エピローグ ~笑顔~
朝九時までにダンジョンの入り口へ辿り着き、エミリアに王笏を提出した。学院で本物かどうかの検品を行うため、しばらく預かってもらうという話である。
また今日は明け方までダンジョン試験の予定があったため、2組の授業は終日休みだ。誕生パーティをするにはもってこいだろう。
<転移>の魔法を使い、俺たちは鍛冶・鑑定屋『太陽の風』へやってきた。
ドアを開けると、中にいた母さんがすぐこちらを向いた。
「おかえりなさい、アノスちゃんっ!」
母さんがいつも以上の勢いで駆けよってきて、俺をぎゅーっと抱きしめる。
なぜか若干涙ぐんでいた。
「こんな時間まで帰ってこないなんてお母さん心配しちゃったぞ」
「今日の朝までかかるかもしれないと言っておいたが」
「そうだけど、そうだけどね。アノスちゃんはまだ一ヶ月だし、大丈夫かなって心配だったの」
母さんは笑顔を浮かべ、改めて言った。
「おかえり、アノスちゃん。おかえり」
ふむ。たかだか一日帰らなかったぐらいでこんなに心配するとはな。母さんも俺の魔法の力はある程度知っているはずなのだが、いや、こそばゆいものだ。
「ただいま」
そう口にすると、母さんは満面の笑みで言った。
「おかえりなさい、アノスちゃん」
再度、母さんが俺を抱きしめる。
「あれ?」
ようやく気がついたか、母さんの視線はサーシャに向けられた。
しかし、なぜか母さんは途端にはっとした。なにか気がついてしまったといった表情を浮かべている。
「きょ、今日の朝までかかるって、今日の朝までかかるって……」
母さんは動転したように大声で言った。
「朝帰り宣言だったのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!?」
なんなのだ?
「だから、朝帰るかもしれないと言ったが」
「朝帰りの意味が違うと思うわよ」
サーシャがぼそっと言う。
なんだ、この時代では別の意味があるのか。
「朝帰る以外にどういう意味があるんだ?」
「どういうって、それはあれだわ、あれ……だから……」
サーシャは急にしどろもどろになった。
「なんだ?」
サーシャは俯き、顔を真っ赤にして言う。
「……い、いいこと……」
ふむ。まるでわからん。
と、思っていたら、母さんが勢いよくサーシャに駆け寄ってきた。
「サーシャちゃんっ!」
「……な、なによっ?」
母さんはサーシャをぎゅっと抱きしめた。
「サーシャちゃんっ!」
「だから、なにっ? なんなのっ!?」
母さんの勢いに、サーシャは若干たじろいでいる。そんな彼女の頭を慈しむように撫で、母さんは意を決したように訊いた。
「だ、大丈夫だった? ちゃんと優しくしてもらった?」
サーシャの顔が無になった。
「……あのね。誤解のないように一つ言っておくけど、優しくしてもらうようなことなんて、なんにもしてないのよ」
サーシャはこの上なく冷静に訂正した。
しかし、母さんはそれを聞くなり、更に衝撃を受けたように口を大きく開いている。
「……ええと、どうしたのかしら?」
「い、いいえ。いいの、いいのよ、サーシャちゃん。そういうことは人それぞれだものね。うん、大丈夫。大丈夫よ」
母さんは一人納得したように、そして自分に言い聞かせるように、うんうんとうなずいている。
たまらずサーシャは問い質した。
「だから、なんなのっ? そういうことって、なんの話っ?」
「だけど……」
「いいから、言って。なにかしら?」
すると、母さんは仕方ないといった風に、サーシャの耳元に小声で言った。
「ね、好みはね、人それぞれだから。乱暴にされないと燃えないっていうのも、いいと思うわ」
「馬鹿なのっ!!」
サーシャは真っ赤になって叫ぶ。
そして、呆れたように頭に手をやり、首を左右に振った。
「だからね、誤解なのよ。朝帰りって言っても、そういう意味じゃなくて。ほら、ミーシャも一緒だし」
「えええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっ!! 三人で朝帰りってことおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!?」
母さんの勢いは今日も留まることを知らない。
「み、ミーシャちゃんはそれでいいの?」
ミーシャは小首をかしげる。
「……それ……?」
サーシャと違い、ミーシャはよくわかっていないようだな。
