希望の未来
地底が暗くなる、すなわち極夜の頃――
用意してもらった部屋では、アルカナがすーすーと寝息を立てている。
酒宴の後に一度目を覚ましたが、もう夜だったため、またそのまま寝かしつけてやった。
ディードリッヒの預言に挑むのは明日だ。
それに打ち勝ち、ガデイシオラへ行き、リカルドを助ける。
そして、災厄の日の預言を覆す。
ついでに、俺とアルカナの記憶も取り戻せれば、言うことはない。
「……お兄……ちゃん……」
アルカナに視線をやるが、彼女は眠っている。
ただの寝言だろう。
頭を撫でてやれば、彼女は僅かに微笑んだ。
「慣れぬ酔いは、堪えただろう。ぐっすり眠るといい」
俺は立ち上がり、部屋を後にした。
剣帝王宮の廊下を歩いていくと、ある扉から騒がしい声が聞こえた。
宴会場だ。
中の様子を覗くと、舞台にはシンとネイトがいた。
まだ飲んでいたのか。
周囲には空の酒樽が山のように積み上げられている。
「ここまで私と張り合える男がいるとは。やりおる」
生真面目な顔で、ネイトは言った。
「あなたもなかなかのものです」
冷静な表情のまま、シンは彼に視線を返す。
「では、小手調べはこのぐらいにして、そろそろ本気で飲み合うとしましょうか」
「是非もない。今宵は飲み明かそう」
酒戦を経て、認め合ったか、彼らは互いに笑顔を向ける。
アガハの騎士たちが、恐れ戦いたように後ずさった。
「い、今までの飲みっぷりが、小手調べ……」
「あの二人、化け物か……」
「……ね、ネイト団長っ。そのぉ、盛り上がっているところ悪いのですが、もう城中の酒を飲み尽くしてしまったようで……」
騎士の一人がそう告げると、ネイトは眉根を寄せた。
「むぅ……これからだというのに……」
「そこに良い酒があるのではありませんか?」
シンが黄金の樽に視線を向ける。
逆鱗酒であった。
「……しかし、逆鱗酒は竜狩り用の酒……これを飲み尽くされるわけには……」
「構わん」
ネイトが鋭い口調で言った。
「しかし、隊長」
「構わんと言っただろう。客人に対して、酒が足りぬなど竜騎士団の恥もいいところっ。竜など剣で狩ればよいっ! いいから逆鱗酒をありったけ持ってこい」
「……は」
宴会場を出ていこうとする騎士たちを、俺は手で制した。
「アノス殿……これはどうも」
騎士たちは軽く俺に会釈をし、足を止める。
「シン。ほろ酔い程度でやめておけ。明日からはまた忙しくなる」
「御意」
シンはそう返事をすると、またネイトの方を向いた。
「もう少々、酒杯を交わしたいところでしたが、今宵はこのぐらいで」
「承知。いや、楽しい酒戦であった。シン・レグリア、地上に貴様のような男がいようとは」
男たちは、和やかに視線を交わす。
なかなかどうして、親交は深まったようだ。
「かたじけない、アノス殿」
騎士の一人がそう頭を下げた。
逆鱗酒が尽きぬことに、騎士たちはほっとした様子だった。
「なに、気にするな。楽しい酒宴だったぞ」
「恐縮です」
騎士たちは再び頭を下げる。
俺は宴会場を後にすると、しばし廊下を歩いては、バルコニーへ移動した。
夜のため、辺りは薄暗い。
眼下にはアガハの街が広がっている。
家々の灯火が、まるで満点の星空のように見えた。
その景色をぼんやりと眺めるプラチナブロンドの少女がいる。
手すりに小さな手をかけ、夜風に髪が揺れていた。
「ミーシャ」
声をかけると、彼女はゆるりと振り向いた。
そうして、俺を見て、嬉しそうに頬を緩める。
「おかえり」
ミーシャのそばまで歩いていく。
「アルカナは大丈夫だった?」
「ああ、ぐっすりと眠っている」
「よかった」
淡々と、けれども優しく、彼女は言った。
