記憶の在処
「ふむ。ミリティアが残したものに間違いなさそうだな」
俺がアルカナを救い、彼女の助力によって<創造の月>を使えると信じた上でのメッセージだろう。
「あ、見て。消えるわっ」
サーシャが言う通り、壁の文字は薄れていき、やがて消えた。
アルカナは、<創造の月>の光を当ててみたが、再びそれが現れることはない。
「痕跡の書も使えると知っていたのだろうか?」
アルカナが、俺に疑問を向ける。
『――光を――』の文字が消えていたことを言っているのだろう。
「恐らく、この文字が消されたのは、ミリティアの意志ではあるまい。先程浮かび上がったメッセージに書かれていた、狂乱神アガンゾンとやらの仕業だろう」
「改竄された?」
ミーシャが問う。
「痕跡の書で見た過去と同じく、といったところか。そう考えれば、ミリティアがこんな回りくどい方法で伝えようとしたのもわかる」
「えーっと、その狂乱神アガンゾンっていうのは、色々なものを改竄できるってことなのかしら?」
サーシャがアルカナの方を見る。
彼女は知らないといった風に首を振った。
疑問に答えたのはゴルロアナだ。
「万物万象を狂わし、乱し、改竄する神、それが狂乱神アガンゾンと言われています。その秩序から、まつろわぬ神と見なされておりました。しかし、伝承はあれど、その神の姿を見た者はおりません」
「まつろわぬ神ってことは、ガデイシオラにいた可能性が高いってことよね?」
サーシャの問いに、ゴルロアナはうなずく。
「ええ。あるいは八神選定者の一人、セリスの選定の神が、狂乱神アガンゾンだったのかもしれません」
ミリティアの邪魔をし、この文字を改竄した、か。
「セリスは、選定者に間違いなかったか?」
「恐らくは……ただ彼の神の名も、覚えてはいません。痕跡神の秩序にて、それを見たはずではありますが、過去はあまりに膨大。神の力なくして、すべての記憶を保つことはできないのです」
選定審判を勝ち抜くために痕跡神の力にてゴルロアナは膨大な過去を調べたのだろう。
だが、そのすべてを記憶するのは人の身には不可能というもの。
痕跡神の力にて留めておいた記憶が、その神の消滅とともに消えたということか。
あるいは、痕跡神が消えた後に自然を装って消された。
「八神選定者の残りの一人は知っているか?」
「いえ、それも」
覚えていない、か。
まあ、いいだろう。
恐らく狂乱神アガンゾンはセリスか、あるいは最後の選定者の神だろう。
「ミリティアは狂乱神の存在を知っていた。自らに敵対していることも。それゆえ、改竄されぬように、自らの秩序にメッセージを残しておいたのだろう」
ミーシャが不思議そうに小首をかしげた。
「どういうこと?」
「先程の文字は<創造の月>の光で浮かび上がったのではなく、アルカナの中にあるミリティアの秩序が新しく創造したのだ。改竄する物自体がなければ、狂乱神の秩序も働かぬ」
同じ秩序を有するとはいえ、アルカナとミリティアは別人だ。
残せたのは、このメッセージで限界だったのだろうな。
「創星エリアルが、五つ星だというのも、狂乱神による改竄に備えてのことだろう。つまり、アガンゾンの手に渡れば、痕跡の書と同じく改竄されてしまう可能性が高い」
「狂乱神アガンゾンがセリスの選定神だったっていうのは、ありそうよね。だって、ゴルロアナを覇王城に監禁していたときに痕跡の書を改竄できたんだし」
サーシャが言う。
「アノスの過去を隠そうとしているのはセリスでしょ。だったら、狂乱神は選定者がいないんだから、創星エリアルには手を出さないんじゃないかしら?」
「残り一人の選定者がセリスと同じ目的だった可能性はある。かつて幻名騎士団はディルヘイドにいた。セリスだけではなく、彼らにはミリティアや俺に思うところがあるのかもしれぬ」
これまでのセリスの行動が、奴の独断でなかったなら、戦いはまだ完全には終わっていない。
「冥王がヴィアフレアを連れ去った目的もわからぬことだしな」
「うーん。じゃ、早いところエリアルを手に入れた方がいいわよね。西の帝国インズエルってどこかしら?」
ゴルロアナが首を左右に振った。
「地底には小国が多くありますが、帝国を名乗る国は聞いたことがありません」
「地上の国」
ミーシャが言うと、サーシャが目を丸くする。
「インズエルって……ディルヘイドにはないわよね?」