「えっとね、えっと、サーシャちゃんがいない方がいいって、思ったりしない? 納得してるの、かな……? してない……よね?」
恐る恐る母さんが尋ねると、ミーシャはふるふると首を振った。
「三人がいい」
その瞬間である。バタンと工房のドアが開き、父さんが現れた。
開口一番――
「アノス。父さんな、父さんこれでも昔はけっこうマセガキだったんだ。よく大人の階段を登るのが早すぎて、そのうちに転げ落ちてくるなんて言われたもんだよ。ははっ」
訊いてないぞ、父よ。
「だけどな、こないだ二人と付き合ってるって聞いただけでも羨ましかったのに、そんな、お前まさか同時にだなんて!?」
動転したように口走りながらも、父さんは俺の肩に手を置く。
「これはな、実際に階段から転落した父さんからの忠告なんだがな、アノス」
父さんは真剣そのものの顔で言った。
「どうやったんだ、教えろ」
忠告はどこへ行ったのだ。
「なあ、ミーシャちゃん。どうやったら、その、なんだ、そんなに数段飛ばしで大人の階段上がれるんだ? アノスは二人になにしたんだ?」
父よ、息子のクラスメイトになにを訊いている。
「……優しくしてもらった……」
「優しくするぐらいなら、誰にでもでき――」
父さんは途中でなにかに気がついたようにあっと口を開き、まるで恐ろしいものを見たかの如く、俺に言ったのだ。
「アノス、お前、そんなにテクニシャンだったのか……?」
父さんは優しくを激しく誤解している。
「だから、違うのよ。今日はわたしたちの誕生日だから、アノスが招待してくれただけなのっ!」
サーシャが必死に訴える。
それを聞き、衝撃を受けていた母さんが意を決したように拳を握った。
「そう、そうよね。当人たちがいいって言ってるのに、周りがとやかく言うものじゃないわよね」
どうやら未だ誤解は解けていないらしい。
「大丈夫、お母さんはいつでもアノスちゃんの味方よ。アノスちゃんがやりたいことをいつでも応援するわ」
母さんの言葉に、父さんがうんうんとうなずいている。
「そうだな。アノスがヤリたいなら仕方ない。ヤリたいなら……」
なぜか、父さんは悔しそうだ。
「そうと決まれば、すぐにご馳走の支度をするわ。サーシャちゃんとミーシャちゃんの誕生会なのよね。じゃ、ケーキも焼かなくっちゃ」
母さんが張り切って台所へ向かおうとしたとき、俺はふと思い出した。
「ああ、そうだ。ミーシャ、お前に渡すものがあった」
ミーシャはじっと俺を見てくる。
「なに?」
「手を出しな」
言われるがまま、ミーシャが俺に左手を出す。
「出した」
ふむ。サイズが合いそうなのは薬指か。まあ、入ればどこでもいいだろう。
俺はその指に<蓮葉氷の指輪>をはめてやる。
ミーシャは指輪を目の前に持ってきて、それを呆然と眺めた。
「ミーシャ、誕生日おめでとう。十五歳になった気分はどうだ?」
ミーシャがいつもの無表情で俺を見る。
しかし、はらり、と涙の滴が頬を伝った。
彼女は震えた声で言った。
「怖かった」
そうだろうと思っていた。
ずっと我慢してきたのだろう。
「もう強がる必要もない」
「……ん……」
うなずく、ミーシャの瞳からはまた涙がぽたぽたとこぼれ落ちる。
サーシャが微笑みながら、ミーシャの肩を抱く。
そして――
「わかるわ、ミーシャちゃん。怖かったよね。よくがんばったね」
なぜか、なにも知らない母さんが言った。
「……わかる……?」
「うん。わたしもね、プロポーズをされるまでは怖かったの。どれだけ信じていても、やっぱり形になるまでは怖いことってあるよね。ミーシャちゃんの場合は、サーシャちゃんもいるし」
ミーシャが目を丸くする。
「でも、大丈夫よ。アノスちゃんはやるって言ったことは絶対にやるんだから。きっと、ミーシャちゃんのことも、サーシャちゃんのことも、二人ともちゃんと幸せにしてくれるわ」
サーシャも俺もなんとも的外れな言葉に、どう突っ込んでやればいいのかわからなかった。
だが――
「……ふふっ……」
ミーシャは笑った。
「二人とも幸せ?」
「うん、そうよ。いいでしょ?」
ミーシャは少しだけ考え、また笑う。
まるで花が咲いたように。
「ん」
それは、これまで心を押し殺してきた少女の、心からの笑顔だった。
ということで、一章が終わりました。
これからも、一日の癒やしになるような物語を書けるよう更新をがんばっていきたいです。
どうぞ、よろしくお願いいたします。