わる。
「家は? ベッドは? 椅子は? 本は?」
次々と彼女が口にしたものの形を、灰色の粒子が象っていく。
しかし、そのどれもがどこか破損し、歪だった。
「キスって、どんな風にするのかしら?」
灰色の粒子が、二人の男女の人影を作る。
寄り添うように近づく二つの影は、しかし、途中で崩れ落ちる。
「なにも知らない。ただとても強い人々が、戦う姿だけがわたしの神眼にかろうじて映るわ。血と、涙と、争いと、叫び声。それも、すぐに終わる」
冷たい声と顔で彼女は述べる。
「ねえ、教えて、魔王さま? どうして、人は生きているのかしら? 終わらないものなんてどこにもない。いつか必ず終わるわ。だったら、今日終わっても、明日終わっても、一〇〇年後に終わっても同じことでしょ」
アベルニユーがこの場を一睨みすれば、歪な山や花が砕け散り、灰色の粒子に戻る。
「希望があるとでも思っているのかしら? 続きがあるとでも思っているのかしら? だったら、とんだお笑い種だわ。なんにも残らないのに。そうとも知らず、必死に生きてるなんて、馬鹿みたいね」
大きく破壊神が手を横に振れば、灰色の粒子が舞い上がる。
「世界は笑ってなんかいないわ。だって、わたしが見ているんだから。この神眼に映るのは、終わりだけ。いつだって、そこには悲しみしかない。いつも、いつだって、この世界には涙しか残らないわ。それが真実」
挑発するような視線を向け、彼女は言った。
「ねえ、魔王さま? あなたにそれが覆せるのかしら? このわたしを、破壊神アベルニユーを滅ぼすことができるの?」
じっと睨んでくる少女の視線を受け止め、アノスは答えた。
「造作もない」
一瞬虚を突かれたような顔をして、アベルニユーは目を細める。
「傲慢なのね、魔王さまは」
「お前こそ、なかなかどうして、やはりミリティアの妹だな」
アベルニユーは興味深そうな表情を浮かべる。
「どういう意味かしら?」
「破壊の秩序は、終わりをもたらす。お前の話では、すべてのものはいつか必ず終焉を迎える宿命だ。世界は笑わず、悲しみだけがそこにある。だが、すべてが終わるのならば、そこには無しかないのではないか?」
きょとんとした顔で、アベルニユーは魔王を見た。
「なぜ、涙が残っている?」
魔王アノスは、不敵な笑みを浮かべ、断言した。
「答えは簡単だ。世界を見つめるお前が、その終わりに涙している」
「あはっ、わたしが? 破壊の元凶であるわたしが? 本当は、壊したくなんかないって言うの? あははっ」
お腹を抱え、破壊神アベルニユーが声を上げて笑う。
「ふふっ、ふふふっ、あはははははははははははははははっ!!!」
嬉しそうに、楽しそうに。
まるで救われたとでも、いうように。
いつしかその笑い声に、憂いが混ざり、嗚咽に変わっていた。
笑っているような、泣いているような、そんな声でアベルニユーは言う。
「……なんだか、今日は本当に夢みたいだわ……」
静かに、彼女は、アノスへ向かって歩いていく。
「ねえ、恋って知ってる?」
「言葉ならな」
「知りたいことが沢山あったわ。花の形や、山の雄大さ、喜びや、嬉しさを。だけど、この神眼には、決して映ることはない」
淡々と告げる少女は、けれどもやはり泣いているように見えた。
「でもね、とても強い人がいたら、もしかしたら、その人の姿は見ることができるかもしれないと思った」
アノスの姿を視界に映し、少女は目を細める。
「話をすることができると思った。その人はきっとわたしを恨んでいて、破壊神の秩序を滅ぼすためにやってくる。世界の悲しみを止めるためにやってくる」
強い瞳で、何度も何度も、彼女は魔王を見つめた。
見つめる度に、破壊神は微笑する。
<終滅の神眼>で見つめても滅びぬ男が、そこに立っている。
終わり以外のなにかが、確かにそこにある。
それは、彼女にとって紛れもない奇跡だったのだろう。
「わたしはその人に恋をするわ。だって、そんな人、いたとしても一人だわ。わたしの相手は、その人以外にはありえない」
アベルニユーは、魔王のそばで立ち止まる。
「沢山、沢山待ったわ。気が遠くなるほど待った。沢山、沢山滅ぼしたわ」
彼女は、アノスをじっと見上げた。
「あなたがやってきた」
「恋ではあるまい」
「そうかしら?」
「恋に恋をしているにすぎぬ」
自嘲するように、アベルニユーが笑う。
「そうかもね」
ふっと息を吐き、彼女は言った。
「それでも、恋だわ。これが、わたしの、かけがえのない、精一杯の」
アベルニユーは、その細い指先を、アノスの顔に触れた。
