夢で交わした約束
夢の中――
アルカナは森の中を歩いていた。
いつも楽しげな少女の表情が、今日はどこか思い詰めた風でもある。
草木をかき分けるようにして、アルカナはぐんぐんと森の中を進んでいき、兄の魔眼が届く範囲から出る。
そうして、彼女の目の前に、一人の男の姿が見えてきた。
紫の髪と外套を纏った魔族、セリスである。
「やあ。来たね」
善良そうな顔で、セリスはアルカナを迎えた。
「……あのっ……」
アルカナはすぐに言葉を切り出した。
「魔法を教えてっ。竜から逃げられる魔法、あるんだよね?」
いったい、なにがあったのか。
昨日よりもアルカナは、切実そうにその魔法を求めた。
「勿論、そのつもりだよ。ただし、それはここじゃ難しくてね」
セリスはアルカナに手を差し出す。
「しばらくの間、アノスと別れることになるけど、大丈夫かい?」
アルカナは一瞬、躊躇する。
けれども、すぐに決意を固め、その手を取った。
満足そうにセリスは微笑む。
「行こうか」
魔法陣が描かれ、二人の体が浮き上がる。
目にも止まらぬ速度でセリスは空を飛び抜けていく。
しばらくして、二人の前に高い山が見えてきた。
その中腹にセリスが手を伸ばすと、そこに魔法陣が現れる。
宙に浮かんだまま、魔法陣の中心へセリスは向かっていき、そこをすっとすり抜けた。
山の内部に入ったはずが、辿り着いたのは石造りの室内である。
広い。終わりが見えないほど広い、建物の中である。
立ち並ぶ柱と、無数のかがり火。
その中心に一際目を引く銀の炎があった。
アルカナはそれを見て、恐怖に体を震わせる。
室内は、途方もない熱さで、その炎に近づく毎に温度を増す。
「これはね、審判の篝火というものだよ。この銀の炎に身を投げ、幾千の苦痛に耐えきることができれば、その者は強い力を得られると言われている」
審判の篝火を見つめながら、セリスは当たり前のように言う。
「その力があれば、竜から逃げるどころか、皆殺しにすることだって容易いだろうね」
「……だけど……死んじゃうよ……?」
「大丈夫。まずは竜から逃れる魔法を教えてあげるよ」
セリスがアルカナの首にネックレスをかけた。
「これは、なあに?」
「魔法が成功する、おまじないだよ」
ネックレスのトップには、透明の水晶がついていた。
セリスは目の前に魔法陣を描く。
「さあ、やってみようか」
言われた通り、アルカナは魔法陣を描いてみるが、しかし、うまくいかない様子である。
「手伝ってあげるよ」
セリスはアルカナが構築する魔法陣に手をかざす。
そうして、彼女の魔力を使い、ネックレスの水晶にある魔法陣を描いていく。
<使役召喚>だった。
その水晶――盟珠の内側に、魔法陣が次々と描かれ、積層されていく。
途端に、アルカナの背後に巨大な炎が立ち上った。
内部では、竜の影がゆらり、ゆらりと揺れている。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォッッ!!!」
けたたましい咆吼とともに、召喚の炎が消え去り、現れたのは黄金の輝きを放つ異竜であった。
「え……ぁ…………やだ…………」
アルカナが脅えたように後ずさり、そして、尻餅をついた。
「脅えることはないよ、アルカナ。君は竜に食われても、その胎内で生まれ変わることができる、竜核だからね。竜は産み落とす子の核となるべき、根源を求める。それで君はこれまでずっと竜に狙われていたんだよ」
驚いたような表情で、アルカナはセリスの顔を見た。
「あの招待状を見たんだろう? そろそろ思い出さないかい? アノスが君から奪い去った記憶を。彼がついた嘘を」
「……わたしは…………」
わからないといった風にアルカナは首を左右に振る。
