不確かな未来を夢見て
覇王城、支柱の間。
アルカナは<背理の魔眼>で覇竜を変化させ、ヴィアフレアを雪の結界に埋もれさせていく。完全に封じられるのは、最早、時間の問題だろう。
彼女の視界には、神に祈り続ける教皇ゴルロアナと天を睨む剣帝ディードリッヒの姿が映った。
その傍らには未来神ナフタが佇んでいる。
ディードリッヒは視線を下げ、天柱支剣ヴェレヴィムを見つめた。
「……なあ、魔王や……」
ぽつり、とディードリッヒは呟く。
聞こえている、と思ったのだろう。
「最善の果てに、希望があると信じて疑わなかった」
ヴェレヴィムに向かって歩いていきながら、彼はそう語りかける。
「すべての者が生き延びる、そんな理想の道があればと思っていた。今はなくとも未来にのために、そんな道を作ることができればと思っていた」
一歩一歩、これまでの歩みを思い出すかの如く、ディードリッヒはゆるりと、しかし力強く踏み出した。
「ナフタの神眼で先を読み、積み重ねてきた最善だ。だが、預言を覆すならばいつか、己の目で見た希望に挑まねばなるまいて」
今、それを語るのは、彼が終わりを悟った証拠なのかもしれぬ。
「ここに、希望があるはずであった。しかし結局は、不可能という名の暗闇に、希望があると思い込んでしまっただけであったのかもしれぬなぁ」
折れた天柱支剣の前に辿り着き、ディードリッヒは足を止めた。
「災厄の日が訪れる。秩序の支柱は折れ、天蓋が落ちてくる。ここで我らアガハの騎士が、あの天を支えようともただ問題を先延ばしするだけの話に他なるまいて。やがて、また天蓋は落ちてくる。我らの子孫は、この地に生贄を捧げ、命を犠牲にすることになるだろう」
ぐっとディードリッヒは拳を握り締め、歯を食いしばった。
己の無力さが腹立たしくて仕方がない、そんな怒りが見てとれた。
「これで終わりにするはずであった。今代の子竜が最後の生贄。天蓋を支えるため、命を捧げ続ける非道な宿命を、この残酷なまでの運命を、アガハの子孫たちに残したくはなかった。我らですべて終わりにしたかったのだ」
ディードリッヒの表情に、成し遂げられなかった想いが滲む。
「……叶わなかった。無念としか言いようがあるまいて……」
彼は拳を強く、天柱支剣に叩きつける。
激しい音が響き、バラバラと剣の破片が転げ落ちた。
「すまぬな、魔王や。この顛末は、最善の未来を選ばなかった、預言者ディードリッヒの失態だ。お前さんが未来を見ていたならば、あるいはこれを変えられたのかもしれぬ」
無念さを滲ませながら、アガハの剣帝は言った。
「俺は道を誤った。アガハの剣帝に相応しくはなかったのだ」
ぐっと歯を食いしばり、過去を振り切るようにして、まっすぐ彼は前を見据えた。
「最後にその尻拭いをして、逝くとしよう。願わくば、お前さんが、俺の預言を覆してくれることを祈ろうぞっ」
心を決めたといった顔つきで、ディードリッヒは背中越しに、自らを選んだ神へ言葉をかけた。
「ナフタ。今日までよくつき合ってくれた。未来神の予言を覆そうなどという蒙昧な男の無謀な挑戦を、お前さんは傍らで文句も言わずに見守ってくれた。礼を言わねばなるまいて」
未来神は応えず、彼の言葉にただ耳を傾ける。
「これが、最後の願いだ」
言葉を切り、ディードリッヒはぐっと息を飲む。
こぼれ落ちそうな憂いを堪え、彼は王として毅然と言葉を発した。
「アガハを頼む」
沈黙するナフタの顔を見ることもできず、ディードリッヒは罰の悪そうな表情を浮かべた。
「すまぬな。結局、俺も他の剣帝と同じであったようだ。預言の重さに耐えきれず、不可能な未来に希望を持った、愚かな預言者だ」
すると、そこで初めてナフタが口を開いた。
「いいえ」
