一五〇〇年の祈り
微かに、歌声が聞こえた。
みるみる音は大きくなり、神竜の歌声が先程と同じように響き始めた。
トモグイが食べたのは神竜の一部、ジオルダル全域を覆う竜だとすれば、かすり傷にすぎぬだろう。
きょとんとするナーヤに俺は言った。
「外は危険だ。魔王城に戻るといい」
「はっ、はい。申し訳ございません。行こっ、トモ。今度は大人しくしててね」
トモグイがクゥルルッと返事をする。
竜を胸に抱きながら、ナーヤは魔王城の中へ入っていった。
俺は<飛行>で飛び上がり、宙からジオルダルを見渡した。
四方に立ち上っていた唱炎はすうっと消えていく。
そうかと思えば、再び東西南北同じ箇所から、炎の柱が立ち上った。
唱炎はアルカナが天蓋に作り出した<創造の月>、そしてそれが降らせる雪月花の結界と激しく衝突し、火花を散らせる。
<魔王軍>でつないだ魔法線を辿り、レイたちの視界に魔眼を向ければ、すでに全員が唱炎で地上を砲撃するジオルダル教団の部隊と交戦中だった。
敵は一個大隊、一瞬で聖歌を止めることはできないだろうが、制圧するのは時間の問題といったところか。
神竜の歌声は、魔眼を妨げ、大部隊すら隠す。
派手に砲撃している部隊を陽動に使い、恐らくはまだ数個大隊の伏兵が潜んでいるはずだ。
そのどこかに、全隊を指揮する教皇ゴルロアナはいる。唱炎にて、地上を撃ち抜く好機を虎視眈々と狙っている――そう、俺に思わせたいのだ。
だから、ミッドヘイズを撃った。
俺の意識が嫌でもそちらに傾くように、ディルヘイドで最も国民の多い都を。
奴は俺に、唱炎を警戒させたいのだ。
真の狙いは、神竜の歌声。
これはジオルダルの部隊を隠蔽するだけのものと思わせるために、堂々と音を鳴らしている。
だが恐らく、歌声は、隠しきることができないのだ。
音の竜である神竜が活動するとき、魔法で隠蔽しようとしたところで、音が大きく鳴り響いてしまうのだろう。
それを不自然と思わせないために、魔法砲撃を行った。
神竜の歌声は竜域に似た性質を持つ。
だが、これが音の竜だというなら、あくまで鳴き声、副産物にすぎぬ。
本当に竜ならば竜域を産み出す以外のことができるはずだ。
それが、教皇の目的である可能性は高い。
俺はジオルダル中へ魔眼を向ける。
魔眼の働きは阻害されているが、しかし、それだけに歌声が最も強く響いている場所を見つけることは難しくない。
逆に魔力が見えない場所を見つければいい。
国を見渡せば、西の方に、ほんの僅かも魔力の見えない地点があった。
ここから二〇〇キロ、地下遺跡リーガロンドロルだ。
魔力の消耗を惜しまず、全速力の<飛行>で西へ飛んだ。
瞬く間にその場所、リーガロンドロルの上空に到着する。
耳を劈くほどの大音量で、神竜の歌声が多重に輪唱していた。
そのまま降下し、扉をぶち破って、地下遺跡の内部に俺は突入する。
下へ下へと降りていくが、昨日来たときと違い、終わりが見えぬ。
やがて、地底の空が目の前に現れた。
天蓋が頭上を覆っている。
痕跡神の夢の中で見た、あの本の荒野だ。
果てなき大地には、どこまでも遠く巨大な棚が並び、そびえ立つ。
その中心に立っていたのは、純白の本を手にし、厳かな衣装を纏った神族。
痕跡神リーバルシュネッド。
そして、傍らに跪き、祈りを捧げるのは、教皇ゴルロアナである。
俺は荒野の大地に着地すると、まっすぐ視線を二人に向けた。
「痕跡神リーバルシュネッドは、お前とすでに盟約を交わしていたというわけか」
言葉を投げかけると、ゴルロアナは静かに口を開く。
「ええ。痕跡神は歴代の教皇に受け継がれてきた、ジオルダルの守り神。選定の神、福音神ドルディレッドに選ばれる以前より、私はリーバルシュネッドと盟約を交わしております」
地底は神の力により支えられてきた。あり得る話だ。
「神竜の歌声は、音の竜。更に深淵を覗けば、それは音韻魔法陣を成している」
