深奥から響く声
食事の用意が調い、俺たちは大きな食卓を囲んでいた。
「ふふふー、今日は沢山、お客さんが来てくれて嬉しいわ。まだ作ってる料理もあるから、みんな、いっぱい食べてね」
母さんは、軽い足取りで、冥王の後ろに歩いていく。
「イージェス君も遠慮しないで食べてね」
「……は。ありがたく」
恐縮した面持ちでイージェスは頭を下げた。
「……アップルパイ……です……」
ゼシアが両手にナイフとフォークを握り締め、アップルパイの皿にきらりと視線を光らせる。
その表情は、あたかも獲物を狙う小動物の如し。
「あ、だめだぞ、ゼシア。デザートは一番最後、まずはご飯を食べないと。最初は、お野菜がいいかな? ほら、サラダがあるぞ?」
エレオノールが大皿のサラダを指さし、ゼシアに興味を向けさせる。
幼い表情が、悲しみに染まる。
「サラダは……草です……!」
「草は栄養があるんだぞ。美味しいぞぉー」
ぶるぶると大きく首を横に振って、ゼシアは言った。
「……ゼシアは……勉強しました……」
「んー、偉いぞ。なにを勉強したのかな?」
「……アップルパイの生地は……小麦です……小麦から、こねこねこねて、ボォーボォー焼いて……パイになります……すごい……です……」
さりげなく、アップルパイを食べたいとの主張であった。
「うんうん。すごいよね。偉いぞ。ちゃんと勉強してるんだ。じゃ、ご褒美にサラダをたーくさんあげちゃうぞ」
エレオノールがゼシアを褒めつつも、サラダの大皿を彼女の前に寄せる。
目の前に突きつけられた山盛りの草に視線を注ぎ、ゼシアが絶望的な表情を浮かべる。
戦場では勇猛に戦う彼女も、サラダを前にしてはその気さえ起きないようだ。
「……小麦は……植物です……」
めげずにゼシアは次なる主張を繰り出した。
「植物は、野菜です……!」
名案を思いついたか、キラキラと彼女は瞳を輝かせている。
「……リンゴは……果物です。野菜と果物は……サラダ……です……!」
彼女は目に力を入れて、エレオノールに訴えた。
「アップルパイは……サラダです……!」
「そっかそっか。ゼシアは、サラダが好きなんだ?」
「大好き……ですっ!」
ナイフとフォークを握り締め、力一杯ゼシアはうなずく。
「じゃ、はい、沢山とってあげるぞ」
星のように瞳を輝かせるゼシアの前で、エレオノールはにこにこと笑いながら、野菜サラダを大量に盛っていく。
みるみるうちにゼシアの瞳は輝きを失い、どんよりと濁ってしまった。
「ほーら、ゼシアの大好きなサラダだぞ」
「……ゼシアの大好物が……草に……なりました……」
渋々といった調子で、ゼシアはサラダを食べ始めた。
「偉いぞ」とエレオノールが褒めているが、ゼシアは恨めしそうな視線で彼女を見返す。
「平和なことよ」
イージェスが焼きたてのパンを千切り、口に放り込む。
ライ麦で作ったパンだ。少々堅めの仕上がりだが、その分しっかりとした歯ごたえがあり、噛めば噛むほど旨味が出る。
豊かな土壌、大地の味を感じさせる、母さんお手製のパンである。
冥王はコーヒーの入ったコップを手にし、眉根を寄せながら、それを飲んだ。
「お。なんだ、イージェス? お前もしかして、コーヒーはだめか?」
ベーコンをナイフで切り分けながら、父さんが言う。
「いえ、師よ。そのようなことは」
「そうかぁ? そのわりには、しかめっ面で飲んでるように見えるけどな」
父さんがベーコンを食べると、冥王は一気にコーヒーを胃に流し込む。
味わう間もなく、飲んでしまえと言わんばかりだ。
「くはは。まさか冥王と呼ばれたお前に、好き嫌いがあろうとはな」
俺がそう笑い飛ばすと、イージェスはその隻眼でこちらを睨んできた。
「好き嫌いとは大げさなことよ。ただ苦いだけのこと。そなたこそ、相も変わらず、キノコグラタンに夢中とは、二千年前から進歩がない」
蕩けるようなキノコグラタンをスプーンですくい、ゆるりと口へ運んだ後、その甘美なる味を舌のすべてを使い、十分に堪能する。
