終わりの始まり
天蓋が波打つように蠢き、轟々と不気味な音を鳴らしている。
地底の空は今にもバラバラになり降ってきそうな気配を漂わせるが、かろうじて奇妙なバランスを保ち、秩序の柱に支えられていた。
「……ナフタは宣言します」
未来神が、判決を読む裁判官のように厳かな声を発した。
「選定審判の終焉に、未来は足を踏み入れました。最初の代行者アルカナが有していたエルロラリエロムの秩序は、その一部が覇竜によって食われ、弱まっています。整合の秩序は乱れ、保たれていた地底のバランスが崩れます」
続いて、ディードリッヒが言う。
「放っておけば、天蓋はこの地底を踏み潰し、滅ぼすであろう。全能者の剣の力により、永久不滅と化したあの天の落下を防ぐことは、地底中の人々、神々の力を合わせても、できるものではなかろうて」
絶望的な状況下、これこそディードリッヒが危惧していた、ナフタに見えぬ暗闇の未来だろう。
しかし、それでもその男は、剛胆な笑みを覗かせた。
「こいつは、終わりの始まりだ。ナフタの神眼に映らなかった、すなわち預言の利かぬ未来の一つ。アガハの剣帝ディードリッヒは、この暗闇に希望を見た」
選んだのだろう。
ナフタの神眼ではなく、自らの目と、自らの心で。
「教皇ゴルロアナ」
祈り続けるゴルロアナに、ディードリッヒは視線を向けた。
「覇王ヴィアフレア」
呆然とした様子の彼女に、ディードリッヒは呼びかける。
「今こそ共に、この地底の将来について語り合おうぞ。魔王が言った通り、アガハの預言、ジオルダルの教典、ガデイシオラの禁書は、それぞれ、地底の終焉から逃れるために伝えられてきたものだろうよ。その知恵を合わせれば、この終わりの始まりから、逃れることができるやもしれまいて」
力強く握った拳をディードリッヒは解き、穏やかな表情で言ったのだ。
「なあ。もう終わりにしようや。ジオルダルの祈りも、ガデイシオラの憎悪も、我らアガハの誇りも、三者三様どれもが尊重されるものであり、誰に否定されるものでもなかろうて」
教皇に、覇王に、剣帝は言った。
「アガハはこの誇りを持って認めよう。救いを欲するジオルダルの信心を。傷つけられたガデイシオラの憎しみを。互いに矛盾する教えを持つ我らだが、なにもそう滅ぼし合うまでは争わずともよかろう」
すると、ゴルロアナが口を開く。
「神が己の内にあるという不敬な存在を、私たちに認めろというのですか?」
「ただそう思い込んでいる騎士の国があると認めるだけのことが、できぬわけではあるまいて。お前さん方に信じろというわけではない」
今度はヴィアフレアが言った。
「神はボルディノスの心を奪ったわ。わたしは神々を許せないし、ガデイシオラの家族たちはみんなそうよ。この憎しみが晴れることはない。なにもかも滅ぼして、ここにボルディノスが帰ってくるまで」
「神を許せとは言うまいよ。お前さん方が虐げられたのは事実だ。だが、このまま争い続ければどうだ? 行きつく先は見ての通り、災厄の日。あの天蓋に仲よく押し潰される未来しかあるまいて」
エルロラリエロムの秩序が完全に消えていないのならば、天蓋は崩壊せずに落下する。
ガデイシオラが目指したのは、天蓋の崩壊、世界の破滅。だが、現況はアルカナが記憶を取り戻したこともあり、彼女らの思惑とも外れている。
ガデイシオラは安全地帯だという預言は、成立しないかもしれぬ。
「互いに恨み言を言い合い、互いの教えを主張すればよい。だが、武器を手に取ったところで、傷つけ合うだけであろう。俺たちが振るった剣は、味方を斬っているも同然だろうよ。なにも、そんなことをしたかったわけではあるまいて」
ディードリッヒの言葉に、一瞬二人の王は押し黙った。
「互いの教えを、その信念を、決して侵害せぬと約束してはどうか?」
彼はその顔に悲痛な感情を滲ませる。
これまでの戦いを、思い出すように。
「長い争いだった。大きな戦も経験した。もうこれ以上、血を流さずともいいだろう。争うのならば、交わすのならば、剣よりも言葉を。それならば、いつの日にか、本当の平和に辿り着くかもしれまいて」
穏やかに、彼は述べる。
けれども、その言葉は力強く、まるで道を指し示すようだった。