「なにをしていた?」
「酔い醒まし」
そういえば、ミーシャもそこそこ飲んでいたか。
「魔法で解毒しても味気ないことだしな」
「ん」
「行くか?」
「もう少し」
酔いが醒めるまで、ここにいたいということだろう。
「では、そうしよう」
「アノス」
なにかに気がついたように、ミーシャが俺を呼んだ。
「どうした?」
「あそこ」
手すりから、僅かに身を乗り出すようにして、ミーシャが下の方に魔眼を向ける。
重なり合う木の葉の隙間に視線を通せば、岩の上に未来神ナフタが座っていた。
彼女は瞳を閉じたまま、俺たちとは反対側の方向、天蓋へ顔を向けていた。
<未来世水晶>カンダクイゾルテは持っておらず、両手はだらりと下げている。
なにを考えているのか、その表情から心中を推し測ることはできない。
「――たまには、酒宴の席に顔を出してもよかろうて」
渋い声が響く。
そこへやってきたのは、ディードリッヒだ。
ナフタは彼を振り向くことなく、天に顔を向けたままだ。
「ナフタは否定します。酔わない神が酒席にいても、場が白ける未来しかないことでしょう」
その言葉を聞きながら、ディードリッヒは彼女のもとへ歩いていく。
「神が酔わないわけでもあるまいて。魔王の選定神は立派に酔っぱらっていたものだ」
「名もなき神は、創造の秩序を有している。不適合者により、感情を得た彼女は、それにより酔いを得ました。あれが、どの神でもなせることではない奇跡だと、預言者よ、あなたはすでに知っているはず」
「そいつは否定できないがよ」
ディードリッヒはナフタの傍らに立ち、彼女と同じ方向に視線をやった。
「ディードリッヒ。あなたはなぜ、ナフタに話しかけるのですか?」
「そいつは、お前さんが応えてくれるからに他なるまいて」
一瞬考えるように口を閉ざし、それからまた彼女は言った。
「ナフタは盟約を交わしました。選定者であるディードリッヒが求めるのならば、いかなることにも応じます。しかし、本来、未来神と預言者の間に言葉は不要です」
ただ事実を告げるように、ナフタは言った。
「ナフタをディードリッヒがその身に降ろした際に、未来神ナフタと預言者ディードリッヒが辿るあらゆる未来を見せました。ディードリッヒがなにを言えば、ナフタはどう応えるか、あなたはすでに知っている。わたしもそれを知っています」
「神であるお前さんにとっての未来は、俺たちとはちいとばかし違うだろうよ。だが、見えたからと言って、知っているからと言って、それを成さぬというのは俺の性分ではないものでなぁ」
ニカッとディードリッヒは笑う。
「数多ある預言の内から、俺はお前さんとこの会話をする未来を選んだ。確かに、俺たちにとっちゃ、馬鹿馬鹿しいぐらいの予定調和だろうよ。だが、俺はこの未来を、ありえた未来の一つではなく、過去にしておきたかったのだ」
ナフタはその顔を、アガハの剣帝へと向けた。
「ナフタは尋ねましょう。それは、なぜです?」
「選定審判のため、お前さんと盟約を交わし、もうどのぐらいになるか。初めてお前さんと会った日に、お前さんが口にした言葉をよおく覚えている」
ディードリッヒは表情を和らげ、言った。
「未来が光だとすれば、あらゆる未来を見据えるナフタの神眼は、人の心に暗い影を落とす。預言は希望ではなく、絶望。預言者は一人、闇を抱え、民に光を注ぐ者。汝、ナフタと盟約を望むか?」
「ディードリッヒはこの問いに、イエスと答えました。あなたが断る未来はただの一つも存在しませんでした」
「お前さんの言った言葉の意味が、今ではよおくわかる」
しみじみと、これまでの出来事に思いを馳せるように、彼は呟く。