音韻魔法陣がたえず生みだしている音の竜といったところか。
祈る手を崩さず、跪いたまま、教皇は目を開いた。
奴に向かい、続けて俺は言った。
「かつて地底のどこかで使われた音韻魔法陣。その痕跡を拾い、組み合わせ、幾度となく繰り返し再生することで、ジオルダル全域に及ぶ音韻魔法陣を歴代の教皇たちは響き渡らせてきた。痕跡神リーバルシュネッドを引き継ぎ、教典を引き継ぎ、来るべき日に向けて」
恐らくは、それが今日だろう。
「いつから神竜の歌声が響いているか知らぬが、少なく見積もっても千年以上は絶やさずその音韻魔法陣を奏で続けてきた。痕跡神の秩序を用いたそれだけの大魔法、奇跡すら容易く起こせるやもしれぬ」
敬虔な顔をしたまま、ゴルロアナは厳かに言う。
「アヒデが教えに背かなければ、あなたは今、ここに立ってはいなかったでしょうに」
もはや、隠すつもりもないのだろう。
ゴルロアナを生かしておけば、ディルヘイドを危険に曝すとアガハの預言者ディードリッヒは言った。
奴が最後までシラを切り通そうとしなかったのも、地上への砲撃で俺を足止めしたかったのも、その預言があったからに違いあるまい。
「ミッドヘイズどころか、狙いはディルヘイド。いや、この音韻魔法陣の規模から考えれば、地上のすべて、といったところか」
祈りを捧げ続けるゴルロアナに、俺は言葉を投げかけた。
「あの天蓋を吹き飛ばすのが神の教えか、ジオルダルの教皇よ」
「竜の胎内にて、人を子竜に転生させる王竜がアガハの教えならば、ジオルダルは竜の胎内にて、世界を生まれ変わらせる神竜こそが教え」
ゴルロアナは厳かに教えを説く。
「世界を飲み込み、胎内に孕み、正しく創生し直す。地底と地上の境を、あの天蓋を天空に変える神の使い、それこそが神竜なのです。生まれ変わった天空からは恵みの雨が降り注ぎ、この地底は楽園に生まれ変わるでしょう」
「天蓋を空に変えるというのは、つまり、地上を灰燼に帰すということだろう」
「境をなくし、世界を転生させるのみです。どうかご安心を。地上に生きる者が死ぬことはありません。それは、国は違えど、この世界に生きるあなた方への神の慈悲です」
「話にならぬ。地上を失い、地底で生きろと? 今の暮らしが消え失せるも同然だ。罪なき地上の民の幸せを奪ってまで、そんなに楽園が欲しいか、ゴルロアナ」
「手を取り合うことはできないと申し上げたはずでございます。私たちは、同じ地底の民ですら、ジオルダル、アガハ、ガデイシオラと分断され、わかり合うことはできておりません。ましてや地上の民とは到底不可能というものでしょう」
俺の話に教皇が応じているのは、音韻魔法陣である神竜が発動するのに時間が必要だからだろう。話せばその分だけ、時間が稼げる。
「情けないことを言うものだ」
「地上の王よ。世界は分けられているのです。地上と地底の間に設けられたあの境は、この隔たりは、なにがあろうとも決して埋められるものではありません」
揺るぎのない決意を込めて、ゴルロアナは俺を睨む。
「ここに来るまでの一面の荒野をあなたはご覧になったでしょう」
静謐な声で教皇は言う。
「召喚竜と召喚神の恵みにより、地底の民は生きております。逆に言えば、それがなければ生きてはいけません。地上にもたらされた秩序の恵みに比べ、我々に与えられる恵みはあまりにも小さい。なぜ罪を犯してはいない地底の民が、地上の民よりも恵まれないのでしょうか?」
教皇は問いかけ、そして言った。
「境が人の幸福を隔ててはならない。ならば、境をなくすほかありません。生きとし生ける者を平等に。誰もが抱く理想郷を、神は実現なさるのです」
「これまで地上で暮らしていたものが、恵みの雨が降ったからといって、地底で暮らしていけると思うか? 結局は不公平しか生まぬ。神に言ってやれ。遅きに失したとな。初めから境を作るべきではなかったのだ」