すっとスプーンをテーブルに置き、俺は堂々と答えた。
「ときが経とうと、変わらぬものもある」
「悠長なことよ。そなたが好物を隠そうともせぬため、ミッドヘイズ領の山々からキノコが消え去ったのを忘れたか」
二千年前の話である。
俺の好物を知った一部の魔族たちが、乱獲したのだ。
ある者は貢ぎ物にするため、ある者は同じものを食べ、験を担ぐため、またある者は魔王の強さの秘密がそこにあると踏み、研究のためにキノコを採った。
「好いたものさえ滅ぼすのが、そなたの宿命よ。ゆめゆめ忘れるな」
「滅ぼす? 俺がキノコを? 宿命だと?」
くくく、と腹の底から笑いがこみ上げる。
「戯けたことを申すその口、封じてやらねばならぬようだな」
俺はキノコグラタンを大皿から小皿にとりわけ、魔力で飛ばす。
それはふわりとイージェスの手元に収まった。
「食らうがいい」
イージェスは不可解な表情でこちらを見た。
だが、すぐにキノコグラタンの香りに引き寄せられるように、スプーンを手にし、それをそっと口元へと運ぶ。
「食べ物で釣ろうとしても、詮無きことよ――」
シャリ、とポルチーニ茸が奴の口で踊った。
「こ、れ、は……!?」
静かに隻眼を閉じ、奴は味覚に全神経を集中しながら、グラタンを堪能する。
シャリ、シャリ、とキノコが魅惑のダンスを踊っている。
「……この独得のシコシコした食感、溢れる旨味、すっきりとして、それでいていつまでも残る、この後味は――」
イージェスが驚愕の表情をしながら、その隻眼を開いた。
「――まさか。滅びたはずの、ミッドヘイズ産のポルチーニ……か」
「乱獲したからといって、俺のキノコが滅びると思ったか」
イージェスが瞳を光らせる。
「種を撒いていたか。自らの子孫のみならず、キノコの種を」
二千年前、キノコが滅びかけたミッドヘイズ領の山から僅かな種菌を採取し、それを撒いた。
森林や山岳地帯など、キノコが育ちやすいところに。
食物というのは不思議なもので、魔法で作ったり、急成長させたとしても、含まれる栄養は十分ではなく、なにより一級品の物に比べると味が悪い。
ゆえに自然に繁殖するのを待ったのだ。
「魔族ですらそうそう立ち入らぬ奥地に、<四界牆壁>で壁を作った。千年も経てば、人々はキノコがミッドヘイズの名産品であることを忘れる。その場は、キノコの楽園となろう」
そうして、再び数を増し、たわわに実ったキノコが、今ではこのミッドヘイズ領の至るところに溢れているのだ。
「……あの大戦の最中、人々の平和のみならず、キノコの平和すらも守っていたとは……相も変わらず、恐ろしい男よ」
冥王がキノコグラタンを口に運ぶ。
慈しむように味わうその顔を見れば、同好の士だということがすぐにわかる。
好きだったのだろう、キノコが。
だからこそ、俺に苦言を呈したのだ。
二度と食べられないはずだった、好物を、その平和の味を、奴はぐっと噛みしめた。
「その舌に旨味を刻め。俺が魔王、アノス・ヴォルディゴードだ」
「なんか格好いいこと言ってるけど、美味しいキノコを保護してただけだぞっ」
人差し指を立て、エレオノールがそう突っ込んでくる。
いつもなら、サーシャがなにか言っているところなのだが、彼女はあいにくまだ酔っぱらっていた。
「うー、食べても食べても、減らないわ」
「それは、みんなの分」
サーシャは、大皿いっぱいに入ったマッシュポテトを、ひたすら口にかき込んでいた。
「どうして、みんなの分を、わたしが食べてるのっ?」
「わたしが聞きたい」
ミーシャが淡々と言う。
「残飯処理なのっ!?」
サーシャはあまり聞いていないようだ。
「うー……みんなの分だとしても多い気がするわ……」
「朝食と昼食だからな」
「どういうことなの?」
顔に疑問を貼りつけ、サーシャが俺に訊いてくる。
「寝坊し、朝食を食べ損ねたのでな。昼食ついでに、朝食も食べることにしたわけだ」
「その理屈おかしくないっ!?」
ふむ。酔いが醒めてきたか?
