二人の世界
ミサを優しく抱き抱えながら、レイは二本の足で雄々しく立つ。
<酒吸収>の影響下にある逆鱗酒は、霧状に舞い散っては、仄かな輝きを放ち、すっとレイの体に吸収されていく。
それは、まるで彼らを祝福するシャンパンシャワーのようだった。
「……なにが……」
怒りを滲ませ、シルヴィアが呟く。
次の瞬間、彼女はキッとレイを睨みつけた。
「なにが、愛に酔っているだっ!? ふざけるのもいい加減にしろっ! 確かにその愛による魔法とやらで、お前はかろうじて逆鱗酒による酩酊に耐えている。だが、強がってはいるが、着実に酒はお前の体を蝕んでいるぞっ!」
シルヴィアは剣先をレイに向けた。
「その証拠に、酒を飲むペースが遅い。一気に飲めば、酔い潰れるからだ」
「わかっていませんわね」
ふっとミサが微笑する。
その余裕の表情を、シルヴィアは警戒した。
「なんだと? なにがわかっていないというのだ?」
「せっかく二人で愛の祝杯をあげるというのに、がっついては台無しですわ。それではまるで、盛りのついた犬ではありませんの」
「な……がっつ……な……わ、私の考えが、盛っているというのか……!」
シルヴィアは一瞬衝撃を受けたような表情を浮かべるも、それを憎しみに変換し、憤怒の瞳でミサを睨む。
「竜騎士シルヴィア。騎士道にすべてを捧げた、君の剣は美しく、そして凄まじく速い。だけど、それだけの使い手ならわかっているんじゃないかい? 速き剣が、必ずしも敵を斬り裂くわけじゃない。時には遅さも武器となる。愛の剣はその究極。愛を確かめ合う行為はね、遅ければ遅い方がいいんだよ」
苦渋に満ちるかの如く表情をしかめ、シルヴィアは言い放つ。
「……口の上手い男だ。認めよう。お前のその精神を斬る技だけはなっ! だが、いくら心を斬ろうと、この騎士の体までは斬れはしないっ!」
自らを奮い立たせるように彼女は叫ぶ。
「両手が塞がった状態で、剣は持てない。その女が剣の素人だということは構えを見ただけでもわかる。その上、抱き抱えられた状態では踏ん張りも利かず、動きも制限されるだろう。まともに戦えるわけもないっ!」
僅かに膝を折り、剣を後ろに引いて、シルヴィアは構える。
今にも飛びかからんばかりであった。
「飛び込めば一秒で終わりだ。その酒をすべて飲むまで待つと思うな」
「だったら、どうして飛び込んで来ないんだい?」
レイの指摘に、シルヴィアは返事に窮した。
「一秒で終わるなら、僕とミサはとっくに斬り倒され、残りの逆鱗酒も奪われているはずだよ」
険しい表情をしたまま、シルヴィアは依然として飛び込まない。
「ネイト団長も、とっくに樽の逆鱗酒を飲み干したのに、様子を窺っているだけだ」
レイがネイトの方へ視線を向ける。
彼はその魔眼を二人に注ぐばかりで、動こうとしない。
「この限局世界では、君たちはナフタの恩恵を受け、未来を見る擬似的な神眼を持っている。完全ではないがゆえに、それは僕たちにとって勝率の低い未来は取りこぼす。だけど、今この状況は、とても僕たちの勝機が薄いとは思えない」
七つの根源を持つレイと言えども、この限局世界で逆鱗酒を飲み干すことは、不可能に近かった。
だが、今レイは逆鱗酒を飲み続けている。そして、シルヴィアたちが飲まなければならない残りの酒は、ミサの手の中にある。
「つまり、この状況は君たちの神眼には見えていなかったもう一つ未来だということ」
険しい表情をしながら、シルヴィアはその神眼に魔力を込める。
「神眼を懲らせば凝らすほど、逆に見えなくなりますわ」
ふわりと微笑し、ミサは言った。
「なにぃ……?」
「だってそうでしょう? わたくしたちの愛が眩しすぎて、完全ではないナフタの神眼は眩んでしまっているのですから」
「これが僕たちの一〇万分の一の未来。君たちの神眼の盲点。そして、本物の預言を覆す、くさびとなる愛の一刀だっ!」
瞬間、シルヴィアが動いた。
「戯れ言をっ! 愛は弱さだっ!! 逆立ちしても私たちには勝てぬゆえに、見えないだけのことっ!! そんな馬鹿な話が認められるかぁっ!!」
<竜闘纏鱗>の翼が四つ、同時にはためく。
瞬間、シルヴィアの踏み込みは人の域に超え、神風の如く吹き荒んだ。
「竜技――」
シルヴィアが呟く。
言葉よりも早く、そして速く、神風の刃が振るわれた。
「<竜翼神風斬>」
その刃はまるで竜巻の如く渦を巻き、ミサとレイ、二人の体を飲み込んだ。
極限まで速さに重きを置き、研ぎ澄まされた剣閃の嵐。
