魔の深淵に最も近き者
床に手をつくギリシリスを見ながら、エールドメードは僅かに唇の端を持ち上げた。
異変を見つけたのだ。
「おかしいと思ったかね? <熾死の砂時計>の砂は落ちきった。吾輩はそろそろ死んでいなければおかしいというに、何故死んでいないのかと」
緋碑王は床に魔法陣を描く。
すると、黒いオーロラが彼の周囲を覆い、魔法障壁と化した。
<四界牆壁>だ。
エールドメードが興味深そうに、その魔法を見つめる。
「ありえないと思ったかね? 吾輩の根源では、膨大な魔力を必要とするこの魔王の魔法は使えないはずだと」
ゆっくりとギリシリスは身を起こし、立ち上がった。
周囲に纏った<四界牆壁>が、<熾死の砂時計>の呪いを完全に封殺していた。
「言ったはずなのだがねぇ。熾死王、汝の魔法はこけおどしの手品にすぎない。そんなものでは、魔法の深淵に迫る吾輩を殺すことなど到底できないのだよ」
ギリシリスのジェル状の体にみるみる魔力が満ちていき、灰みがかった毒々しい緑色へと変化する。
魔眼でその深淵を覗き、エールドメードは、カッカッカと愉快そうに笑った。
「僥倖だ、僥倖、不幸中の僥倖ではないかっ! 見たか、魔王の右腕。あのギリシリスが、根源の矮小さにかけては他の追随を許さないほど平凡極まりないあの男が、<四界牆壁>だっ!」
興奮の色を隠せないエールドメードに対して、シンは冷静に述べた。
「アハルトヘルンにいたときよりも、魔力が格段に増していますね」
「そう、そうだ、その通りだ。しかし、奴の根源は、二千年前の時点でもうこれ以上ないというほど完成されていた。伸びしろがまったくといっていいほどなかったのだ。それがどうだ? あの魔力。さてさて、いったいなにをした?」
ギリシリスが得意気にジェル状の顔を歪める。
「聞きたいかね?」
「カッカッカ、オマエに聞いてどうするのだ、緋碑王? せいぜい返ってくるのは、他人の手柄を、自分の魔法研究の成果として自慢するだけではないかっ」
熾死王の安い挑発に、ギリシリスが苛立ったように魔眼を剥いた。
「いやいや、ギリシリス。いやいやいや。なにもオマエを小馬鹿にしているわけではないぞ。無論、聞かせてもらいたいところだが、オマエが正直に話す保証はないではないか」
更にギリシリスの神経を逆なでするように、エールドメードは言う。
「今日一日、嘘をつかないと契約するのなら、信じてやってもいいのだが――」
熾死王は<契約>の魔法をちらりと見せる。
「――まあ、無理な話だ。いかに、こけおどしやハッタリを揶揄したところで、正面切っての魔法戦を戦い抜く力はオマエにはない。どんな不利な<契約>だろうと真っ向からねじ伏せる、暴虐の魔王とは、違うのだから!」
暴虐の魔王をこれでもかというぐらい強調し、<契約>の魔法を引っこめようとしたそのとき、緋碑王が魔力を飛ばし、強引に調印した。
「甘く見てもらっては困るのだよ。汝と違い、吾輩は嘘など必要ないのでねぇ」
ギリシリスは自信をありありと覗かせる。
エールドメードは満足そうにうなずき、言った。
「では、聞かせたまえ。緋碑王、オマエはなぜそれほどの根源を手に入れることができたのだ?」
「汝らは、この部屋に置かれていた神族の遺体を見たはずだねぇ」
意気揚々と緋碑王は語り始めた。
「これは、セリス・ヴォルディゴードの研究だ。あの男は、<転生>の更に深淵に踏み込んでいた。力を引き継ぐだけではなく、根源の持つ魔力を更に高め、進化させる。あれらの遺体は、そのための母胎なのだよ」
転生するための母胎か。
二千年より前、ツェイロンの集落にあった母胎も恐らくはそうだろう。
あそこでセリスは、この研究を手に入れたのか?
それとも、あれは改竄された過去か?
