チェックメイト
アルカナの<背理の魔眼>が、セリスを射抜く。
足元から上半身に向かい、彼の体は凍てついていった。
強い反魔法を纏うセリスを直接雪に変えることはできないため、その反魔法を氷に変化させているのだ。
「憎悪に染まった君を救ったのは、魔王の信頼ということかな」
ミシミシと鈍い音を立てながら、セリスは凍りついた右手を無理矢理動かし、万雷剣をアルカナの手から引き抜く。
「美しいね」
神雪剣を構え、セリスの反撃に備えたアルカナの予想とは裏腹に、彼はその刃をくるりと回転させ、自らの胸を貫いた。
緋電紅雷。雷の血が溢れ出し、彼の全身を覆っては、凍てついた氷を、そしてアルカナを弾き飛ばした。
後退した彼女は、<背理の魔眼>で雷を雪月花に変えて防ぐ。
祈り続けるゴルロアナと、そこに膝をつくディードリッヒの前に、彼女は立っていた。
「逃げて」
アルカナが言うと、教皇は答えた。
「どこへ逃げるというのでしょう? 天蓋の落下は地底の終わり。私はあれが落ちぬよう、我が国のため、祈りを休むわけには参りません」
目を開き、ゴルロアナは静かに唱える。
音韻魔法陣が発動し、その衝撃がディードリッヒとアルカナを弾き飛ばした。
向かってくるセリスから、二人を退けるように。
「私は教皇。最後まで、ジオルダルの教えに殉じましょう。しかし、アガハの剣帝よ、あなたがこの祈りのために果てることはない」
祈りながらも、その残った魔力をゴルロアナはセリスに向けた。
「へえ」
興味深そうに笑い、セリスは球体魔法陣を目の前に構築する。
「アルカナ」
小さな唱炎が、ゴルロアナの前に立ち上る。
それでは到底、太刀打ちできぬ。そんなことは百も承知だろう。
「あなたは、偽りと裏切りの神、背理神ゲヌドゥヌブでした。今は、もう違う。過去に囚われた私たちは、あなたが常に、これからも変わらず、まつろわぬ神だと思い込んでいました」
セリスが教皇に二本の指先を向ける。
「私は罪を知っていた。あなたを背理神にしてしまった祖先の罪を。それは決して変わらぬことと、彼らの死を持って懺悔は済み、許されぬのはあなたがまつろわぬ神ゆえと」
神に懺悔するように、教皇は頭を垂れた。
「しかし、あなたは、あなたを最後まで信じ抜いた一人の男の信仰を持って、まつろわぬ神から脱した」
信じられないことだというように、ゴルロアナの表情が後悔に染まる。
「――ああ、神よ。あなたをまつろわぬ神にしていたのは、我らに信仰がなかったゆえとは。愚かな、神を信じられなかった愚かな信徒の贖罪を、どうかお受け取りください」
燃え盛る唱炎がセリスに襲いかかる。
けれども、その身に纏う反魔法がいとも容易く炎をかき消した。
「<紫電雷光>」
紫電が走った。
その寸前でアルカナは<背理の魔眼>で球体魔法陣を雪に変える。
それと同時、万雷剣ガウドゲィモンの刃が紫電と化して延びていき、セリスはそれを横一文字に斬り払った。
アルカナの神雪剣が紫電の刃を受け止める。
紫電と雪月花が激しく衝突しては鬩ぎ合う。
「……竜の子よ。罪を償うというのなら、死なないでほしい。神になど祈らず、その手を隣人と取り合ってほしい。わたしは変わった。あなたも――」
アルカナの口から、血がこぼれる。
万雷剣ガウドゲィモンが彼女の腹部に突き刺さっていた。
しかし、怯まず、アルカナは雪月花で自分諸共その剣身を凍りつかせていく。
『アノス様――』
死闘の最中、届いた<思念通信>はエレンからだ。
『<狂愛域>を。少しの間、あたしたちが天蓋を支えます』
愛魔法ならば、有効だろうが。
『生半可な想いでは背負えぬぞ』
『新しい歌を届けたいんです。地底の人たちに』
すると、<思念通信>の向こう側がざわついた。
『あ、新しい歌って、今思いついたやつっ? 四番の方がいいんじゃない?』
『大丈夫だよ。即興はいつものことだし』
『そうそうっ、エレンの今の気持ちで歌わせてあげようっ!』
『信じてるから、お願い、ジェシカ』
一瞬の空白。覚悟を決めた声が響く。
『……わかったよ……もう、しょうがないんだから……』
ぶっつけ本番とはな。
なかなかどうして、それでこそ魔王の配下だ。
『やってみせよ。お前たちならば、できるだろう』
『『『はいっ! アノス様っ!』』』
俺は今使っている愛魔法に加え、魔王聖歌隊の愛を魔力の柱へと変える<狂愛域>を発動する。
ギギギギギ、ドゴォォンッと紫電が爆発し、セリスはアルカナが作りだした氷を吹き飛ばす。
