愛弟子は、師の後を継ぎ
悼むような静寂が、聖座の間を包み込む。
それを打ち破るように、ザバァンッと飛沫が上がった。
グラハムの片腕が血の池からぬっと現れ、ディヒッドアテムをつかむ。
「今更、足掻こうと無駄なことよ」
四つの<血界門>に包囲される中、グラハムは根源を貫かれ、<血地葬送>に沈んでいる。
そうまで、術中にはまった以上、抜け出すことは叶うまい。
『……あの日、君は自らの過ちを悔いたんだね』
次元の彼方へと沈みゆくグラハムから、<思念通信>が響く。
『師の心底を見抜くことのできなかった未熟な自分を恥じた。その後悔が、冥王イージェスとして生きる道を示した師の遺言に背を向けさせた。彼と同じく君を亡霊へと変えたんだ』
奴は槍の柄をつかみ、なんとか沈みきらぬように耐えているが、それも時間の問題だろう。
「世迷い言はそれで仕舞いか」
『わからないかい? 彼はなぜ君に亡霊になれと言わなかった? 彼の気持ちを最後の最後に理解した君には、その資格があったはずなのに』
グラハムの言葉に被せ、辺りに、呻くような声が響いた。
「あ……ぅ……ぁ…………あぁぁ…………」
ヴィアフレアだ。
その腹に描かれた魔法陣に、光が集う。
どくん、どくん、と、胎内で鼓動が響く。
途方もない魔力が、彼女の内側で目覚めようとしていた。
「……ボル……ディノス……」
譫言のように呟き、ヴィアフレアは細い指先を腹部に当てた。
「……待ってて……もうすぐ……産まれるわ……わたしたちの赤ちゃん……」
表情を変えず、冥王は言った。
「どんな化け物を産むつもりか知らぬが、それまで生きておりはせん」
『どうかな? 僕を滅ぼすまで待っていれば、彼女がアレを産むのを止めることはできない。胎児は、まもなく体を持つ。堕ろすなら今の内だよ』
「些末なこと。産まれてから葬ればいい話よ」
確かに、道理だ。
何者か知らぬが、生まれたての赤ん坊如き、軽くあやしてやればよい。
『君にそれができるかい?』
ずず、とグラハムが血の池に沈み、その手が槍から放れようとしている。
一方で、ヴィアフレアの胎内で産まれようとしている根源は、徐々に強く、激しく魔力を発し始めていた。
冥王は揺さぶりに応じることなく、グラハムに隻眼を向けている。
奴がどう出ようと、その魔槍にて対処しただろう。
なす術もなく、ゆっくりとグラハムの手は槍の柄から剥がれていき、そうして限界を迎えたかのように、完全に放れた。
その腕が、血の池に沈む。
確かに、根源が消えていったかのように見えた。
刹那――
イージェスは血の池からもう一本のディヒッドアテムを作りあげ、ヴィアフレアめがけて突き刺した。
「……ぅっ……あっ……!」
次元を越える紅血魔槍の穂先が、ヴィアフレアの腹を貫通する。
「……ぅ……や……めて……やめてちょうだい……この子は……!」
「紅血魔槍、秘奥が壱――」
イージェスの槍が、ヴィアフレアの胎内にいる子に、穴を穿つ。
「――<次元衝>」
産まれようとしていた根源は、次元の裂け目に飲まれ、遙か彼方へと飛んでいった。
聖座の間に降り注いでいた光のヴェールがなくなり、設置されていた座具が魔力の粒子となりて、霧散する。
「いかな怪物と言えど、母胎の外に出て生きておられる胎児はいまい」
「……い、いや…………」
ヴィアフレアが呆然と目を丸くする。
「……嫌……わたしと、ボルディノスの……」
首を左右に振り、彼女は激しく取り乱していた。
「いやああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
その絶叫とともに、沈んだはずのグラハムの手がイージェスの足をつかんだ。
冥王が視線を険しくする。
消滅していた根源が、なぜか、またそこにあるのだ。
血の池から、ぬっと顔を出し、グラハムが人の良さそうな笑みを浮かべる。
「ほら、君は彼女を見捨てられなかった」
イージェスは、ディヒッドアテムに違和感を覚え、抜いた。
槍の先が、綺麗に消えていた。
「ぬあっ……!!」
這い上がらせまいと、冥王はもう一本の紅血魔槍で再びグラハムの胸を突き刺す。
魔力を込め、全身の筋肉を躍動させて、再び次元の果てに沈めようと、押し込んでいく。
バチバチと、奴の根源からは雷の血が溢れ出す。
緋電紅雷が紅血魔槍を伝い、イージェスの体を焼いた。
しかし、それでも槍を放さず、そのまま冥王は真下に槍を突き落とす。
「迷うな。沈め」
「遅いよ」
紫電が走り、ディヒッドアテムが切断される。
グラハムが左手に万雷剣ガウドゲィモンを携えていた。
「……ぐっ……!!」