「なあ。いい加減、落としどころを見つけようや。俺たちは今後もいがみ合い、争い続けるだろうよ。だが、俺らが死に、いつの日にか遠い子孫たちが、先祖はこんなにも馬鹿な争いをしていたのか、と笑い合う日々がやってくる」
希望を持って、彼は言った。
「そんな未来を、俺はこの目で見ているのだ」
静寂が、この場を覆う。
ゴルロアナも、ヴィアフレアもなにも言わずに、じっと考え込むように、ディードリッヒに視線を向けていた。
そのとき、乾いた音が響いた。
ぱち……ぱち……と手を打ち合わせる、拍手の音が。
「素晴らしいね。さすがはアガハの剣帝ディードリッヒ、なんて美しい未来を見ているんだろうね」
紫の髪と、蒼い瞳。
外套を纏った男が、開いた扉から姿を現す。
「君はやはり、王の器だよ」
ガデイシオラの幻名騎士団団長、セリス・ヴォルディゴードだ。
「ボルディノスッ……ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……わたしっ……!」
セリスが、磔にされたヴィアフレアに掌を向け、魔法陣を描く。
<飛行>の魔法により、彼女はセリスのもとに引っぱられる。
磔にされているその体は、可能性の刃へと深く刺さる。
残り数ミリで、その根源が消滅するといったところで、俺は魔法を消し、ヴィアフレアを自由にした。
ヴィアフレアはそのままセリスの元へ飛んでいき、彼のもとへストンと落ちた。
「ああっ……ボルディノスッ……! 助けてくれたのねっ……!」
ヴィアフレアが、セリスに抱きつく。
俺が剣を引かなければ、覇王は滅びていた。
そうするわけにはいかぬと踏んでいたか。
それとも、別に滅んでもよかったのか?
「だけどね」
ヴィアフレアに取り合うことなく、セリスは静かに前へ歩いた。
「竜人も魔族も人間も、人というのは厄介なものだ。綺麗な言葉だけでは生きられない。阿鼻叫喚が木霊する血溜まりの池に、他人が沈み込んでいくのを見て、幸せを感じるような輩がいる。ああ、彼らをどう救えばいいのか、困ったものだね」
人の良さそうな笑顔で彼は言った。
「信仰も憎悪も認めるのに、まさか、その心根だけは腐っていると、迫害するわけにもいかないからね」
ディードリッヒはうんざりしたように、セリスを睨む。
数多の未来を見てきた預言者は、そいつと話し合う価値がないということを、すでに悟っているのかもしれぬ。
「お前さんのは、言葉遊びにすぎまいて」
「そう、君の言葉と同じようにね」
セリスが右手を伸ばすと、紫電が溢れ、そこに魔剣が姿を現した。
雷を彷彿させるようなギザついた刃。
その深淵を覗けば、魔剣自らが、万雷剣ガウドゲィモンだと銘を語る。
「君は僕がここに来ることを知らなかった。なぜなら今は、選定審判の終わりの始まり。ナフタの神眼が届かない――」
万雷剣ガウドゲィモンの刃を、セリスは自らの左肩に当てるように構え、振るった。
「――暗闇の只中だ」
ガウドゲィモンの刃が紫電と化して長く延び、横一文字に薙ぎ払われた。
雷鳴とともに、支柱の間の壁は、剣閃に沿った通りに斬り裂かれた。
だが、その場にいる者たちは全員無事だ。
ナフタとディードリッヒはそれを限局して回避した。
アルカナはロコロノトで剣撃を受け止め、俺はリヴァインギルマで自らの身と、教皇ゴルロアナを守った。
「さすがだね、君たちは」
褒め称えるように、セリスが言う。
「万雷剣ガウドゲィモンは、その刃でつけた傷痕に万雷を溢れさせ、焼き切る魔剣。君たちの誰もが、それを防いだ。ある物を除いては」
ジジジジジジッとけたたましい雷鳴と共に、紫電が走ったのは天柱支剣ヴェレヴィムである。
ディードリッヒが、はっとした。
「……お前さん……まさか…………?」
フッと笑い、セリスはこともなげに言う。
「そう、ずっとこのときを待っていたんだよ。整合神の秩序が薄れた今、天蓋を支える支柱が一本折れれば、災厄の日は今日にも訪れるかもしれないね」
天柱支剣の剣身に走った紫電が一気に弾けると、ぐらりと、その巨大な剣が倒れていき、支柱の間の壁を崩していく。
同時に空からは再び激しい地割れの音が鳴り響き、天蓋が落下を始めた。
「あの様子では、半時も持たぬか」
今すぐ代わりを用意したいところだが、さて、なにで支えたものか?