彼女がたたらを踏み、ガウドゲィモンを抜かれないように素手でその剣身をつかんだ瞬間、セリスは再び球体魔法陣を描き、そこに手を突っ込んだ。
紫の稲妻が室内を染め上げ、バチバチと周囲に雷光を撒き散らす。
「あと少し、そう、地底の民たちが、もうほんの少し想いを合わせれば、あの天蓋は完全に支えられるかもしれない」
ぐっとセリスが拳を握ると、その手の平の中で魔法陣が圧縮されていく。
彼の左手には凝縮された紫電が集った。
「だけど――」
圧倒的な破壊の力。
その魔法が、奴の左手に宿っている。
「――故郷を愛する想いが減ってしまう可能性は、考慮しているかい?」
彼はその手を天に掲げた。
紫電により描かれた魔法陣は一〇。
それらから更に紫電が走り、魔法陣と魔法陣がつながっては、一つの巨大な魔法陣が構築される。
「<灰燼紫滅雷火電界>」
連なった紫電の魔法陣が、支柱の間の外壁を吹き飛ばし、まっすぐ空へ飛んでいった。
それは、遥か彼方の天蓋に張りつくと、荒ぶる膨大な紫電を走らせる。
空が紫色に染まり、地上の昼よりも更に明るい光が地底を照らし出す。
雷鳴が轟いた。
世界の終わりを彷彿させるようなその不気味な音と共に、彼方の天蓋が滅びの雷によって焼かれていく。
永久不滅の神体ゆえ原形を保ってはいるものの、天の蓋を支える秩序の柱という柱が、灰燼と化していき、岩や石の一つ一つが独立して落ち始める。
「天の蓋は支えられても、無数の雨を受け止めるには手が足りない」
天蓋がズレ、そこに無数の氷柱が生えているように見える。
今にも夥しい数の震雨が地上へ落ちようとしているのだ。
それも、広大な範囲に。
「あの下は、アガハの国だよ。震雨は降り注ぎ、何千何万という民が滅びる。さあ、試してみよう。滅びてなお、故郷への愛を持ち続け、あの天蓋を支え続けることができるかな?」
「――貴様ぁっ……!!」
魔力の尽きかけた体で飛びかかったディードリッヒは、しかし、セリスの裏拳を顔面に食らい、派手に吹き飛ばされた。
「わかっていないね。今更、僕を止めてももう遅い」
彼は自ら空けた壁の穴から、アガハの空へ視線をやった。
「先の一手で、チェックメイトだよ」
まるでチェスに勝ったというような軽い調子でセリスは言う。
ディードリッヒへと指先を向けようとして、彼は僅かに首を傾けた。
小さく、音が奏でられていたのだ。
いつのまにか終わっていた『隣人』に代わり、優しい音色が、俺の<思念通信>を経由して地底を包み込む。
声が、聞こえた。
優しい声が。
――この世界でお前と二人きりになったら――
――殺し合う前に、一つだけ聞かせてほしい――
――お前が死んだときの埋葬の仕方を――
――お前の神のもとへ必ず送ろう――
――俺が死んだら、この骨は空に――
――俺の神のもとへ送ってほしい――
――誓いを交わした俺たちは、同時に神の刃を交わした――
――本当はもう知っていたんだ――
――争う理由が、たった今消えたことを――
――振り下ろす剣は止まらないのか――
――俺の神は、お前を助けない――
――この祈りは、お前が信じた神へ――
――どうかこの信心深い男を、救ってくれ――
誰かの心が、確かに揺れた。
突き動かされ、激しい衝動に駆られたように、一人の竜人が、そこに立ち上がっていた。
「……民よ……」
躊躇いと迷いが、その顔に浮かぶ。
けれども歌に背中を押されるように、畏れを振り切り、その者は確かに叫んだのだ。
「ジオルダルの民よっ……!!」
叫んだのは、教皇ゴルロアナ。
ジオルダルのため、国のために常に祈り続けてきた手が解かれていき、それはまっすぐ頭上に伸びた。
天蓋を、支えたのだ。
「私は教皇ゴルロアナ・デロ・ジオルダル。祈りをやめ、手を天に、その想いで天蓋を支えなさい」
教皇の体に愛魔法の光が集う。
「今、アガハに震雨が降り注ぎます。<全能なる煌輝>エクエスは言われました。汝の隣人に慈悲深くあれ。この祈りはしばし、災厄に見舞われたアガハのために。彼らの神が彼らを救うように、彼らが信じるその教えに従い、願って差し上げましょう。我らが神の名にかけて、汝らの大いなる慈悲を」
けたたましい地響きを鳴らしながら、無数の震雨がアガハに勢いよく降り注ぐ。
それは永久不滅の岩の雨。
なにもかもを貫通し、根源すらも滅ぼすであろう。
天蓋を支え続けるアガハの民に、それは容赦なく襲いかかる。
街を蹂躙し尽くすほどの震雨が、城を破壊し、時計台を貫き、物見櫓をぶち壊す。