俺は教皇をまっすぐ睨み、力強く声を発した。
「神が犯した失敗のツケを、なぜ地上の者が払わねばならぬ?」
「今は不公平が生まれようとも、すべては未来のため。たとえ今叶わずとも、百年後のために祈りを続けるのが、この国を思う教皇の務めです」
「やめておけ。急激な変化がもたらすのは、争いだけだ。本質的な平等がこの地に生まれようと、人々の意識はままならぬ。どんな綺麗事を吐こうとも、所詮は奪った者と奪われた者だ。千年続く恨みの連鎖に民を縛りつけるつもりか」
それがわからぬ愚者とも思えぬ。
なにかに囚われているのだろう。
「世界を変えたくば、ゆるりと変えていくほかない。今日よりも明日の暮らしをよくするように務める以外に、近道などないぞ」
「あなたが地底の王だとしても、同じことをおっしゃいましたか?」
「ならば、地底の民に真実を話せ」
言葉を突きつけると、一瞬、リーガロンドロルに静寂が訪れる。
「天蓋の上には魔族や人間、精霊たちが、地底の民と同じように暮らしている。その恵みを奪い、我らのものにするのだとな」
「これは教典に伝えられたジオルダルの教え。罪を背負うべくは、代々の教皇のみ。地底の民の罪を、この身に背負い、祈りを捧げるのがこの国の教皇たる私の務めなのです」
目を閉じ、ゴルロアナは深く神に祈りを捧げる。
「生まれた場所の違いで、なぜ不遇を味わわねばならぬのか。お前の意見はわからぬでもないがな。それだけの想いがあるのならば、世界の理想を目指すというのならば、神に祈らず、この手を取るがいい」
奴の目の前に歩いていき、俺は手を差し伸べた。
「俺だけではない。アガハやガデイシオラ、その他多くの国と、手を取りあってみよ。約束しよう。この愚かな選択よりも、幾分かマシな未来に辿り着ける」
差し伸べた手に視線をやりながらも、ゴルロアナは祈り続けている。
「天蓋を撃ち抜くのは、俺が約束を違えてからでも遅くはあるまい?」
その言葉に、ゴルロアナは数秒口を閉ざし、祈るように考え込む。
そうして、教皇は目を開き、俺を射抜くように見据え、言ったのだ。
「……残念ながら、遅すぎました。もうすでにそれを考えることすら遅いのです。今日このときが、神竜が真の大空に羽ばたく唯一の日。二度目はありません。私が信じるのは<全能なる煌輝>エクエス。神こそが唯一、この地底に救いをお与えくださる」
古くからジオルダルに響く神竜の歌声、その音韻魔法陣が効果を発揮するのが、今日このときのみということなのだろう。
「私の父も、祖父も、そのまた父も、皆、救済を祈り、そしてこの地に果てた。天啓が下った日より今日に至るまで代々の教皇に受け継がれてきたこの教え、一五〇〇年に渡るこの祈りは、いかなる巡り合わせか、私に託されました。彼らの祈りを、その悲願を、今ここで無に帰すわけにはいきません」
一寸たりとも譲歩するつもりはないというように、教皇は声を上げた。
「私はすでに選定審判から降りた身、されど救済者として最後の務めを果たしましょう。不適合者、選定審判を滅ぼそうというあなたの意志は間違っています。あなたの神を否定し、あなたを選定者の聖座から降ろし、そして私はあなたを救済します」
「ほう」
「アノス・ヴォルディゴード。私が正しいことを、この一五〇〇年の祈りとともに、その身に教えて差し上げましょう」
「ふむ。やってみるがいい」
魔法陣を描き、両手を黒き<根源死殺>に染めた。
「祈った年月に目が眩み、お前たちは誰もがそれを正しいと思い込んでしまった。一五〇〇年、もはや簡単にやり直すとは言えぬ時間だ。それでも、お前が本当にやらねばならなかったのは、勇気を持って間違いを認めることだ」
ゴルロアナとその傍らに佇む痕跡神を睨む。
「お前たちの祈りも、お前たちの神も、なにもかもを打ち砕き、この国に教えてやろう。お前たちの一五〇〇年は徒労だったのだ」
譲らぬ両者が、再び激突する――