「子竜になれば、忘却の魔法も解ける。すぐに思い出すよ。彼は竜に狙われる君を不憫に思って、逃げ続けてきたけれど、特に意味はなかったんだよ。竜に食われても、君はただ生まれ変わるだけだからね」
「…………やめ、て……」
脅えた表情で、アルカナはかろうじて声を絞り出した。
だが、セリスは善良そうな表情をしたまま、首を捻った。
「やめる? どうして? 僕は嘘をついてはいないよ。この命を賭けてもいい。生まれ変われば、君は竜に狙われることはなくなる。逃げ続けなくてもよくなるんだ。それを望んでいたんじゃないか」
自分の善意を疑いすらせず、セリスはこともなげに言った。
「……だって……た、食べられたら、痛いよ……」
「ああ。確かに、竜の胎内で、根源が混ぜ合わされ、一つになるのは、想像を絶する苦痛だよ。この竜は召喚されたばかりで、まだ一つも根源を食べていない。そうだね、たぶん、千人ほど食べれば、君は生まれ変わるだろう。痛いのは、たかだか、それまでの辛抱だよ」
まるで話の通じないセリスに、アルカナの表情が絶望に染まっていく。
「……助……けて……」
にっこりとセリスは笑う。
「わかっているよ。大丈夫。これから君を助けてあげるよ。もう竜に脅える生活はお仕舞いだ」
「……助けて、お兄ちゃ――」
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァッッッ!!!」
アルカナの叫びは、竜の唸り声にかき消され、その顎が幼い体を飲み込んだ。
少女を食む黄金の異竜を、セリスは満足そうに眺めている。
「アノスには、ここはわからないよ。それに、審判の篝火に比べれば、竜に食われる苦痛は大したことがないんだ。これは神族が下す審判の地へとつながっていてね。この世のものではない苦痛を与えられる。その予行練習だと思えばちょうどいい」
にっこりとセリスは笑う。
「君は、そうなるべくして生まれたんだ」
「――ふむ。人の妹によくもまあ好き勝手なことを言ったものだな」
視線を鋭くして、セリスが振り向く。
ピシ、と空間が軋む音が聞こえ、彼の目の前が真っ黒に炎上した。
魔法の扉をぶち破るが如く、漆黒の太陽、<獄炎殲滅砲>が撃ち出され、セリスに直撃する。
「へえ」
セリスは反魔法を張り巡らし、目の前を睨む。
黒く燃え盛る炎の中から、姿を現したのはアノスだった。
「なかなか強い魔法を使えるようになったじゃないか。だけど、相手の力量を見極める魔眼はまだまだだよ」
至近距離から放つアノスの<獄炎殲滅砲>を、セリスは平然と反魔法で防いでいる。
「君に彼女は救えない。だから、僕が救ってあげるよ」
セリスは左手をアノスに向け、<紫電>の魔法を放つ。
紫の稲妻が彼の反魔法打ち破り、その身を引き裂いた。
アノスの表情が険しく歪む。
「いいかい? なにも心配する必要はないんだ、アノス。彼女は生まれ変わる。こうして諍いを続けるのは無駄というものだよ」
「…………け……」
その魔眼で、アノスがセリスを睨みつける。
怒りに染まり、憎悪に満ちたそんな表情で。
「なんだい?」
「……どけと言っているのだ……!」
魔力がアノスの魔眼に集中する。
眠っていた根源の一端が覚醒するかのように、彼の瞳が滅紫に染まった。
途端にアノスの魔力が増大し、巨大な魔法陣が描かれる。
その中心から<獄炎殲滅砲>が射出され、セリスの体をぐっと押し出した。
僅かにその男は、目を見開いた。
「へえ。僕を力尽くで押しやるなんてね。さすがじゃないか。だけど、わかっているだろう? 君の<獄炎殲滅砲>じゃ、僕には及ばな――」
「ようやく気がついたか、マヌケめ」
押し出されたセリスの背後には、審判の篝火があった。
