深淵に触れる優しい視線
眼下には、アガハの剣帝と未来神の姿がある。
しばらく庭で話し込んだ後、二人は城の中へ去っていった。
「ふむ。強い男だな。なにがあの男の希望なのだろうな?」
ミーシャはぱちぱちと瞬きをして、俺の方を向いた。
「知りたい?」
「ほう。わかるのか?」
「たぶん、少しだけ」
ミーシャの魔眼ならば、ディードリッヒの心中も推し量れよう。
「しかし、聞くわけにいかぬな」
ふふっとミーシャは微笑む。
「ナフタにわかるから」
「俺が知っても意味はあるまい。未来神も、どうせならばディードリッヒの口から聞きたかろう。希望の未来とやらでな」
ディードリッヒとナフタの会話から察するに、未来神に見えるのは、彼女の肉眼と魔眼に映る未来だけで、思考や心までは覗けぬようだな。
それが、あるいは希望の未来に辿り着くヒントになるか?
とはいえ、心をいくら変えたところで、行動せねば未来は変わらぬ。
そして行動すれば、ナフタの神眼に映るだろう。
「行く?」
「酔いは醒めたか?」
「大丈夫」
ほんのりと上気した顔で、ミーシャは言った。
「では、行くか」
俺たちはバルコニーを後にした。
しばらく廊下を進んでいき、ある部屋の前でミーシャは立ち止まる。
「わたしの部屋」
「そういえば、サーシャはどうした?」
ミーシャは隣の部屋を指した。
「部屋でおやすみ」
「ふむ。酒宴のときの様子では、朝まで起きそうもないな」
「楽しそうだった」
ミーシャはドアを開け、中に入る。
俺もその後に続いた。
「それで? 約束通り、時間はくれてやるが、なにをするつもりだ?」
ミーシャは小首をかしげた。
「わからない?」
「だから、聞いている」
「本当に?」
じっとミーシャは俺の目を覗き込む。
読めぬことをする。などと思っていたら、ミーシャはふふっと笑った。
それから、俺の手をとった。
「おいで」
彼女は俺の手を引きながら、ベッドへ導いていく。
「寝て」
なにをするつもりなのやら?
まあ、約束だからな。望み通りにしてやろう。
俺はベッドの上に仰向けに寝転がった。
「これでいいか?」
こくり、とミーシャはうなずく。
俺に顔を近づけ、彼女は言う。
「アノスのぜんぶを見せて」
ふむ。なるほど。なかなかどうして、俺のぜんぶを見せてときたか。
いやいや、それは予想だにしなかった。
まさか、そういうつもりとはな。
「意味、わかった?」
少し不安そうに、ミーシャが訊く。
「察しはつく。だが、そんなことはせずともよいぞ」
「だめ」
珍しく強い調子でミーシャは言った。
「ご褒美だから。見せて」
「仕方のない。こんなものが褒美に欲しいとは、奇特な奴だ」
言いながら、俺は体に纏った殆どの反魔法を解除していく。
ミーシャはベッドにあがると、ちょこんと正座になる。
彼女は俺の頭を両手で優しくつかみ、自らの膝の上に乗せた。
そのまま、魔眼に魔力を込めて、俺の全身を隅々まで覗く。
「アノスは疲れてる」
「なに、大したことはない。俺が反魔法を纏った状態で、それに気がつくのは、お前ぐらいなものだ」
地底に来てからは、休む間もあまりなかったからな。
連日、アルカナの力で夢の世界に入り、未来神ナフタと戦い、魔王の血を流した。
<極獄界滅灰燼魔砲>の消耗も並のものではない。
極めつけは、痕跡神との戦いか。
霊神人剣は俺を滅ぼすための聖剣。その秘奥たる<天牙刃断>は、本来のレイのものには及ばぬものの、この根源を傷つけるだけの力を十分に持っている。
その上、<極獄界滅灰燼魔砲>をあえてこの身で受けた。
より力の深淵に迫るためとはいえ、それにより、一度は滅びかけたのだ。決して、根源の傷をなかったことにできたわけではない。
その状態での<涅槃七歩征服>に、仕上げは<魔王城召喚>。
さすがの俺も疲労がないとは言いきれぬ。
「もっと深いところを見せて」
「そんなところを見てどうする?」
「信じて」
真摯な瞳で、ミーシャが俺を見つめる。
体の状態と根源をあまさず曝すのは、命取りになろう。
信頼できる配下にさえ、おいそれと見せられるものではない。
「ミーシャにはどのみち隠せぬだろうしな」
彼女はよく見える魔眼を持っている。
いずれは俺が万全の状態でも、根源の深淵を覗くことができるようになるやもしれぬ。
それに、深淵を覗けば覗くほど、魔眼は磨かれるものだ。