避ける術なき必殺の竜技を前に、敵は声を発することなく散ることだろう。
しかし――
「遅いですわ」
「な……んだと……!?」
レイたちはそこにいた。
<竜翼神風斬>を見切り、最小限の動きでその剣の嵐を躱したのだ。
「なぜだ……?」
不可解そうに、シルヴィアは魔眼を二人に向ける。
だが、彼女にはその理由がわからなかった。
「……なぜそれだけの逆鱗酒を飲み、人一人を抱えて、<竜翼神風斬>よりも速く動けるっ!? 私が見たどの未来にも、貴様はこれほどの速さで動いてはいなかったぞっ!」
「あら、知りませんでしたの?」
ミサが不敵に笑い、答えを示す。
「愛する者と過ごす時間は――」
「――信じられないほど、速く進むんだよ」
「知・る・かぁぁっ……!!」
怒りと共に、シルヴィアの魔力が跳ね上がる。
それをバネに彼女は再び竜技を繰り出した。
「<竜翼神風斬>」
神風の剣閃が、嵐の如く吹き荒ぶ。
逃げ場もないほど風の剣撃が吹き乱れ、レイとミサの前後左右から襲いかかった。
瞬間、シルヴィアは魔眼を見開いた。
極限にまで速さに重きが置かれたその剣を、あろうことか、レイはゆっくりと歩き、躱していくのだ。
まるでどれだけ嵐が吹き荒れても、意に介せず歩く恋人同士のように、笑顔を絶やさず、彼らは<竜翼神風斬>の中を歩いていく。
「遅い……いや、だが、速いだと……!? なんだこれはっ!? なにが起きているっ!?」
自分の魔眼が映しているものがいったいなんなのかわからず、困惑したようにシルヴィアは表情を歪めた。
「騎士たるものが狼狽えるな」
ネイトの厳しい言葉に、シルヴィアは身を引き締めた。
「時間だ。奴ら二人の時間が恐ろしいほどの速度で流れている。だからこそ、奴ら自身の動きは遅いが、私どもには速く映る。遅くとも速い、という矛盾が成立する」
「……まさか、未来を司るナフタの限局世界で、自分たちだけ先の未来へ辿り着けるはずが……時の番神エウゴ・ラ・ラヴィアズとて、ここでは時間の操作は不可能なはず……!?」
ふむ。どうやら、また一段愛の深淵へ沈み込んだか。
「なに、あれ……? 見たことのない魔力反応だわ……」
サーシャが言う。
「カノンとミサちゃんが纏ってる光が、桃色になってるぞっ! あんな<聖愛域>、初めて見たっ!」
エレオノールが驚いたように声を発する。
「ふむ。あれは違うな。あの愛魔法、すでに<聖愛域>という次元を超えている。見よ」
ミサとレイが纏うその愛魔法の光が変化し、彼女らの背後に桃色の秋桜が浮かんだ。
しかし、魔法陣の変遷が妙な推移を辿っている。
そう、それは溢れる心のままに。
「頭で考えた術式ではああはなるまい。魔法陣の構築さえ、二人の愛に委ねたか。しかも、これは――」
く、と腹の底から笑いが漏れる。
「くくく、くははははっ。まさかな。いやいや、なかなかどうして、驚いたぞ。頭ではなく、愛で魔法を開発するとは。常識を知らぬ男よな。それでこそ、勇者だ、レイ」
足を止め、ミサを抱き抱えながら、彼は言った。
「<愛世界>。これは小さく、ささやかな、けれどもなにより強い僕たちだけの世界を作り出す」
「わたくしたちの愛の速度に、ついて来られまして?」
ギリッとシルヴィアが奥歯を噛む。
そして、それよりも遙かに大きく、俺の背後から奥歯を噛む音が聞こえた。
「舐めるなぁぁっっ!! そんなチャチな花で、私の竜と戦えるとでも思っているのかぁっ!!」
<竜闘纏鱗>の翼が四枚から八枚に増える。
凄まじいほどの魔力の噴出、その濃密な力に視界が歪みそうになるほどだ。
「<竜翼神風斬>ッ!!」
シルヴィアが神風となりて、レイたちに接近する。
<愛世界>で移動する彼らに、けれども、シルヴィアはピタリとついて回った。
「はああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
彼女が放つ嵐の如き連撃を、しかしレイに抱き抱えられたミサが、<愛世界>を纏わせた一意剣シグシェスタで打ち払う。
互いの速度はほぼ互角、レイとミサの恐るべき愛魔法の前に、シルヴィアは根源を削るほどの<竜闘纏鱗>で対抗している。
寿命を削り、魔力に変える捨て身の攻撃。
だが、それさえもレイとミサには届かない。
「なぜっ……!」
剣撃を繰り出しながらも、速き連撃を放ちながらも、シルヴィアは叫ぶ。
「なぜだぁぁっ? なぜっ!? そんな不安定な体制で、そんな拙い構えで、なぜ私の剣と互角に打ち合えるっ!!」