「アゼシオンだ。連合国の一つだな。大陸の西に位置する三千年ほどの歴史がある国だったか。元々あった古い遺跡に城と街を構えたと言われている。かつては魔法に優れた人間たちがおり、ガイラディーテが台頭する前は、アゼシオンでも有数の大国だった」
俺は魔法陣を描き、魔力で立体的な地図を作った。
地上のものと、地底のものだ。
「アルカナ。先程ディードリッヒが言っていたガングランドの絶壁はどこだ?」
アルカナはすっと指をさし、雪月花を舞わせる。
みるみる地底の地図が完成していき、そこにガングランドの絶壁が現れた。
「ふむ。セリスはすでに創星エリアルの在処に勘づいていたか」
地底にあるガングランドの絶壁と、地上の帝国インズエルを赤く光らせる。
「これって……?」
サーシャが、驚きの声を漏らす。
帝国インズエルのちょうど真下がガングランドの絶壁だった。
「ミリティアが俺に記憶を伝える術をなにか遺したはず、と推測したのだろうな。彼女の魔力を虱潰しに探せば、どこに隠したかわからなくともいずれは辿り着く。時間は十分にあったことだしな」
「じゃ、もう改竄された後ってこと……よね……?」
気落ちしたようにサーシャは俯く。
「そうとは限らぬ。ミリティアとて、俺が転生するのは二千年後だと知っていた。ならば、それまではぎりぎり保つようにしていた可能性はあるだろう」
地図上に描かれたガングランドの絶壁を指す。
「ミリティアは西の帝国インズエルに、創星エリアルを残した。わざわざこの絶壁から行くよりも、地上から行った方が早いだろう。幻名騎士団が、ここに拠点を設けたのは、一朝一夕ではエリアルに辿り着けなかったからとも考えられる」
ならば、まだ希望はあるだろう。
「一度、地上に上がる。幻名騎士団の残党も気になることだ。ガングランドの絶壁も調べるが、同時に地上から西の帝国も調査した方がいい」
言いながら、ゴルロアナに視線を向ける。
「そうディードリッヒに伝えておいてくれ」
「わかりました」
「行くぞ」
<転移>の魔法陣を描き、エーベラストアンゼッタの外に転移する。
そのまま<飛行>で地上を目指した。
「ねえっ、そういえば、いいの?」
サーシャが言う。
「なにがだ?」
「世界が平和なら、過去は求めないようにって、ミリティアのメッセージに書いてあったわ。セリスは滅ぼしたし、幻名騎士団の残党さえどうにかすれば、別に過去を知らなくてもいいわけでしょ? そこに選定審判の終わらせ方が書いてあるわけじゃないわよね?」
「ふむ。サーシャ。世界は平和か?」
一瞬口を噤み、それから彼女は言った。
「……平和だと思うわ。さっき、痕跡の書で見たような、二千年前に比べれば」
「なら、もっと平和にできるかもしれぬ」
「もっとって、これ以上なにを平和にするのよ?」
「終わったこと、と書いてあったがな。果たしてなにが終わったのか。本当に終わったのか。それを知れば、なにかを救えるかもしれぬ。救えれば、世界はまた一歩平和に近づく」
サーシャは、呆れたように笑った。
隣でミーシャは微笑んでいた。
「アノスらしい」
「あなたが言う平和って、きりがないわ」
くはは、と俺も笑った。
「二千年前は地上の戦いが終わればいいと思っていただけだったがな。いざ終わってみれば、それでもまだ悲劇があるのを知った。地底に行ってみれば、そこで起きている争いを終わらせたくなった」
サーシャの言う通り、次から次へときりがない。
「悪いな。配下のお前たちには苦労をかけるが、どうにも俺は貪欲だ」
「わたしはお兄ちゃんの力になりたいと思っているのだろう」
アルカナが言う。
ふっとサーシャは微笑した。
「魔王様の強欲さには困ったものだわ」
「手伝う。いつでも」
ミーシャがそう背中を後押ししてくれる。
天蓋を飛び抜け、俺たちは地上に戻ってきた。
すぐに俺の配下と魔王学院の生徒たちに<思念通信>を送る。
「休みのところすまぬが、急ぎデルゾゲードへ集まってほしい。無理にとは言わぬ」
そう伝えると、<転移>を使った。
転移してきたのは、デルゾゲード魔王城、玉座の間である。
「メルヘイス」
そう<思念通信>で呼びかけると、長い白髭を生やした老人、七魔皇老メルヘイスが<転移>で姿を現した。
「帝国インズエルについて、なにか情報はあるか?」
すると、メルヘイスは驚いたような表情をした。
「どうした?」