「じゃ、わたし、お城になっている間、なにも食べてないから、二千年分食べなきゃいけないわっ!」
気のせいだな。
「ね、ミーシャ。そうでしょ?」
ミーシャは、ぱちぱちと瞬きをする。
うなずけば、サーシャが二千年分食べ出しそうとでも思ったか、若干困ったような顔をしている。
「……サーシャは、ダイエットした……」
「あ、そっか。だから、お城から、こんなに小さくなれたんだわ。食べるとまたお城にリバウンドしちゃうわね……」
理屈はよくわからぬが、サーシャは納得したようだ。
「イージェス君。これ飲んでみてくれる?」
母さんが、コップに赤いジュースを入れて持ってきた。
「これは……?」
「トマトとレモンを搾って、ハーブを混ぜて、ジュースにしてみたの。サラダを沢山食べてたから、これなら、お口に合うかなって思って」
冥王の口にコーヒーが合わぬため、作ってきたのだろう。
イージェスは、無言で手にしたコップをじっと見つめている。
いや、見ているというより、混ぜられたハーブから漂う香りを嗅いでいるのか?
しかし、楽しんでいるといった風ではない。
少々、不思議な反応だった。
「トマトジュース、嫌いだった?」
「……いえ……」
イージェスは、コップを傾け、特製トマトジュースを飲む。
僅かに、彼はその隻眼を見開き、コップを置いた。
「………………奥方様…………」
「なあに?」
「あ……いえ……」
取り繕うようにイージェスは言った。
「その、このハーブは、数種類を混ぜて……?」
「そう、そうなのよっ、わかる? お庭で育ててね。ぜんぶで、一〇種類使ってるの。中には野草みたいなのもあるけど、あ、でも、野草って言ってもね。こうやってジュースやハーブティーにできるようなものもあるのよ」
母さんは嬉しそうに語る。
「味は、どうかな?」
イージェスはうなずき、そして言った。
「とても、美味しい……」
「よかったー。苦手なものがあったら、遠慮なく言ってね」
そう口にして、また母さんは調理場の方へ戻っていく。
その後ろ姿を、イージェスは懐かしそうに、視線で追いかけた。
そういうことも――
「…………」
「アノス?」
ミーシャが俺に問いかける。
なんだ?
耳鳴りがする。
ザーザーとノイズ交じりの不吉な音が、頭蓋に響く。
『世界は優しいと――』
違う。
声が聞こえてくるのは、この身の深奥。
根源の、その深淵からだ。
『世界は優しいと――思っているのか?』
まるで聞き覚えのない、ノイズ交じりの声は、強い魔力を感じさせる。
『暴虐の魔王、アノス・ヴォルディゴード』
どくん、と心臓が波打ち、一際激しい耳鳴りがした。
『適合せぬ、世界の異物よ』
何者かも知れぬそいつは、静かに俺に語りかける。
『いずれ、選ぶときが来るだろう。この世界の歯車と化すか、それとも異物として取り除かれるか――』
ザーザーと頭の中にノイズが溢れる。
『――せいぜい、考えておくことだ』
謎の声――