間髪入れず、イージェスの足を万雷剣で突き刺し、グラハムは飛沫を上げながら、血の池から脱出した。
そのまま、万雷剣を一閃すれば、走った紫電が四つ<血界門>に傷痕をつける。
傷を広げるかのように雷が一気に広がり、爆発した。
ガラガラと門が崩れ落ち、血の池が消滅する。
「先に、僕がちゃんと滅びたのか、もっとよく見ているべきだったね」
グラハムは言った。
「君の言う通り、アレが産まれた後に滅ぼすのが、正しい選択だったんだよ。だけど、君はそれができなかった。わかっていたのにね」
奴が手をあげると、ヴィアフレアをはりつけにした十字架がゴゴ、と動き、中二階から、落ちてくる。
ズドンッと、それは、グラハムと冥王の間に突き刺さった。
手足から杭が抜け、解放されたヴィアフレアが前のめりに倒れる。
「……ごめ……ごめんなさい……ボルディノス……わたし……」
彼女は振り向き、沈痛の表情を浮かべた。
「いいんだよ、そんなことは」
グラハムが言うと、ヴィアフレアはほっとしたように笑顔になった。
「筋書き通りだからね。君は、彼の隙を作るために連れてきたんだ。ありがとう」
「……ボルディノスの役に立てたのなら……」
立ち上がろうとしたヴィアフレアは、しかし、力が入らず、再び倒れた。
手を床につき、身を起こそうとするが、体が動かない。
魔法を使おうとしても、魔力がまるで操れなかった。
「……どう……して…………?」
「わかっていたはずだよ、一番。彼女を救ってももう意味はない。何度も<母胎転生>の母胎となったその体は、根源は、もうどうしようもないぐらいに痛んでいる。出産に耐えられなかったかもしれないけど、胎児を失った今、どのみち彼女は生きていくことはできない」
ヴィアフレアにはまるで取り合わず、グラハムは冥王に言葉を投げかけた。
「え…………?」
戸惑ったように覇王は、グラハムの顔を見た。
彼はいつも通り、人の良さそうな表情を浮かべている。
ヴィアフレアはどうにかその身を起こし、グラハムのもとへ走っていく。
「紅血魔槍、秘奥が壱――」
イージェスが槍を突き出す。
「――<次元衝>」
襲ってくるその魔槍に、ヴィアフレアはぐっと身構えた。
しかし、難なくグラハムの万雷剣が、それを弾き飛ばす。
「……あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
ヴィアフレアの体に鮮血が滲む。
グラハムは、万雷剣にてヴィアフレアを貫いていた。
「……どういう…………?」
「君は死ぬんだよ、ヴィアフレア。滅ぶのかもしれないね。ともかく、これでお別れということだよ」
「……嘘……」
信じられないといった表情で、ヴィアフレアは彼を見た。
「……嘘でしょ……だって、ボルディノスが、わたしにそんなことするわけないわ……」
「もちろんだよ」
魔剣を胸に刺されながらも、彼女は、ぱっと表情を明るくする。
「じゃあ……」
「僕はボルディノスじゃないからね」
なにを言われたかわからないといった風に、覇王は呆然とした。
「ボルディノス……? なにを言って……」
「初代覇王ボルディノスは、僕の手駒の一つだったよ。彼は君と同じぐらい騙されやすくてね。色々と言うことを聞いてくれた。最後は殺したんだ。僕は君に代行者に生まれ変わったと嘘をつき、彼になりすました」
「……なり……すました……?」
「僕をボルディノスと思ってくれたら、都合がいいからね。<母胎転生>には、君の体が最適だったんだよ」
目を丸くして、ヴィアフレアは彼を見据えた。
「恋に恋をしていたんだね、君は。相手なんか見ていなかったんだよ。変わってしまったボルディノスを必死に元に戻そうとがんばってきたけれど、変わったんじゃなくて、別人だったんだ」
当たり前のようにグラハムは言う。
「君はそんなことにさえ気がつかなかった。君が抱いていた恋が、その愛が本物だったら、僕がボルディノスじゃないことに気がついていたんじゃないかい?」
「……だって……そんなの……」
「わかるわけがない、と思ったなら、君の愛は、その程度だったんだよ、ヴィアフレア」
「騙しておきながら、大層な物言いよ」
イージェスは、グラハムに魔槍を向けた。
先程の<次元衝>は、彼女を救おうとしたものだったのだろう。
「人聞きが悪いね。僕は真実の愛が見たかっただけだ。いいじゃないか。偽物だったんだから、失ったものなんてなにもない」
「違うっ……違う違う違う違うっ!!」
血を吐きながらも、ヴィアフレアは必死に声を上げる。
「なにが違うんだい?」
「……わたしは……ボルディノスを……彼と約束を……生まれ変わったら、もう一度……」
