幻名騎士団
二千年以上昔のディルヘイドだった。
湿地帯には、炎の体を持った魔族がいる。
魔導王ボミラスだ。
「――さすがは、滅びを宿命づけられたヴォルディゴードの最後の一人よ。その心も、とうの昔に滅びし、亡霊なのであろう」
そう言い残し、ボミラスは去っていった。
特に気にした素振りも見せず、セリスは幻名騎士団一同に言った。
「ツェイロン家の集落へ向かう」
風の如く、彼らは駆け出す。
<幻影擬態>と<秘匿魔力>にて、幻名騎士団は体も根源も透明化しており、よほどの魔眼の持ち主でなければ、感知することさえできなかっただろう。
痕跡の書が再現した過去の光景だというに、それでもなお、並の者には見ることがかなわぬほどの熟練度だった。
「団長」
凄まじい速度で駆けながらも、槍を手にした男が言った。
イシスというのは、魔族に伝わる古い言葉の一つで、団長という意味だ。
「よろしかったのですか?」
セリスは槍の男を一瞥し、言った。
「なにがだ?」
「ツェイロン家の集落は魔導王ボミラスの領土。あそこへ向かうには、結界を二、三迂回し、その内一つは突破しなければなりませぬ。手遅れになるのでは?」
「多少の時間がかかったところでなんだと言うのだ」
とりつく島もなく、セリスはそう答えた。
「……ツェイロン家の集落には、ちょうど、あなたの奥方が身を寄せていたはず。事情を話せば、魔導王とて、あなたの顔を立て通してくれたでしょう。今からでも遅くはありません。私から申し出ても……」
「一番」
ジェフ……古い言葉で一番、とセリスはその男を呼んだ。
「我らは亡霊。なにを慮る必要がある?」
一番は閉口し、奥歯を噛む。
しかし、すぐに食い下がるように言った。
「……子供が、生まれるのではありませんか?」
瞬間、雷が走ったと見紛うばかりに、セリスは万雷剣を抜いていた。
その切っ先は一番の鼻先に突きつけられている。
「黙っていろ。ルールはわかっているな?」
一番はうなずく。
「この外套を纏うとき、我らはしがらみなき亡霊と化す。名もなければ、家族もおらぬ。その禁に触れるならば、本物の亡霊になるのみだ」
槍の男は俯く。
そうして、静かに言った。
「……それでも、師よ」
まっすぐ一番は、セリスに言った。
「最も守るべき者を守らずに、なんのための力だというのですか? 我らはそれでは、本物の亡霊のようではありませんか」
容赦なく、セリスは万雷剣ガウドゲィモンを一番の首に突き刺した。
「……がっ……ぁっ……!」
「小僧が。未熟なクチバシで囀るな」
紫電が迸る。
もうすでに五度ほど一番は死に、その度に<蘇生>で蘇っている。
「腕はまあまあ上がったが、思想は幼い。亡霊になりきれぬ者など不要だ。いっそここで滅びるがいい」
ゆっくりと一番はその手を、ガウドゲィモンの剣身にやる。
「……滅ぼすならば、それで結構……しかし、師よ。言わせてもらおう。あなたは、間違っています」
一番は、その剣身を握り締める。
紫電に手は焼かれるが、それでも彼は言った。
「魔導王ボミラスは、ディルヘイドで最も寛大な王。争いを好まず、率先して他の魔族を殺すこともない。人間にすら慈悲を向ける、情け深い王」
「寛大だと? 情け深い? 一番、そんな言葉はこのディルヘイドには存在しない。食うか食われるか、力のみが支配するのが我々魔族だ。情け深さなど、踏みにじられ、塵芥の如く捨てられる」
ぐっと剣を押し込めば、一番は口から血を吐いた。
「……師よ。あなたは臆病者です。他者を信じることができず、自らの弱味を曝すこともできない。力を合わせなければ、守れないものもある。現にあなたは、自らの子妻を死なせようとしている……」
「それがどうした?」
セリスは一蹴した。
「……どうした、と……あなたの子と、あなたの奥方でしょうっ……」
「小僧。ボミラスがなんと言ったか、もう一度よく考えてみるがよい」
一番は、ぐっと歯を食いしばり、痛みに耐える。
セリスの言葉の意味は、わからないようであった。
「滅びを宿命づけられたヴォルディゴードの最後の一人、俺を指してそう言った。その意味、自分の頭で考えて答えが出ぬようならば、育て方を間違ったぞ」
「……存じております。代々滅びの根源を継ぐ、ヴォルディゴードの血統は、その子供が自然交配では生まれづらいことは」
息も絶え絶えになりながら、一番は言う。
それは事実だ。ゆえに、七魔皇老は魔法により生み出された。その後の子孫たちが、自然交配でも生まれるように調整を施されて。
「奥方が、子を宿したことさえ奇跡でしょう。生むとなれば、母子ともに命の危険に関わるっ! だからこそ、ツェイロン家の助力を請い、その集落に身を寄せたのではありませんかっ!!」
剣をつかむ一番の手から血が溢れるとともに、夥しい量の魔力が迸る。
血液が付着した万雷剣はその力を鈍らせ、少しずつ、彼の喉もとから抜けていく。
「あなたは、あなたのために、命懸けで子を生もうとされている奥方の優しささえも、踏みにじるおつもりかっ!? 彼女は、ただ亡霊の子を生むための道具でしかなく、いくらでも使い捨てられるというのですかっ!!」