「……やれやれ。そんな手が通じるとでも――」
漆黒の太陽を振り払い、セリスが空中へ身を躱す。
刹那――
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァッッッ!!!」
狙いすましたように黄金の異竜の頭が突進してきて、セリスを弾き飛ばした。
「な――」
「ここしばらく、竜と鬼ごっこを楽しんだものでな。奴らの気を引く術は嫌と言うほど学んだ」
セリスは<飛行>で姿勢を制御しようとしたが、しかし、アノスがだめ押しにもう一発、<獄炎殲滅砲>をぶち込んだ。
「どこの誰だか知らぬが、そんなに審判の地とやらが好きならば、一人で行ってくるがよい」
ゴオォォッとセリスの体に火がついた瞬間、彼は審判の篝火に飲み込まれていく。
「やれやれ」
一度入った以上は出られないと悟ったか、セリスはその銀の炎の中で立ちつくし、だらりと両腕を下げた。
「まあ、いいか。これはこれで悪くない結果だ」
そう言うと、彼の体は完全に銀の炎に包まれ、この場から消え去った。
「グウゥゥゥゥゥゥッッッ!」
重低音の唸り声が響き、黄金の異竜の瞳がギロリとアノスを睨む。
「吠えるな。今楽にしてやる」
描かれた魔法陣とともに、アノスの右手が漆黒に染まる。
「<根源死殺>」
「ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォッッッ!!!」
吐き出された黄金のブレスを、その身に浴びながら、アノスは異竜の懐に飛び込み、その胸に黒き<根源死殺>を突き刺した。
「返せ」
グジュウッと頑強な鱗も強靭な皮膚も貫き、アノスは竜の胎内に手を伸ばす。
そうして確かに、それをつかんだ。
「俺の妹を、トカゲ如きに食わせると思ったか」
ぐんっ、とアノスが手を引き抜く。
断末魔の叫びと共に、異竜の体から夥しい量の血が溢れ出した。
ぐらり、と竜の巨体が傾き、大きな音を立てて、その場にひれ伏す。
アノスの手の中には、ボロボロになったアルカナがいた。
<抗魔治癒>の魔法を使い、彼女の体を光で包む。
だが、アノスの視線が、険しさを増した。
傷が癒える気配がないのだ。
生まれ変わる途中で無理矢理胎内から取り出したからか、刻一刻とアルカナの根源が蝕まれていく。
アノスは魔眼でじっとアルカナの全身を見つめた。
「……どうして、わかったの……?」
うっすらとアルカナが目を開け、兄に言った。
「出かけるときに、これを置いていっただろう」
アノスは魔法陣から、アルカナが書いた手紙を取り出す。
「『明日の誕生日、お兄ちゃんが一番欲しいものをプレゼントするから、期待して待っててね』などと書いてあったのでな」
回復魔法を続け、魔眼で彼女を癒す方法を探しながら、アノスは言う。
「なにやら無茶をするのではないかと思ってな。どこへ行ってもわかるように魔法で印をつけておいた」
案の定、魔眼の範囲から消えたため、すぐに追いかけたのだ。
「ごめんね、お兄ちゃん……」
気にするな、と言わんばかりにアノスは彼女の頭を撫でる。
「大丈夫だ、アルカナ。必ず助けてやる」
アノスが、妹に全魔力を注ぐ勢いで、<抗魔治癒>の魔法を使う。
みるみる彼は消耗していくが、妹の傷は一向に癒されない。
アルカナの根源はやはり、少しずつ蝕まれていった。
彼は奥歯を噛み、更に魔法に魔力を込める。
その表情は焦燥に染まった。
「……もう、大丈夫だよ、お兄ちゃん。わたし、元気になったよ……」
力なく、しかし精一杯気丈に振る舞いながら、アルカナが言う。
アノスが、かなりの無理をしていることが、見ていてわかったのだろう。
「相変わらず、下手な嘘をつくものだ」
自らの根源を削るほどの魔力をアノスは使っている。