その響きは柔らかく、ディードリッヒの言葉を否定する。
「ナフタは断言します。あなたこそ、真の預言者。最後まで最善を見続け、そして、その肉眼で、ナフタと同じ未来を見た、唯一の人」
ゆっくりとディードリッヒが振り向く。
ナフタは、その神眼を開いていた。
「ここは、不可能の暗闇ではありません。ナフタの神眼が届く、最善の未来。あなたには、この未来だけは見せなかった」
ディードリッヒが息を飲む。
その表情は驚きに染まっていた。
「……ナフタの神眼には、盲点がある……」
恐る恐るといった風に、ディードリッヒが言う。
ナフタは、はっきりとうなずいた。
「魔王が言った通りです。あなたに与えたナフタの神眼には盲点がありました」
驚きを隠せないまま、しかし、ディードリッヒは合点がいったように、「ああ」と声を発した。
「……そうであったな……。確かに、魔王は言っていた……」
剣帝王宮のバルコニーで話したことを思い出すように彼は言う。
「預言者が預言を口にすれば、その預言は覆しやすくなる。見えた未来が悪いものならば、現実とならぬように振る舞えばいい……」
なぜ、ナフタがこの未来だけは彼に見せなかったのか。
想像は容易いだろう。
「預言を口にしないのは、その未来をどうしても現実にしたいからに他ならない、俺にとっても、ナフタにとっても同じ、か……」
ナフタがもしも、どうしても覆したくない予言があるのならば、それを預言者に伝えることはない。
悪い未来が訪れると知れば、民に預言を伝えなかったディードリッヒと同じだ。
彼女を信頼しているからこそ、ディードリッヒは自らの神眼に盲点があることに気がつかなかった。
「魔王は口にした通り、その盲点にこうして導いてくれました。今なら、ナフタの神眼に映らなかった未来へ、辿り着くことができるでしょう」
「……そいつは……俺だけではなく、ナフタの神眼にも、盲点があるという意味か?」
ナフタははっきりとうなずいた。
「未来神の秩序は、未来を司る秩序。ナフタの存在そのものが、未来の秩序を保っている。ゆえに、ナフタの神眼にも盲点があります。ナフタが見ることのできない現在は、それより以前の時間にいるナフタにも、未来として映りません」
ナフタが厳かな声で言う。
「すなわち、ナフタが存在しない未来は、ナフタが存在する未来とは確かに異なる。そして、この神眼には映りません」
ナフタの秩序は、未来を決定づける一因となる。
彼女が消えれば、八方塞がりの未来もまた消え去るのだろう。
「どうかこの神眼を永遠に閉ざしてほしい。そうして、あなたの代わりに、ナフタはこの地底を支える柱となりましょう」
「……あの暴れ狂う天蓋を支えようというのだ。柱の数は、多い方がいいだろうよ……」
「天柱支剣ヴェレヴィムと化すのは、子竜だけに成せること。ナフタにできるのは、選定者の未来を肩代わりすることだけです。そうなれば、あなたは秩序の支柱となる未来を失うでしょう」
つまりは、ディードリッヒか、ナフタか、どちらかしか秩序の支柱にはなれぬ。
「見てください」
ナフタは、天柱支剣に<遠隔透視>を使った。
そこに映ったのは、覇王城へ向かって進軍する竜騎士団の姿である。
彼らは決死の表情で、騎乗する竜を操り、前へ前へと進んでいる。
「団長っ、前方に幻名騎士団がっ」
副官ゴルドーが言った。
「構わんっ。このまま突破するっ!」
「あの数を前に強行突破ですかっ……?」
「時間がないのだ。見ろっ、天蓋が今にも落ちようとしているっ。我らが剣帝は、あの城で待っているはずだ! 一刻も早く駆けつけねばならんっ!」
ネイトに続いて、副団長のシルヴィアが言った。
「今日が、アガハの預言に伝わる災厄の日っ! 私たちが辿り着けなければ、地底は終わりだっ!」