「言ったはずだよ。<愛世界>は僕たちの世界」
「わたくしとレイは一心同体ですわ。この剣は、わたくしの力とレイの技を合わせていますの。一人よりも二人が強いのは当然のことでしょう」
二人の大きな愛が、理を歪ませ、秩序さえも乱している。
抱き抱えられた不安定なはずの剣撃が、けれども速く、なにより重い。
彼らが纏ったあの秋桜の世界の中では、愛こそが秩序。
ならば、お姫様抱っこの剣が、独り身の剣に負ける理由があろうはずもない。
それが――<愛世界>。
二人だけの世界だ。
「ふざけるなぁぁっ!! 愛などで戦えるはずがないっ!! 乳繰りあっていれば強くなるなど、そんな虫の良い話しがあってたまるかぁぁっ!!」
「これが地上の人間の戦い方なんだ。力で劣る僕たちは、愛で戦うしかなかった。乳繰り合っていると卑下したければすればいい。だけど、言わせてもらうよ。僕たちは、真剣に愛し合っている」
桃色秋桜の世界が更に広がる。
「人の恋愛を笑うような奴に、どんな未来がつかめるって言うんだっ!」
「黙れぇぇぇぇっ!! 私たちは、愛など認めていては、強くなれなかったんだぁぁっ!! なにが僕たちの世界だっ! こんなお花畑の世界など、この竜の剣で叩き斬ってくれるわっ!!!」
無数の剣撃がその場で乱舞し、ミサの剣とシルヴィアの剣が切り結ぶ。
そうして、最後に、激しく衝突した。
互いに渾身の力を込め、両者は鍔迫り合いを行う。
それは、レイの誘いだったか。
速さでは魔力を振り絞ったシルヴィアが僅かに上。
だが、剣と剣の衝突では、一心同体、二人分の力を使えるレイたちが有利だ。
僅かに、押され、シルヴィアの膝が折れる。
「フ……」
彼女は不敵な笑みを覗かせる。
「終わりだ。動きが止まったぞ」
「よくやった、副団長」
シルヴィアの背後から、ネイトが飛び込んでいた。
「竜技――」
ネイトの背後に山脈のような<竜闘纏鱗>が浮かぶ。
それはとてつもなく巨大な霊峰の竜。その魔力が、彼の剣の切っ先に集中した。
「<霊峰竜圧壊剣>」
限局世界の街を削り取るほどの突き。
それは、見事な技量でもって、シルヴィアの脇をすり抜け、鍔迫り合いを続ける、ミサの<愛世界>の剣を押す――
瞬間、秋桜の花が乱れ舞う。
「なっ……にぃ…………!?」
<霊峰竜圧壊剣>の威力が増せば増すほどに、<愛世界>が反発し、桃色秋桜の世界がネイトを、そしてシルヴィアを飲み込んでいく。
「……ば、馬鹿なぁぁぁ……こんなチャチな花にぃっ……!? 飲み込まれ――うわあああああああああぁぁぁぁっ!!」
「まさか……これほどの力が、どこに残って……」
攻撃に<竜闘纏鱗>を集中していた二人は、秋桜が狂い咲く<愛世界>の反発をもろに食らった。
互いに見つめ合い、愛を囁くように、レイとミサが声を揃える。
「「<愛世界反爆炎花光砲>」」
秋桜が完全に騎士二人を覆いつくした。
刹那、その花が桃色の大爆発を巻き起こし、ネイトとシルヴィアが弾け飛ぶ。
「う、うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉっ……!!!」
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁっっっ!!!」
瞬間的に纏った<竜闘纏鱗>は爆発に散り、二人は一度空に投げ出されると、時計台に激突し、そのまま墜落した。
<愛世界反爆炎花光砲>。相手の攻撃をあえて受け、その分、<愛世界>の力を瞬間的に高めて放つカウンター魔法、か。
これも愛の秩序に満たされた理を利用したものだろう。
すなわち――
「障害が強ければ強いほど、愛は激しく燃え上がる――」
「――ご存知ありませんでしたの?」
二人は顔を見合わせ、幸せそうに笑う。
誰が見ていることも、まるで気にもしない自然体。
「どうぞ、レイ。お飲みくださいな」
宙に浮かんだ逆鱗酒は殆どレイが飲み干した。
僅かに残ったその雫を、ミサは指先で拭い、レイの唇を撫でるようにそれを飲ませる。
「あんっ……もう、なにをしていらっしゃいますの?」
指先を軽く舐められ、窘めるようにミサが言う。
レイは爽やかに笑い、彼女に言ったのだ。
「君の指先が、水に濡れて綺麗だった」
「いけない人ですわ」
レイの唇にトンとミサは指先を置く。
彼らの魔法が作り出したその秋桜の空間は、まさしく二人の世界だった――
羞恥心を捨て去り、二人は愛の深淵に沈む――