その力を彼は一瞬たりとも緩めようとはしなかった。
「……わたし、ずっと気がつかなかった……」
「喋るな。傷に障る」
アノスの忠告に、しかしアルカナは悲しそうに笑った。
「……竜に追われていたのはお兄ちゃんじゃなくて、わたしだったんだね。お兄ちゃんはずっとわたしを守ってくれてた……」
体から力が抜けていく中、アルカナは必死に訴える。
終わりが近いと悟っているかのように。
「……わたし、強くなりたかったんだよ……一人で竜から逃げられるようになったら、そうしたら、お兄ちゃんは、もうわたしのことを気にしなくてもよくなるから……」
悲しげな瞳でアルカナは兄を見据えた。
「……わたし、知ってるんだ。お兄ちゃんは本当は魔法のお勉強がしたいんだって。わたしのせいで、お城に行けないから……一人でお勉強するしかなくて……だから、だからね……」
目に涙を溜めて、彼女は言う。
「もう大丈夫だよって……わたしは一人で大丈夫だから、行ってきてって、言いたかったんだよ……お兄ちゃんに、プレゼントをあげたかった……」
はらり、と瞳から涙がこぼれる。
「だけど、わたしは……嘘つきだった……」
「そんなものはいらぬ。可愛い妹がいてくれれば、それでいい」
「だって……!」
ぽたぽたと涙の雫がアルカナの目からこぼれ落ちる。
「……だって、わたしは、お兄ちゃんの妹じゃないのにっ……」
それも、アルカナが盗み見た招待状に載っていたこと。
彼女の背中を押した、絶望だったのだろう。
「……本当は……お兄ちゃんじゃないのに……」
「アルカナ」
静かに、アノスは言った。
「許せ。力が及ばぬようだ。お前を助けてやることができぬ」
「…………うん……」
「<転生>の魔法を使う。だが、根源魔法はまだ不得手でな。竜の胎内でお前の根源は変質してしまっている。どこでいつなにに生まれ変わるのか、記憶が残るかも定かではない。いや、成功するかもわからぬ」
アルカナは覚悟を決めたようにうなずく。
そうして、涙をぐっと堪えながら、精一杯笑ったのだった。
「いいよ。だって、そうしたら、お兄ちゃんはようやく自由になれるもんね。わたしは大丈夫。一人だって、恐くないよ」
「最後にプレゼントをもらおう」
「……なにが欲しいの…………?」
不思議そうにアルカナが問う。
「俺の妹になってくれ」
堪えた涙が、アルカナの瞳からまたポタポタとこぼれ落ちた。
「忘れるなとは言わぬ。思い出せ。必ず、思い出せ。お前は俺の妹だ。確かに血はつながっていない。それでも、お前と過ごした日々は偽りなどでは決してなかった」
泣きじゃくるアルカナをぎゅっと抱きしめ、アノスは<転生>の魔法陣を描く。
「……お兄ちゃん…………」
振り絞るように、アルカナが声を上げる。
「今度は、今度生まれ変わったらね……絶対、今度は絶対、わたし、強くなるからっ。強くなって、お兄ちゃんの力になるから……だって、お兄ちゃんの妹なのに、強くないと嘘だよねっ。会いに行くからねっ。今度は嘘じゃないから、絶対、嘘じゃないから……」
不安そうに、アルカナは怖ず怖ずと兄に言葉を向ける。
「信じて、くれる……?」
「ああ、信じている」
<転生>の魔法が発動し、彼女は光と共に消えていく。
「必ず会いに来い。たとえ何者に生まれ変わろうと、お前は俺のたった一人の大切な妹だ」
アルカナが伸ばした手を、アノスがつかむ。
その手はすっとすり抜け、彼女は光の粒となって完全に消えた。
その虚空に、彼は悲しい目を向けた。
「……今度は、泣かせはせぬ……」
悔しさと決意を滲ませ、アノスは消えていった妹に誓う。
「なにがあろうと失わぬほど、強くなってお前を待とう。アルカナ」
そして、二人はまた出会った――