「……いえ、ちょうどそのインズエルのことで、アノス様にご相談しようと思っていたところでございました」
丁重な物言いでメルヘイスは答えた。
視線で促せば、彼は説明を始める。
「アゼシオンが議会制になることについて、ガイラディーテの者たちを中心とした勇議会が結成された、という話はすでにしたかと存じます」
確かに、聞いたな。
新しいアゼシオンの舵取りをする者たちが集った団体だ。
「彼らはアゼシオンの有力な国々へ出向き、それについての交渉を取り計らっておったのですが、インズエルに向かった勇議会が期日になっても戻らないと、先程イガレスより報告を受けまして」
「ふむ。<思念通信>は?」
「つながりませぬ。<転移>で近づこうと思いましたが、どうもかつて勇者たちが得意とした結界が張られており、国には入ることができない様子」
<思念通信>と<転移>を封じる結界か。
「<封域結界聖>だな。今の人間に使い手が残っているとは思えぬが?」
なにせ<転移>は失われた魔法だったのだからな。
「……転生した勇者かもしれませぬ。あるいは、二千年前の魔族が人間に転生したことにより、使えるようになったということも」
メルヘイスは重たい口調で言う。
「インズエル国内へは、力尽くで入ることもできましょうが、勇議会を人質に取られている可能性もあり、迂闊に動くことはできませぬ」
確かに、中の状況がわからぬことには。
<封域結界聖>であれば、魔眼もそうそう通らぬ。
「勇議会がインズエルに入ったのはいつだ?」
「一週間前です。遺跡城下町エティルトヘーヴェに滞在する予定でしたので、そこにいる可能性は高いのですが……」
定かではない、ということか。
「ふむ。ちょうどインズエルに行こうと思っていたところだが、面倒なことだ。魔族が迂闊に入国すれば、勇議会の者に危険が及ぶかもしれぬということか」
「左様でございます」
タイミングの悪いことだ。
いや、悪過ぎるといった方が正しいか。
偶然にしては、出来すぎだ。
「途中まで<転移>で行って、姿を隠して潜入するしかないわよね?」
「<封域結界聖>の境界線は、重点的に索敵しているだろうがな。内側に<転移>で入れぬ以上はそこさえ手厚くしておけば、潜入される心配はない」
サーシャが視線を険しくする。
「インズエルに出入りしている人に変装する?」
ミーシャが提案すると、サーシャが言った。
「行商人とか? でも、もし勇議会を拘束してるなら、入国を許可される人がいるかしら? ガイラディーテやわたしたちが潜入してくる可能性は百も承知だろうし」
「インズエルへ向かった者が引き返してきたという情報は得ています。恐らくは入出国が制限されているでしょう」
メルヘイスの説明に、サーシャは困ったように頭を捻った。
「せめて、勇議会の人がどうなったのかだけでもわかればいいんだけど……わかったら苦労しないわよね……」
「ふむ。わかったぞ」
「はぁっ!?」
唖然としたように見つめてくるサーシャをよそに、俺は魔法陣を描く。
<遠隔透視>に映ったのは、ある者の視界だった。
場所は石造りの室内だ。薄暗く、埃っぽい。
倉庫のような場所に思えた。
「どの者の視界だろう?」
アルカナが不思議そうに問う。
「勇議会には勇者学院の学院長も参加している。エミリアという魔族だ」
「あ……」
と、サーシャが声を上げれば、ミーシャが口を開く。
「<思念の鐘>?」
「どうやら身につけていったようだな。術者の魔力にもよるが、<封域結界聖>の影響下でも、<思念の鐘>を経由すればぎりぎり魔法線がつなげられる」
視界はゆっくりと進んでいる。
どうやら、息を潜め歩いているようだ。
捕らえられたわけではなさそうだが、あまり楽観できる状況とも思えぬ。
「話しかけられないの?」
「<思念の鐘>は身につけたものが、呼びかける魔法具だ。通常時ならばともかく、<封域結界聖>の中では向こうから呼びかけてもらわぬことにはな」
物音がして、エミリアが勢いよく振り向く。
そこに見知らぬ顔が映った。
アッシュブロンドで短めの髪をした男だ。
聖なる鎧を纏い、帯剣している。
エミリアは警戒するように後ずさった。
「待った。私はそなたの敵ではない」
その男は、敵意がないことを示すため、両手を上げた。
「私はカシム。二千年前、ガイラディーテ魔王討伐軍に所属していた勇者カシムだ」
レイの兄弟子現る――