「こいつは、たまらんぜ……」
まるでそれは、苦しみの吐露だった。
「ナフタは思考しています。この世は秩序に満たされ、不可能ばかりが人の生。されど、その目が盲目だからこそ、人々は不可能に希望を見る。希望を見るからこそ、人は生きていける。ナフタから見れば、人の目はすべて閉ざされている。されど、閉ざされているからこそ、見えるものがあります。それが希望。たとえこの両目を閉じようと、ナフタの神眼には決して映らぬもの」
ディードリッヒは苦い顔でそれに応えた。
「そいつは、間違いなかろうて」
「歴代の剣帝の半数は、ナフタと盟約を交わしませんでした。もう半数は盟約を交わした後、与えられたナフタの神眼を自ら捨てました」
ナフタは告げる。
「最善の未来よりも、希望の未来が人には望ましいということでしょう」
天災により、毎年国民が一〇〇名死ぬとしよう。
未来を見て、どう対策を取っても、一〇〇名死ぬことが最善の未来だ。
未来を見なければ、毎年国民は五〇〇人死ぬ。
それでも、いつかそれが〇にできるかもしれないという希望のある未来を、人は望む……か。
存外、そうかもしれぬな。
明らかに前者の方がいいはずだが、感情というのはままならぬ。
知らなければ幸せだったということが、確かに存在するのだろう。
「されど、預言者ディードリッヒは、ナフタの神眼を与えられてなお、その目で希望を見ようとしています」
ナフタは静謐な声で彼に問うた。
「なぜですか?」
「俺はアガハの王だ。この国の民のため、未来を見据える義務がある。そして、この国に尽くした神のために、希望を見てやらねばならんのだ」
ディードリッヒは、穏やかに言う。
「ナフタ。お前さんに一度ぐらいは見せてやりたいのだ。お前さんのこの神眼でも、希望が見えるところをな」
「ディードリッヒは、魔王が口にしたナフタの盲点が、存在すると思っているのですか?」
「さあて、あるとも思えぬが、あるかもしれぬな。だが、なければ、作ってやるしかなかろうて」
どこか冷めた表情をしているナフタに、ディードリッヒは朗らかな笑みを向けた。
「なあ、ナフタ。確かに俺には歴代の剣帝たちとは違う点が一つある。それがお前のこの神眼さえも曇らせ、俺に希望を見せるだろうよ」
ナフタの表情に、僅かだけ困惑の色が混ざった。
それを見て、ディードリッヒはガハハッと豪快に笑い声を上げる。
「なにがナフタの神眼を曇らせているのか。お前さんにも見えまいて。こいつは預言を覆すまで、言わぬと決めているのだ」
預言を覆す未来は、ナフタには見えようがない。
ディードリッヒがその理由を告げる未来は、言ってしまえば存在しないも同然だ。
「気になるか?」
しばし考えたように俯き、ナフタは目を開く。
その静謐な神眼が未来を見据え、ディードリッヒを見つめた。
「ナフタは気になります」
満足そうに彼は表情を綻ばせる。
「いいものだろうよ。わからぬというのは。だが、王たる者が、希望のために、最善を捨てるわけにはいくまいて。お前の神眼で最善を見、俺のこの目で希望を見よう」
ナフタはすっと立ち上がり、ディードリッヒに正対する。
厳かに、けれどもどこか優しく、彼女は言った。
「最後の預言者、剣帝ディードリッヒ。ナフタは感謝します。盟約を交わす最後の王が、あなたであったことを。あなたと過ごすこの未来だけが、未来神ナフタにとって、唯一待ち望んだ救いでありました」
「そいつは重畳」
天蓋をつかむかのように、ディードリッヒは手を伸ばし、ぐっと握り締めた。
「共につかみとろうぞ。最善の果てにある、希望の未来を」
ディードリッヒはどんな希望を見ているんでしょうね。