「滅ぼして、滅ぼして、滅ぼし続けてきた。生まれたときから、ずっと、それがわたしの秩序だった。もうわたしは、なにも滅ぼさなくていい」
朱く、朱く、その神眼が光輝く。
「そうでしょ?」
深い暗闇に、溢れかえる灰色の粒子、そこに朱く膨大な光が差した。
「ああ、もう時間ね。<破滅の太陽>がまた地上を照らすわ。ごめんね、わたしにも止められないの。これは、世界の秩序だから」
だらりと両手を下げて、アベルニユーは身を曝す。
「どうぞ」
瞳を閉じて、彼女は無抵抗を示した。
しかし、アノスはじっと彼女を見つめたまま、動こうとしない。
「どうしたの? 時間がないわ」
アベルニユーの問いかけを無視するように、アノスはやはり微動だにしない。
「ねえ……聞いてるの? わたしを滅ぼしに来たんでしょ?」
「破壊神の秩序を奪いに来たとは言ったがな。お前を滅ぼすとは言っていない」
「なにを言っているの? 滅ぼさずにどうやって……」
瞬間、闇が反転するように消え去り、アノスとアベルニユーの周囲に空が映った。
外からは、<破滅の太陽>が影の姿から闇の日輪へと変化したのがわかっただろう。
「散々終わりを撒き散らしておいて、楽に逝けると思うな。その責任を取ってもらおう」
暗黒が瞬き始める。
破滅の光、黒陽が今にも地上へ向けて照射されようとしていた。
「責任って……」
「終滅を御すがいい」
「……無理だわ。神は秩序。摂理に逆らうことはできないもの……」
「言い訳は聞かぬ。やれ」
アベルニユーが絶句する。
「つまらぬお仕着せだ。なあ、アベルニユー。秩序だ、摂理だと、そのような理不尽になぜ振り回されなければならぬ」
強い怒りを内に秘め、アノスが言う。
「少しでよい。抗ってみせよ。それをくさびに、お前の戒めを解き放つ」
「だけど……」
「ただ一人、その神眼に映しただけで満足か?」
黒陽が、サージエルドナーヴェの外周に満ちる。
破滅の光がゆらゆらと揺れていた。
「美しい花を、雄大な山を、商店や家々が建ち並ぶ都を、店の軒先に並ぶ様々な品々を見物しながら地上を歩き、真の恋をしたくば、つまらぬ秩序など押しのけてみせよ」
ぐっと拳を握り、力強くアノスは言う。
「俺がその神眼に、笑顔を見せてやる」
「わたし、は――」
<破滅の太陽>に魔力が満ちる。
万物を滅ぼす黒陽が、空を黒く染め上げた。
「………………あ……」
地上は、灼かれていない。
その破滅の光は、サージエルドナーヴェの内側へ降り注ぎ、魔王を照らしていた。
「……くはは。やれば、できるではないか……」
黒陽に灼かれながらも、魔王はアベルニユーへ手を伸ばす。
「今ここでも、お前に見せられるものが一つある」
「魔王さま――」
呼吸が止まる。
少女の唇を、魔王が奪っていた。
「俺をよく見よ」
「……ん………………?」
「これが、キスだ」
「……ん……ん…………ぁ…………」
アベルニユーは口づけを交わしながら、その神眼を大きく開いていた。
瞳の奥の日輪に、彼女の感情が滲み出す。
「<因縁契機魔力強奪>」
二人の体を覆うように魔法陣が展開された。
魔力と思考を自らに集中させるのを契機に、魔力を強奪する<因縁契機魔力強奪>。
魔王は口づけにてそのきっかけを作り、アベルニユーの破滅の力を一部その身に引き受けたのだ。
秩序の乱れに反発するように黒陽が荒れ狂い、魔王の体を灼いては、その根源に終滅をもたらさんと襲いかかった。
魔王の血が滲み、照射される黒陽が錆び落ちていく。
滅びの根源と、破壊の秩序。
同じ滅びと滅びの力が鬩ぎ合い、膨大な破壊がその場に溢れかえる。
それは地上を滅ぼしてなお釣りが来るほどの強大な力だった。
「願え。想いはお前を自由にする」
神眼と魔眼で見つめ合い、滅びと破壊が交錯する。
「……ん……」
ゆっくりとアベルニユーの唇から魔力が流れ出していき、<因縁契機魔力強奪>に導かれるように、破壊の秩序が収まっていく。
とくん、とくん、と。
代わりに少女の心臓の音が、大きく響く。
黒陽が消えていくごとに、鼓動はみるみる激しくなり、大きく彼女の耳に鳴り響く。
そうして、どのぐらい経ったか。
<破滅の太陽>が再び影に戻る頃、破壊神の心臓は恋を訴えるが如く高鳴る調べを奏でていた。
「……ぁ…………」
ゆるりと魔王アノスは顔を離す。
ふっと微笑みかけながら、彼は言った。
「見よ。理不尽など滅ぼしてやったぞ」
顔を赤らめ、俯きながら、アベルニユーは視線を逸らす。
「……強引に奪うなんて……理不尽だわ……」
破壊神、堕つ――