いずれにせよ、その前にセリスをなんとかせねばならぬ。
『魔王や』
ディードリッヒからの<思念通信>だ。
『セリスと覇王を任せても構わぬか?』
『ふむ。天蓋を支える手立てがあるのか?』
『おうとも。だが、この場からセリスを追い出してもらわねばなるまいて。できるか?』
俺は不敵に笑い、地面を蹴った。
「造作もないぞ」
リヴァインギルマを鞘に納めたまま駆け、アルカナに<思念通信>を飛ばす。
『覇王を見張れ。神を食った覇竜を失った今、大したこともできないだろうが、なにか奥の手を隠しているやもしれぬ』
『言う通りにしよう』
アルカナが手をかざし、覇王に雪月花を飛ばす。
「雪は積もりて、行く手を阻む」
雪月花が、覇王を閉じ込める雪の結界をそこに作り出す。
ヴィアフレアが体内から覇竜を出現させた瞬間、アルカナは<背理の魔眼>でそれを雪に変えた。
更にその魔眼が覇王を襲うも、彼女の体からは無数に覇竜が溢れ出し、<背理の魔眼>を防ぐ盾となっている。次々と覇竜は雪に変わっていくが、さすがに生みの親だけあり、体内には無数の覇竜がいるだろう。
とはいえ、あの様子では動けまい。
セリスはヴィアフレアを気にすることなく俺へ向かって踏み込み、万雷剣を振り下ろしていた。
リヴァインギルマの鞘で、それを難なく受け止める。
「僕をここから追い出すって?」
「ほう。<思念通信>を傍受したか?」
「まさか。君たちの顔に書いてあったよ」
バチバチと万雷剣から紫電が溢れ、次の瞬間爆発した。
<破滅の魔眼>でその威力を減衰し、身を低くしてそれをやりすごす。
セリスの目の前に球体の魔法陣を描かれた。
奴の左手の指先が、俺の顔面に突きつけられる。
「<紫電雷光>」
紫電が走る。
だが、魔法が発動しなかった。
可能性の刃が、それより先に球体の魔法陣を斬り裂いていたのだ。
「<波身蓋然顕現>」
二の太刀を、セリスは難なく避けた。
「可能性の刃は見えなくても、君の構えと術式で、どこに剣が来るかは見えているよ」
セリスはその魔眼でもって、魔法術式と構えを分析し、続くリヴァインギルマの一閃を避ける格好で、間合いに踏み込む。
同時に万雷剣を振り下ろした。
直後、奴はなにかに突き上げられたかのように、空へ打ち上がった。
「……ぐっ……!!」
「<波身蓋然顕現>が使えるのは、リヴァインギルマだけではないぞ」
刃が来ると身を低くし踏み込んだセリスの顎に、可能性の掌を叩き込んだのだ。
地面を蹴り、勢いよく吹き抜けの天井へ飛んでいく奴を、追撃していく。
「さあ、当て身か刃か、好きな可能性を選ぶがよい」
<波身蓋然顕現>を発動し、当て身と刃の二択を迫る。
体勢が調っていない今、俺の当て身を避ければ刃が、刃を避ければ当て身が当たる。
「フ」
セリスは笑い、ある魔法を使った。
<波身蓋然顕現>だ。
可能性の奴の体が、可能性の俺の体を押さえ、当て身と刃の両方の可能性を消した。
「両方防げないと思ったかい?」
口にした直後、俺の<根源死殺>の指先がセリスの胸を貫いていた。
「……っ……!!」
奴の顔が僅かに歪む。
「可能性を選べとは言ったが、実在の攻撃がないと思ったか」
貫いた奴の体を持ち上げるように、俺は勢いのまま上方へ飛んだ。
永久不滅の天蓋が、落ちてくる――