嘘
サーシャは言った。
「アノス」
ようやくか。
俺はゆるりと身を起こし、部屋中に描かれた魔法陣に魔眼をやった。
だが、未完成だった。
「まさか、間に合わなかったと言うんじゃないだろうな?」
「そんなわけないじゃない。これで完成よ」
サーシャは手をかざす。
発動した魔法は部屋に注ぎ込んでいた月明かりを無数の光に枝分かれさせ、魔法陣の足りないピースを一気に埋めた。
完成したのは、部屋一帯を埋め尽くす巨大な自然魔法陣である。
俺はすぐさま魔眼を働かせ、その魔方術式を解析した。
何十万と描かれた複雑な魔法文字を正確に解読するのは、この時代の術者ならば、丸一日は要したかもしれない。しかし、俺は見た瞬間に難なくそれを看破していた。
魔法行使は造作もない。
だが――
「く、くくく。くははははっ。なるほど。なるほどな、サーシャ。初めからお前は勝負に勝つつもりなどなかったというわけだ」
俺の言葉に、サーシャは微笑した。
「自分の力ぐらい弁えているもの。こんな勝負、いくら負けたっていいわ。でも、わたしは運命にだけは負けたくないの」
運命に負けたくない、か。
「お察しの通り、わたしの目的はこの大魔法をあなたに行使してもらうことよ」
「よく考えたものだ。俺が勝負に勝つには、この魔法を発動しなければならない。そして、勝負に負ければ、お前はこの魔法を発動しろと命じる」
<契約>がある以上、いずれにしても俺はこの魔法陣を使い、魔法行使を行わなければならない。勝負に勝とうと負けようと、サーシャは目的を果たせるというわけだ。
無論、俺の力をもってすれば抜け道がないわけではないが……それも無粋か。
「いいだろう。お前の知恵と勇気に敬意を表し、勝ちを拾わせてもらおう」
俺は魔法陣に向かって、手をかざす。
サーシャと魔力の波長を同調させ、魔法陣を起動する。
「初めてみるが、なんという魔法だ、これは?」
「根源同調。わたしが開発した魔法よ」
根源同調の魔法術式は、魔力の波長を改竄するというもの。
今俺がやったように魔法行使を行う表面上の波長ではなく、その根源から別人のように変えてしまうのだ。
<獄炎殲滅砲>級の高難度魔法である。サーシャはこの術式を構築するまではかろうじて成し遂げたものの、自ら魔法行使するまで力が及ばなかったのだろう。
それゆえ、俺に魔法を使わせたかったというわけだ。
根源同調の対象者は、サーシャ本人になっている。
「その覚悟、存分に示すがいい」
俺は根源同調を発動する。
青い粒子が蛍のように飛翔し、魔法陣の中心にいたサーシャの体が光り輝く。
更に光は強くなっていき、部屋全体が蒼く染まった後、ふっと視界は元の色を取り戻した。
「……終わったの……?」
「ああ、勝負は俺の勝ちだ。わかっているだろうな?」
サーシャはうなずく。
「嘘をつけないように、<思念領域>を使わせてもらうぞ」
<思念領域>はその範囲内にいる者の思考を術者に伝える。
反魔法で防げなくもないが、俺が相手ではまず不可能だ。
「構わないわ」
ミーシャに視線をやると、問題ないというようにうなずいた。
俺は<思念領域>を発動する。
「ミーシャ」
広大な部屋の中央で、ネクロンの姉妹は向かい合う。
月明かりが幻想的に降り注いでいた。
「あと十分ちょっとであなたは消えるわ」
ミーシャはこくりとうなずく。
「どんな気分かしら?」
いつものように淡々とミーシャは答えた。
「怖いものはない」
「そ」
まっすぐサーシャは妹を見つめる。
「本当のことが知りたいんだったわよね?」
「……ん……」
「いいわ。これが最後だもの。答えてあげる」
すっとサーシャは息を吸い込む。
<思念領域>に意識を傾ければ、その魔法を通し、彼女の思考が伝わってくる。
――これが、最後――
――あなたは、初めから存在しない。
――ただわたしは元の形に戻るだけ。
――自分と似たような存在が、いつもそばにいるほど、目障りなことはない。
――ああ、そんな風に思えたら、どれだけよかったんだろう。
――子供の頃、わたしがまだ<破滅の魔眼>をまったく制御できなかった頃……
――あなただけがわたしのそばにいてくれた。
――あなただけがわたしの目を見てくれて、あなただけがわたしに笑いかけてくれた。
――あなたが練習につき合ってくれたおかげで、わたしは目を合わせさえしなければ、誰かを傷つけることがないようにまでなれた。
――外に出て、他の魔族たちと笑うことができるようになった。
――でも、存在しないあなたは、使用人がつけられただけで、いつも独りぼっちで過ごしていた。
――十五年、わたしは十分に楽しく生きた。
――だから、もういい。もういいんだ。
――残りの人生はあなたにあげるわ。
――運命だからとあなたは言うけれど、わたしはそんなもの認めない。
――わたしたちの魂と体は二つに分かれたもの。
――わたしがオリジナルだけど、それを変える術があるはずだと思って、ずっと魔法を研究していた。
――<分離融合転生>が、わたしとあなたを区別しているのは、魔力の波長。
――だから、<根源同調>を使ってわたしの魔力の源である根源を、あなたとまったく同じにすれば、どちらがオリジナルかわからなくなる。
――わたしだけの力じゃ無理だったけれど、アノスのおかげで間に合った。
――あとはもう一つの魔法、<主格交代>であなたを本物にしてあげる。
――きっと、できるわ。
――<主格交代>を使うための最後のピースは、あなたがあなたであることを自覚すること。
――わたしを、サーシャ・ネクロンを拒絶すること。
――そのために、ずっと今日まで準備をしてきたんだもの。
――ずっと、あなたに嫌われる準備を――
――大丈夫。できるわ。
――これで、最後だけど――
――ごめんね、ミーシャ。わたしは本当のことなんか言わないわ。
――たとえ、<契約>の代償を支払うことになっても、どうせわたしは消える――
「ねえ、お人形さん」
――ねえ、ミーシャ――
「わたしはあなたのことが、ずっとずっと、大嫌いだったわ」
――わたしは、あなたのことが、ずっとずっと、大好きだったわ――
サーシャが契約に背く。
俺はその瞬間、<契約>を破棄していた。
「だから」
――だから――
「ごきげんよう」
――さようなら、ミーシャ。大好きな、わたしの妹。
サーシャは妹を抱きしめる。
悟られぬよう、気がつかれないよう、嘲笑しながら。
――うまく笑えているかしら?