「君はその約束を破り、見ず知らずの男を恋人にしていた。さっきまでその身に、僕の子を孕んでいたね」
「ちがああああああああああああああああぁぁぁぁぁうっっっ!!!」
ヴィアフレアが、その右手に、最後に残った魔力をかき集める。
「八つ当たりはみっともないよ」
万雷剣がヴィアフレアに押し込まれた。
「……ぁ…………!!」
彼女の体から、魔力が抜けていく。
「……ボルディノスを……返……して……」
涙をこぼしながら、ヴィアフレアは言葉を絞り出す。
魔剣を抜き、彼女の体を反転させると、グラハムはイージェスに向かって突き飛ばした。
「もう話してかまわないよ」
グラハムの言葉と同時に、<契約>の魔法が一瞬ちらついた。
槍を構えていた冥王は、咄嗟に彼女の体を抱きとめた。
「ねえ……」
涙ながらに、ヴィアフレアは訴える。
「……恋じゃ、なかったの……わたしは、ボルディノスを……?」
「正しい想いを持とうと、間違えるものよ。人の心を持たぬ奴には、理解できぬだけのこと」
冥王は、ヴィアフレアの体に魔法陣を描く。
<転生>の魔法だ。
「ボルディノスも余が転生させた。今度こそ、会って、確かめて来るがよい」
ヴィアフレアの体が光に変わり、すうっと立ち上っていく。
冥王がそれを優しい瞳で見送ったその一瞬の隙に、紫電の刃が彼の心臓を貫いていた。
「……がっ……は…………」
「君には負い目があった。僕との<契約>で、君はヴィアフレアに真実を話すわけにはいかなかった」
イージェスに万雷剣を突き刺し、至近距離でグラハムが囁く。
「せめて彼女が望まぬ子をこれ以上産むことのないように、君は願ってしまったんだね。結局誰も救えないことを知っていながら」
「……ぐぅ……ぅ……」
根源を抉りながら、グラハムは軽々しく言った。
「やっぱり、君は同じだよ。最後の最後に、非情に徹しきれなかったセリス・ヴォルディゴードの愛弟子だ。彼が同じ道を選ばないように遺言を残したというのに、君は師の言いつけを守ることができなかった」
「……グラ……ハム……貴様は……」
イージェスの手がグラハムの顔に触れる。
万雷剣が根源に紫電を発すると、びくんっと冥王の体が震え、指先の力が抜けた。
グラハムの顔に、イージェスの血の跡が引かれる。
「平和な時代を生きられない、できそこないの亡霊だ」
そのままガウドゲィモンを振り抜けば、イージェスが消滅していく。
血のように赤い粒子が、ふうっとその場に立ち上り、やがて彼の姿は消えた。
何食わぬ顔をして、グラハムは俺に視線を向けた。
「やあ。待たせたね」
無言で奴を見返した。
ひどく辺りが、静まり返っているように思えた。
「なに、それほどでもない」
イージェスが引いた赤い線を俺は踏み越え、奴の前へ歩み出る。
「一つ尋ねるが、ヴィアフレアの腹の中にいたのは、エルロラリエロムか?」
「そうとも言うし、そうじゃないとも言う。<母胎転生>の魔法と狂乱神アガンゾンで、整合神を改造し、その秩序、選定審判の内容を書き換えてね。簡単に言えば、<全能なる煌輝>エクエスを作れないか試してみたかったんだ」
「なにが目的だ?」
「好奇心だよ。気になるだろう。世界の深淵にはいったい、なにがあるんだろうって」
「くだらぬ」
奴の言葉を一蹴し、俺は足を止める。
「ろくでもないことのために、ずいぶんと人の想いを踏みにじったものだ」
「おや? 珍しいね。怒っているのかい? だとしたら、嬉しいよ」
腹の底から、暗い笑いがこみ上げる。
「く……くくく」
こんなにもおかしいのは、生まれて初めてのことかもしれぬ。
「くくく、くはははっ。怒る? なにを言っている、グラハム。俺が怒っているだと?」
指を鳴らせば、先程まで俺がいた場所にイージェスの姿が現れる。
<根源再生>だ。それによって、滅びた根源を再生した。
「我が父、セリス・ヴォルディゴードは、俺の記憶を奪った」
淡々と俺は告げる。
「憎しみを捨てよ。貴様を恨まず、平和のために邁進せよ。それが、父が唯一、俺に遺した想いだ」
守らねばなるまい。
決して復讐に目が暗んではならぬ。
だからこそ――
「感謝しているぞ、グラハム。貴様が滅ぼさねばならぬ男で、心の底から喜びが溢れて止まらぬ」
右手をゆるりと前へ突きだし、手の甲を向け、魔力を込める。
平和を胸に抱き、俺は笑った。
いつものように、自然と。
けれどもどこか、いつもと違う想いが、顔の形を勝手に変える。
「その礼だ。今の時代がいかに復讐とは無縁の、平和だということを――」
俺は、今、ちゃんと笑えているか。
「――思い知らせてやる」
決して、許さぬ――