プロローグ ~神の転生~
二千年前――
魔王城デルゾゲード。
夜の闇は深く、静寂に満ちていた。
玉座には、城の主、魔王アノスが腰かけている。
頬杖をつき、思案するかの如く、暗闇に視線を落としていた。
ひらり、と光がちらつく。
彼は顔を上げ、玉座の間の高窓へ視線を向ける。
そこに、白銀の光が差した。
闇に包まれていた夜の空には、先程まではなかったはずの<創造の月>、アーティエルトノアが淡く輝いている。
ひらり、ひらりと――
雪の結晶にも似た一片の花弁が、高窓をすり抜け、城内へ入ってくる。
それは魔王の眼前にそっと舞い降りた。
白銀の瞬きとともに、雪月花は人の輪郭を象る。
そうして、長い髪の少女――創造神ミリティアが地上に顕現した。
彼女は静謐な瞳を、まっすぐ魔王アノスへ向けた。
「待ってた?」
「来るだろうと思っていた」
アノスは立ち上がり、ゆるりとミリティアのもとへ歩を進ませる。
「滅びの元凶、破壊神アベルニユーは俺が堕とした」
静かに、ミリティアはうなずいた。
すでにわかっているというように。
「この城が?」
「そのなれの果てだ」
二つの瞳で、創造神は城を見た。
世界を俯瞰するように、彼女の神眼には魔王城デルゾゲードのすべてが映ったはずだ。
「――アベルニユーは」
彼女の口から言葉が優しくこぼれ落ちる。
「なにか言ってた?」
一瞬、アノスは、目を閉じた。
魔王城デルゾゲードと化す前の破壊神の言葉が脳裏によぎる。
「絶望になどなりたくない、と」
その声は、確かに、神族が持たぬはずの悲しみだった。
ゆえに、魔王の心に深く刻みつけられたのだ。
目を開き、まっすぐ創造神を見つめ、彼は伝えた。
「滅びを見つめる秩序でいるのは、もう沢山だそうだ」
「あなたは、彼女を救ってくれた」
自嘲するように、アノスは笑う。
「どうだかな。俺はただ、なにもかもが脆く滅び去る、この世界が気に入らなかっただけだ。ディルヘイドを俺の望む国にするために、破壊神が、<破滅の太陽>サージエルドナーヴェが邪魔だった」
アノスが手をかざせば、デルゾゲードの立体魔法陣が起動する。
浮かび上がった無数の魔法文字とともに、影の剣がそこに現れ、彼の手元に柄を向けた。
魔王はそれをつかんだ。
影が反転し、理滅剣ヴェヌズドノアが姿を現す。
「救ってなどいない。問題を先送りにしたにすぎぬ」
鋭く眼光を発したアノスへ、ミリティアは言った。
「あなたは、この世界に生きる一個の生命として、精一杯戦ってくれた」
表情を変えず、だけど、どこか優しい表情で小さな神は言う。
「あとは、創造神である秩序の役目」
「そう意地を張ることはあるまい。ここまで来たのだ。最後までつき合おう」
静かにミリティアは首を左右に振った。
長い髪が、ゆらりと揺れる。
「大丈夫」
アノスの視線を、ミリティアは柔らかく受け止めた。
「……ふむ。俺の力が不要だというなら、それに越したことはないがな。どうするつもりだ?」
「考えてある。それに」
ミリティアは、優しい声で言った。
「彼女が望んだことだから」
「わかるのか?」
僅かにミリティアは微笑みを浮かべる。
「あなたが届けてくれた手紙に書いてあった」
「そうか」
アノスは、理滅剣の切っ先をほんの僅かだけ上げた。
「ここに」
そう口にして、創造神はそっと自らの胸に手を触れる。
「俺がその気になれば、お前は滅ぶぞ」
無表情の創造神に、アノスは言った。
「恐れぬか?」
「神は秩序。怖いものはない」
胸から手を放し、ミリティアは手招きするように伸ばした。
「おいで」
ヴェヌズドノアの切っ先が、ミリティアに向く。
夜の静寂を保ったまま、足音を立てずにゆるりと歩き、魔王は創造神の右胸に、理を滅ぼす魔剣を突き刺した。
血は流れず、されど、その刃は神を斬った。
彼女の大切なものを。
理滅剣が、秩序を滅ぼしていく。
「<転生>」
巨大な魔法陣が描かれ、アノスは引き抜いた理滅剣を、そこにかざす。
城内から黒き粒子が、無数に立ち上り始める。
それは、破壊神アベルニユーから切り離された、意識の欠片だ。