ならば俺の根源を見せることも、彼女の成長につながるだろう。
「これでよいか?」
根源の深層を覆う反魔法の殆どを解除し、ミーシャの前に曝す。
「後はお前の魔眼なら、容易く見えるはずだ」
彼女はぱちぱちと瞬きをした後、俺の深淵に視線を落とした。
「……かわいそう……」
ミーシャは俺の頭を優しく撫でる。
「根源が、ぐちゃぐちゃ」
「<極獄界滅灰燼魔砲>を克服するのは骨が折れるどころの騒ぎではなくてな」
なにせ世界を滅ぼす魔法をまともに受けたのだ。
「魔力で無理矢理維持してる」
ふむ。それがわかるとは、さすがだな。
「新たな根源の形に馴染むまではな。こればかりはすぐにどうこうできるものではない」
ミーシャは、痛みを覚えたような表情を見せる。
自分が痛いわけではないというに。
「二千年前ならば、こんなものだ。万全の状態で戦える方が珍しい」
「少しなら形を整えられる」
ミーシャの瞳に魔法陣を浮かぶ。<創造の魔眼>だ。
この王宮の上空に、擬似デルゾゲードが構築されていく。
「できるかもしれぬが、やめておいた方がいい」
「どうして?」
「俺の根源からは、今にも滅びが滲み出し、世界を破壊しようとしている。<創造の魔眼>ならば、その力で望ましい方向へ根源を整えていくことはできるだろうが、その分お前への負担が重くのしかかるだろう。なんのことはない、俺の疲労を肩代わりするようなものだ」
俺を見つめるミーシャに、言う。
「魔王の疲労だ。常人ならば、それだけで死ぬだろう」
ミーシャはそっと手を伸ばし、俺の頬に触れた。
「大丈夫」
優しく、彼女は囁く。
「少しだけ、わたしにも背負わせて」
柔らかいその魔眼は、けれども揺るぎない決意を秘めている。
これ以上言ったところで、聞きそうにない、か。
「深いところに、触れていい?」
「好きにせよ」
ミーシャの<創造の魔眼>が俺の深淵を覗き込む。
指先から頬に伝わる感触が、まるで根源まで届くかのように、魔力が込められた彼女の視線が、俺の深い箇所を優しく撫でる。
そうするごとに、少しずつ、少しずつ、俺の疲労は和らぎ、ぐちゃぐちゃに歪んだ根源の形が整えられていく。
「アルカナは背理神だった」
<創造の魔眼>で、俺を癒しながら、ミーシャが言う。
「わたしとサーシャはなに……?」
「わからぬ」
<創滅の魔眼>をセリスは、<背理の魔眼>だと言った。
アルカナも、それを見たことがあった。
その事柄がどのようにつながるのか?
あるいはすべてが、偽りにすぎぬのか?
今の段階では、なにもわからぬ。
「だが、お前は俺のかけがえのない友人であり、配下だ。それがわかっていれば、たとえ過去がどうであれ、恐れる必要はあるまい」
柔らかくミーシャが微笑む。
その言葉が、聞きたかったとでもいうように。
「アノスは優しい」
そう囁く少女は、瞬く間に魔力を消耗していく。
滅びの力を持つ俺の根源を、その深淵を直接見ているのだ。
それだけでも苦痛が伴うだろうに、あるべき姿に導こうというのだからな。
「それぐらいでよい。ずいぶんとよくなった」
身を起こそうとすると、ミーシャは小さな手で俺の頭をそっと押さえつける。
「だめ。大人しくしてて」
再び、俺の頭を膝上に乗せ、彼女は微笑む。
そうして、言ったのだ。
「ご褒美だから」
「痛みが褒美か? 奇特なものだ」
ふるふると彼女は首を左右に振った。
「アノスの役に立てることは、あんまりないから」
「お前の忠義には頭が下がるが、配下に痛みを肩代わりさせるほど弱くはないぞ」
「痛くない」
耳元で囁くように、ミーシャは告げる。
「アノスの深いところに触れているから」
ふむ。わからぬことを言う。
「理由にならぬように思うが?」
ぱちぱちと瞬きをした後、彼女は小さな声で答えた。
「わたしだけ」
「……まあ、これほど他の者に根源を好きにさせたことはないがな」
させようにも、ミーシャほどの魔眼と、創造魔法の使い手でなくては、どうにもならぬことだしな。
「アノスがぜんぶを見せてくれて、わたしに深いところを許してくれている」
ミーシャが微笑む。
俺を気遣うように、痛みなどないと虚勢を張るように。
「みんなの魔王を」
嬉しそうに彼女は言ったのだ。
「一人占めしてるみたい」
今だけ、と彼女はつけ足す。
結局、ミーシャは朝が来るまで俺を優しく撫でてくれていた。
アノスの役に立ちたいミーシャでした。