――わからないけど、この状態なら顔も見えない。
――変えてみせる。あなたが死ぬなんて、そんな運命、ぶち壊してやるわ。
「……<主格交代>……」
――元気でね、ミーシャ。ばいばい――
サーシャが魔法を唱えた瞬間、二人は目映い光に包まれる。
その輝きが次第に収まっていき、光に飲まれた二人の影が見え始める。
十数秒が経過し、やがて光は完全に消えた。
そこにあったのは、変わらない二人の姿である。
驚いたような表情で、半ば呆然としながら、サーシャは妹の顔を見つめる。
「…………そんな……」
――ずっと、準備をしてきたのに。
――万全を期して、絶対に間違えないように、完璧に計画を練ってきた。
――それなのに……。
そんな心の呟きが溢れ出た。
彼女は絶望に染まったような声で、小さく、言葉をこぼす。
「…………どうして……?」
サーシャの魔法は失敗したのだ。
彼女は今にも泣き出しそうだった。
「なんの魔法?」
ミーシャが尋ねるも、サーシャは悔しそうな顔を浮かべるばかりだ。
そんな姉をじっと見つめた後、ミーシャは言った。
「サーシャは嘘が下手」
それは淡々とした口調で、けれどもとても優しくて、
「どうして嘘をつくのかわからない」
その瞳は、姉への好意だけが溢れている。
「でも、わたしは不器用なサーシャが好き」
サーシャは唇を噛み、ぐっと涙を堪えた。
だが、我慢しきれず、ぽたぽた頬に雫がこぼれ落ちる。
ミーシャが彼女を拒絶しなければ、<主格交代>の魔法は成立しない。
サーシャが立てた計画は、確かに完璧だったのだろう。
それでも、一つ誤算があった。
ミーシャは思った以上に姉のことが好きで、そしてサーシャも演技で取り繕えないぐらい妹のことが大好きだったのだ。
悲しいかな、サーシャがミーシャを助けたいという想いそのものが、その計画に破綻をもたらしたのだ。
「……馬鹿……」
絞り出したような声が、ただ響いた。
「……馬鹿よ、あなた……あんなに……あんなに、わたし、ひどいことをしたのにっ……!」
サーシャは訴える。
「ひどいことを言ったのに……あなたを傷つけたのに……どうして……どうして……?」
絶望に打ちひしがれるように膝をつき、サーシャは妹の胸に顔を埋めた。
「……お願い……ミーシャ、わたしを嫌いになって。拒絶して……」
涙をこぼしながら、懇願するようにサーシャは言う。
「じゃないと、あなたを助けられない。わたしはあなたの代わりに消えてもいいから」
ミーシャは姉の頭にそっと手をやり、優しく撫でた。
「よしよし」
サーシャの肩を抱いて、ミーシャは言う。
「気にしないで。最初からいなかったのはわたし」
「そんなの、そんなの関係ないわっ! だって、ミーシャはここにいるでしょ! わたしは守りたいのっ! 大好きで、大切な、妹だからっ。こんな運命、ぶち壊してやりたいのっ!!」
ぎゅっとサーシャはミーシャにしがみつく。
「……お願い……いなくならないでよ……わたしをおいていかないで……」
困ったようにミーシャは微笑む。
「わたしはいなくならない。サーシャになるだけ。ずっとあなたのそばにいる」
もう時間は殆どない。
ミーシャがミーシャでいられたのは僅かだった。
泣きじゃくるサーシャを撫でながら、彼女は満足そうな顔をした。
「仲直りができた」
ミーシャが俺を振り向く。
「アノスのおかげ」
「よかったな」
こくりと彼女はうなずく。
「他にお願いはあるか?」
ふるふるとミーシャが首を振る。
「思い残すことはなにもない」
まっすぐ、俺を見据え、彼女は言った。
「もう仲直りできないと思った。でも、わたしの人生には、二度も奇蹟が起きた」
「なにを言う」
不思議そうにミーシャは視線で問いかける。
俺は言った。
「本当の奇蹟は、これからだ」
手をかざし、<魔王軍>の魔法を展開した。