その一粒一粒が、玉座の間を満たしていく。
<転生>の魔法陣の中を彷徨うその根源を、アノスは<破滅の魔眼>にて見据えた。
「ミリティア。お前の願いは叶えてやる。破壊神アベルニユーは魔族として転生する。秩序に縛られることなく、神のお仕着せを脱ぎ捨て、その想いを解き放つだろう」
「あなたの血族に?」
ミリティアが問う。
「アベルニユーと俺は、同じ<破滅の魔眼>を持つ。我が血から生み出した遠い子孫には、この魔眼の片鱗が発現するだろう。その魔眼をつながりにし、理滅剣にて、自らのよりしろと錯覚させる」
たとえ、生まれ変わろうと神は神。
その秩序を、魔王アノスが、ヴェヌズドノアが滅ぼしていく。
「優しくしてあげて」
「俺が? アベルニユーにか?」
ミリティアがうなずく。
「せっかく転生するのだから、前世とのかかわりなど断った方がよい。特に、破壊神であった過去などはな」
「記憶は忘れても、想いは忘れない」
確信めいた口調で、創造神は言った。
「それが世界の理とて、邪魔になるなら滅ぼしてやろう」
ミリティアは微笑んだ。
魔王アノスにも滅ぼせぬものがあるとでもいうように。
「想いを辿り、きっと思い出す」
彼女の瞳が、銀の輝きを発する。
「あなたのことを」
「なぜそう思う?」
まるで慈しむように、そして、ほんの少し嬉しそうに、ミリティアは答えた。
「彼女は、恋をしたから」
「光栄なことだがな」
アノスは自嘲するように言った。
「刷り込みにすぎぬ。アベルニユーに初めて感情をもたらしたのも、その破壊の秩序から解放できたのも、たまたま俺だっただけの話だ。平和な世界では、心は更に自由になろう」
アノスはミリティアから視線を外し、高い天井を見上げた。
あるいはそれはアベルニユーに言い聞かせていたのかもしれない。
「荒んだ世界も、背負わされた破滅の秩序も、犯した罪も、心を縛るあらゆる枷を俺は奪い去ってやった」
口元を緩め、アノスは言う。
「それが望みならば、また恋をすればいい。枷のない自由な心で。真実、愛する者に出会うことだ」
創造神は無言で佇む。
アノスが視線を戻すと、彼女は口を開いた。
「盟約を交わそう」
「ほう」
創造神の提案に、魔王は興味深そうな表情を浮かべた。
「転生したら、一番最初に彼女に会いにいってあげて」
「それで?」
「もしも、彼女が恋をしたら、もらってあげて」
真面目な表情でそう口にした小さな神がおかしくて、アノスは声を上げて笑った。
「くはは。もらってくれと来たか。あのじゃじゃ馬をな。面白いことを言うものだ」
喉を鳴らしてアノスは笑う。
淡々とミリティアは言った。
「神は冗談を解さない」
「考えておく」
<転生>の魔法に、アノスは視線を向けた。
神族の転生は、魔族や人間のそれとは勝手が違う。
それも、秩序と切り離すとあっては、尚更だろう。
「名前を決めておくか」
ミリティアは瞳に疑問を浮かべ、アノスの顔を覗く。
「アベルニユーは俺の子孫として生まれる。神の秩序を失う以上、お前とて探すのは困難だ。<破滅の魔眼>の他にも、目印をつけておいて損はあるまい」
アベルニユーは、アノスが魔法で生み出す魔族の子孫として生まれる。
子孫たちの根源に働きかけ、その教えを潜在意識に代々受け継がせ、名前を決めることぐらいはできるだろう。
「思いつかぬなら、俺が決めるぞ」
「サーシャ」
ミリティアは言った。
「サーシャはどう?」
「良い名だ」
アノスの言葉に、創造神は微笑みを見せた。
「ありがとう」
アノスは振り向き、彼女に問う。
「お前はどうする?」
一瞬、ミリティアは返答に詰まる。
しばらく考えた後、彼女は優しい表情で言ったのだった。
「どこかで、この世界と、あなたを見守っている」
遠い日に、なぜか消えた記憶の欠片――
ということで、予定通り戻って参りました。
おかげさまで、書籍第二巻の発売が決定しました!
7月10日頃発売予定です。
それでは本日から、隔日で更新していきますねっ。
またよろしくお願いいたします。