シルヴィアの父、リカルドが言う。
「命剣一願、今こそ、預言を覆すときっ! 我らが剣帝を信じるのだっ! この騎士の誇りに殉じるに相応しい舞台を、かの王は調えてくださっているっ! 最早、死など恐るるに足らずっ!!」
ネイトは大きくうなずき、同意を示す。
「よくぞ言った、リカルド。それでこそ、アガハの騎士っ!」
ネイトが声を上げれば、騎乗する白い竜が、先陣を切った。
「剣を握れ、己の中の神を信じよ。これより我らは困難に挑む。この誇りと武勇を、希望の未来に轟かせてみせよっ!!」
騎士たちが声を揃える。
「「「は!」」」
「行くぞおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!」
うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉっっ!! と激しい雄叫びを上げながら、竜騎士団は目の前の敵を蹴散らし、覇王城へと突き進んでいく。
支柱の間にて、その様子を見つめる剣帝の横に、ナフタが並ぶ。
「彼らは必ず覇王城まで辿り着く。そして、命をかけ、天蓋を支える地底の柱となるでしょう」
ディードリッヒが、ナフタの顔を見る。
「ナフタも、彼らと運命を共にします。最期は預言者に未来を伝える神ではなく、あなたに仕えるアガハの騎士でありたい。それが、幾千万の未来の中から、ただ一つナフタが辿り着きたかった未来」
まっすぐ主の顔を見つめ、ナフタは言った。
「この未来を、過去にしておきたかったのです」
「……そうか」
低い声で、ディードリッヒが言う。
「ディードリッヒは真の王。たとえ予言がなくとも、あなたはその気高き瞳で前を見据え、この未来にまで辿り着きました。命剣一願、己を貫いたあなたの剣には確かに、神が宿ったのでしょう」
ナフタはディードリッヒに伝える。
彼が生き延びなければならない理由を。
「ナフタなき混沌の未来にて、剣帝ディードリッヒならば、アガハの民を正しく導くことができるでしょう」
そう言って、僅かにナフタは微笑む。
「たぶん、きっと」
それは、すべてを知っている彼女が、生涯に一度だけ口にすることができる、曖昧な言葉。
そんなあやふやな未来を、未来神は見たかったと言わんばかりに。
「預言は覆ったとは言えないかもしれません。ですが、ディードリッヒ。あなたは、多くの死を乗り越えていきなさい。この王の道を、ひたすらに突き進みなさい」
その言葉に、ディードリッヒは確かにうなずいた。
「ナフタは懇願します」
<未来世水晶>カンダクイゾルテがぐにゃりと歪み、剣に変わる。
それを手にして、彼女は言った。
「我が主君ディードリッヒ。どうか生きて、この神眼の届かぬ未来を、見てきてほしい」
じっとナフタを見つめ、彼は再びうなずいた。
「我が騎士ナフタ」
彼女の想いに応えるように、雄々しく、誇り高き王らしく、剣帝ディードリッヒは言った。
「大義であった。よく今日までこの至らぬ王に仕えてくれた。お前の忠義、お前の献身を誇りに思おうぞ」
アガハの騎士たちがそうしたように、カンダクイゾルテの剣を胸の辺りに持ってきて、ナフタは敬礼した。
「これが、最期の予言。竜騎士団が覇王城の正門をくぐるとき、アガハの英雄たちは、その身を剣と化し、この地底を支える礎となるでしょう。きっと、それは永久に」
ナフタの手にしたカンダクイゾルテの剣が砕け、その水晶の破片がこの場を覆いつくしていく。
それは覇王城全体を飲み込み、外にまで広がった。
「至高世界の開廷に処す」
<四界牆壁>に囲まれたガデイシオラの殆どを、未来神の秩序が包み込んでいった。
アガハの騎士たちは、命をかけて、未来に挑む。
そして、魔王は――