民家や商店、そして、アガハの人々へその雨が降り注ぐ――僅か数瞬前であった。
純白の光が、岩の一粒一粒を包み込んでいた。
<聖愛域>の光だ。
ゴルロアナの言葉で、一斉に想いを一つにしたジオルダルの民たちが、降り注いだ震雨を残らず受け止め、そして持ち上げていく。
みるみる震雨は空に帰っていき、そして天蓋と一つになった。
「ああ、とても感動的だね。だけど、君たちは間に合わなかった」
セリスがアルカナの腹部に万雷剣を押し込む。
どくどくと血が溢れ彼女の手に紫電が走った。
瞬間、彼はガウドゲィモンをその腹から抜き、アルカナへ向ける。
消耗した彼女には、もう避ける力も残っていない。
「チェックメイトだと言ったはずだよ」
ガウドゲィモンが、アルカナの<背理の魔眼>を斬り裂いた。
「どれだけ想いと魔力を集めても、天を支える秩序ではない。アノス、君の狙いは、<背理の魔眼>で最後にこれらを天柱支剣に変えることだ。それが可能かどうか試すために、最初に偽物の天柱支剣を創ったんだからね」
こちらを振り向き、彼は言った。
「天蓋が落ちるまでに、その魔眼の傷を癒せるかな? 滅ぼすことしかできない、君の力で」
「ならば、癒さぬまでだ」
言葉と同時に、アルカナの姿が霧と化して消えた。
妖精ティティの力である。
本物の彼女は、神隠しの精霊ジェンヌルが異空間に隠している。
「残念でしたね、セリス」
漂う霧とともに奴の背後にシンが現れる。
「……な……冥王と詛王が足止めしているはず――」
略奪剣と断絶剣をシンは容赦なく振り下ろす。
「――なんて言うと思ったかい?」
球体魔法陣に紫電が溢れ、セリスの左腕に集う。
それは紫電の戦斧と化した。
その<迅雷剛斧>にて断絶剣を迎え打ち、万雷剣ガウドゲィモンで、略奪剣と切り結んだ。
「そう、君は彼らが押さえているからここには現れない、と僕に思わせ、あの二人が君を通すのは想定内だよ。故郷を守りたいだろうからね」
断絶剣が焼け焦げ、<迅雷剛斧>が切断される。
セリスは再び、球体魔法陣から紫電を溢れさせた。
「カカカッ、ならばこれも想定内かね、セリス・ヴォルディゴード」
無数の神剣ロードユイエが空から降ってきて、セリスの体に突き刺さる。
同時に落ちてきたのはエールドメードだ。
「勿論、来る頃だろうと思っていたよ」
<紫電雷光>が放たれ、エールドメードが迎撃される。
その刹那、神剣ロードユイエを手にしたシンが、セリスの左腕を貫いていた。
緋電紅雷が剣を伝い、シンに絡みつく。
「二人がかりなら、勝てると思ったかい?」
「一人で十分だがな。あいにく遊んでやれる時間もない」
<狂愛域>が、魔王聖歌隊の歌が天蓋を支えている。
自由になった俺は、セリスに接近していた。
正面からはシンが、空からエールドメードが、そして背後から俺が迫る。
セリスは球体の魔法陣に左手を突っ込み、ぐっと握り締めた。
瞬間、奴の左手が切断され、宙を舞った。
「断絶剣、秘奥が弐――<斬>」
焼け焦げた断絶剣の刃が、更にボロボロと崩れる。
振り上げられた万雷剣を、エールドメードが神剣にて打ち払い、可能性のリヴァインギルマが、その両足を薙いだ。
ぐらりと体が傾き、奴は前のめりに地面に倒れる。
背中から、リヴァインギルマを奴の根源めがけて突き刺した。
バチバチと紅の雷が溢れ出し、全能者の剣すらも飲み込もうとする。
「ふむ。リヴァインギルマの一撃で滅びぬとは大したものだ」
「滅びは、僕からはほど遠いよ。憧れといってもいいかもしれないね」
嗜虐的な笑みが、俺の顔に浮かぶ。
「くれてやろう」
起き上がろうとしたセリスの頭を、俺は右足で思いきり踏み付けた。
「取り押さえよ」
シンがセリスの足を略奪剣で斬り裂き、エールドメードが両腕をロードユイエで縫い止めた。
「二千年前の魔族は、どうにも滅びぬ者が多いからな。処刑魔法を開発する必要があった。無論、捕らえるまでが骨だが――」
足でセリスの頭を踏み付けたまま、魔法陣を描く。
「<斬首刎滅極刑執行>」
奴の首を黒い拘束具が覆う。
現れたのは、漆黒の断頭台だ。
「一言だけ許す。命乞いならば、言葉を選べ」
「君の記憶を奪ったのはミリティアだよ」
ギロチンの刃が、ギラリと冷たい輝きを発す。
指先を、上から下へ落とす。
「転生した彼女は、どうなったと――」
「執行」
ガダンッとギロチンの刃が落ち、セリスの首が刎ねられた。
死刑執行――