激昂する一番を、セリスは冷めた目で見つめた。
「そう、怒るな」
「いいえ、師よ。これだけは答えてもらいましょうっ! 死にかけた私を拾っていただいた恩には感謝しております。それに報いるためならば、亡霊という名の道具になることも覚悟の上。しかし、道具であっても、主人の幸せぐらいは願いたいっ!」
「一番」
セリスの<波身蓋然顕現>にて、一番の全身が斬り裂かれる。
「……がっ……」
さすがに堪えきれず、一番はその場に仰向けに倒れた。
「言葉を聞いたか? 俺は冷静になれと言っている。怒りは死を呼び、滅びを招く――」
倒れた男の心臓にセリスは万雷剣を突き刺した。
「こんな風にな」
紫電がバチバチと一番の全身に走る。
「……ぐっ……がああぁぁぁぁっ……! うああああああぁぁぁぁっ……!!」
「なぜ、わからぬ、一番。我らは亡霊。怒りも、悲しみも、喜びも、楽しみも、なに一ついらぬ」
息も絶え絶えになり、男は言った。
「……では、なんの……ために……?」
「亡霊になれ、一番。そんな疑問など消え失せる」
顔を近づけ、セリスは至近距離で囁く。
「迷いはない。疑問もいらぬ。そんなものは、あってもらっては困る。滅ぼしたいものを滅ぼすのが、亡霊だ。わかるな、一番」
今にも根源を滅ぼそうとばかりに、セリスはその魔眼を一番に向ける。
「……わかりません……」
セリスの魔眼が冷たい輝きを発する。
「親に捨てられたお前だ。さぞ世界に失望していると思ったが、拾ったのは間違いだったかもしれぬな。亡霊には向いていない」
魔剣を一番から抜き、セリスは身を起こした。
「抜けられると思うな。貴様は俺が拾ったのだ。俺のために滅びてもらう」
槍を地面に突き刺し、それを杖代わりに一番はよろよろと起き上がる。
踵を返したセリスの背中に、彼は言った。
「抜けるつもりはありません。あなたが間違っていることを証明するまでは」
セリスは嬉しそうに笑った。
「ついてくるがいい。我が背中を。貴様がいずれ、絶望を知り、それでもその心を変えぬのならば、亡霊らしく滅ぼしてやろう」
ノイズが走り、すうっと彼らは消えていく。
彼らだけではなく、ディルヘイドの風景も消え、視界は牢獄に戻った。
「痕跡の書の効果が切れました」
ゴルロアナが言った。
「……ねえ。団長って呼ばれてたの、どう見てもセリスよね?」
「そのようだな。外見だけではなく、魔力もそうだ。あれだけの魔法を使う者は、二千年前とてそうはいまい」
うーん、とサーシャが首を捻る。
「性格、全然違わないかしら? 口調とかも」
確かに、これまでのセリスとは違ったな。
「考えられることはいくつかあるが」
「アノス」
ミーシャが、痕跡の書を指さす。
「痕跡神以外の秩序が見えた」
そう言われ、魔眼を向けてみるが、特に異常は見られぬ。
「今はどうだ?」
ミーシャは首を振った。
「一瞬だけ。アノスが過去を見ていたから、わたしは痕跡の書を見ていた」
ふむ。なかなかどうして、さすがはミーシャといったところか。
色々と探る手間が省けるというものだ。
「痕跡の書で過去を見ようとすれば、誰しも過去に集中する。その一瞬、痕跡の書に魔力が働くようにしていた、か」
アルカナが問う。
「なんの秩序だろう?」
「わからぬが、想像はつく。ゴルロアナは覇王城に捉えられていた。セリスが俺に過去を探らせぬように、痕跡の書に改竄を施しておいたと考えるのが妥当だろう」
「じゃ、さっきのセリスの性格が違ったのって?」
サーシャが問う。
「改竄の結果ということも考えられるな」
すると、ゴルロアナが不可解そうに首を捻った。
「しかし、痕跡の書で見ているのは過去そのものです。そう簡単に改竄が利くものではありません。過去を変えたとしても、それは時の秩序によって元に戻ってしまうものですから」
確かにな。
「痕跡の書の力が働いたとき、つまり俺たちが見ているそのときだけ、過去は変わっているのだろう」
ゆえに現在には、なんら変化は訪れない。
そうやって、俺に過去を知られぬようにしているのだろう。
「……痕跡神の秩序からすれば、過去を改竄するのは容易なことではありません。つまり、過去にいるその人に無理矢理干渉するということですから……たとえば、魔王、あなたが今私と話しているこの痕跡の内容を変えようとすれば、あなたを洗脳するのと同等の力が必要です」
痕跡の書を改竄する力とは別に、俺を洗脳する力がなければ、その改竄は成立しない。
無論、俺を洗脳するなど不可能だ。
「つまり、強者の言動ほど改竄するのは難しいというわけだ。だが、そいつが改竄しようとしている者の味方か、あるいは改竄した者本人ならば、話は別だ」
「セリスが、昔の自分を改竄したってこと?」
「可能性にすぎぬがな。ひとまず続きを見てみるか」
ゴルロアナがうなずく。
「やってみましょう」
そう口にして、再びゴルロアナは痕跡の書を開く。
彼が詠唱すれば、光とともに、過去がこの場に現れた――
改竄された痕跡。セリスはなにを隠したのか。