今のところ、改竄する意味があるとも思えぬが。
「<母胎転生>。これは母胎の根源を使うことによって、進化を促す魔法でねぇ。汝らに話してもわからないとは思うが、母胎の力を引き継ぎ、あるいは母胎との干渉によって、根源の突然変異を引き起こす根源魔法だ」
魔法研究の成果を発表するように、ギリシリスは饒舌に語る。
「だが、セリスの研究していた<母胎転生>はまだ未完成だった。人間や魔族を母胎にすることは可能だったが、神族については課題が多くてねぇ。あの男は、それを完成させてくれないかと吾輩に頼みに来たということだよ」
<母胎転生>の研究を知り、ギリシリスは飛びついたというわけだ。
根源の弱さを克服したかった奴には、まさに渡りに船だっただろう。
無論、セリスはそれを見越していたに違いない。
戦闘にはまるで不向きな緋碑王だが、魔法研究に関しては大量の知識を持っている。独創性はないが、堅実だ。
すでに<母胎転生>という土台がある研究においては、役に立つと見込んだのだろう。
「そして、とうとう吾輩は深淵の底へ至る魔法、<母胎転生>を完成させたというわけだ」
ぐにゅぐにゅとジェル状の体を歪め、ギリシリスは魔力の粒子を撒き散らす。
そこには、確かに神の秩序のような力が伴っていた。
「わかるかね? 吾輩は自らの根源に相応しい母胎を探した。そうして、その神の腹を改造し、生まれ変わったのだよ。魔族の力と神の秩序を掛け合わせた、最も魔法の深淵に近き存在。それが、この緋碑王――いいや、あえて言わせてもらおうかねぇ」
高らかにギリシリスは声を上げた。
「暴虐の魔王を超えし、魔の深淵に最も近き者。深淵王ギリシリス・デッロと!」
指先をシンとエールドメードに向け、奴は魔法陣を描く。
「魔王の配下に収まっている汝らでは、到底相手にはならないねぇ」
ギリシリスの体が発光したかと思うと、彼は言った。
「秩序魔法<輝光閃弾>」
奴の指先から、目映い光線が発射される。
光速で迫るそれを、シンは見切ってかわしたが、エールドメードはまともに食らった。
「……ぐふぅっ……」
と、嬉しそうな悲鳴が上がる。
「見たかね? 輝光神ジオッセリアの秩序すら、今の吾輩は魔法として使える。つまり、こんなこともできるということだねぇ」
全身に魔法陣を描き、奴は得意気に言った。
「秩序魔法<輝光加速>!」
瞬間、奴の体が光の速度で動き始めた。
「フフフ、見えるかね? 光速で動く吾輩の姿が。言っておくが、こんなチャチな魔法を見せたいわけではないのだよ。あくまでこれは、これから披露する究極の魔法のお膳立てにすぎないのだからねぇ」
ギリシリスが光速で動き回りながら、<輝光閃弾>を全身から放出し、部屋中に光の魔法文字を刻みつけていく。
「滅ぼすだけの魔王の魔法とはわけが違う。これは、世界の秩序を塗り替える魔法。あらゆる魔力が、あらゆる魔法が、吾輩に隷属し、付き従う。深淵に最も近い秩序魔法。その名は、<魔支配隷属服従>!!」
<輝光閃弾>が描いた魔法陣が、その効力を発揮すると、徐々に空気中の微力な魔力が、緋碑王に集い始めた。
「見たまえ。すべての魔が、あらゆる魔法が、吾輩にかしずく瞬間を。それはやがて、汝らの根源にまで及び、この吾輩に頭を垂れるのだ。魔王ではなく、この深淵王ギリシリス・デッロに絶対なる服従を誓うことに――ごびょおおぉぉぉぉっっ!!!」
光速で動き回るギリシリスが、光速で吹っ飛んでいった。
シンの足払いによってすっころび壁に衝突した緋碑王は、身を起こそうとした瞬間、その体を断絶剣デルトロズによって串刺しにされた。
「がぎゃぁぁっ……!!」
「他に訊いておくことはありますか?」
軽くギリシリスの動きを封じ、シンは熾死王を振り返った。
彼の怒りを察したか、エールドメードは好きにしても構わないといった風に肩をすくめる。
「ギリシリス・デッロ」
冷めた瞳で、シンは緋碑王を見つめた。
「我が君を超えたなどという不敬な発言、万死に値します」
一閃。シンは断絶剣にて、ギリシリスの根源を斬り裂いた。
瞬間、彼は<根源再生>にて蘇る。
「ぬぐぅ……」
蘇ったそばからシンはその根源を切断し、再びギリシリスが蘇る。
「がぁぁっ……」
根源を七つに分割にしているギリシリスは、一瞬でそのすべてが滅びぬ限り、<根源再生>にて何度でも蘇る。
だが、シンは構わず、魔剣を振り続けた。
その速度は光速を遙かに超え、みるみる加速していく。
一呼吸に千を数え、次の瞬間には倍に加速し、今はもう五千を超えた。
彼の魔力が無と化していた。
「断絶剣、秘奥が肆――」
瞬きの間に、一万回、断絶の刃が振るわれる。
「<万死>」
「がばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばっっっ!!!」
<根源再生>の再生速度を超え、シンはギリシリスの根源を滅多斬りにし、その場に霧散させた。
瞬間、彼は険しい視線を横に向けた。
神々しい魔力を発する、巨大な石の瞳がそこにあった。
魔眼である。それはギロリとシンを睨みつける。
深淵を覗くまでもなく、明らかに神族だった。
「<神座天門選定召喚>」
ギリシリスの声が響き、その石の瞳の中から、奴のジェル状の体が現れた。
その指には、選定の盟珠が輝いている。
神を召喚し、寸前のところで自らを救出させたのだろう。
「カッカッカ、なんだ、緋碑王。オマエが最後の八神選定者か?」
エールドメードの問いに、自慢するかの如く緋碑王は答えた。
「魔王が選ばれたのだから、当然のことだねぇ。吾輩は八神選定者の一人。この魔眼神ジャネルドフォックに選ばれし、探求者なのだよ」
まさかの――
【書籍化情報】
とうとう3月になりまして、書籍発売9日前です。
明日で連載を始めてちょうど11ヶ月、去年の4月から毎日コツコツ書いてきたものに
いよいよ審判が下るのかと思うと、期待半分、不安半分なのですよ。
願わくば、書籍でもアノスたちの物語が、
最後まで続けられますようにといった想いです。
それでは、WEBの更新もがんばっていきますねっ。