教皇
地底が暗くなった頃である。
目の前には、竜材建築の荘厳な建物があった。
ジオルダル大聖堂。
教皇ゴルロアナの居住区であり、また彼が聖なる務めを行う場所でもある。
入り口に立っているのは、俺とアルカナ、アガハの剣帝ディードリッヒ、未来神ナフタ、それからここまで案内してくれた司教ミラノである。
「どうぞ、こちらでございます」
ミラノに先導されながら、俺たちは大聖堂の中へ入っていく。
天井は高く、中は無数のかがり火と柱が立ち並んでいる。
まっすぐ奥へ奥へと進んでいけば、やがて、大きな門が見えてきた。
その脇には、蒼い法衣と鎧を纏った者たちがずらりと並び、祈りを捧げている。
門の前で立ち止まり、司教はゆっくりと振り向く。
「この大聖門の向こうが、教皇が我が国のためにご祈祷なさる場所、聖歌祭殿でございます」
再びミラノは大聖門の方を向き、そこに手を触れた。
「教皇ゴルロアナ様、ディルヘイドの魔王アノス様と、アガハの剣帝ディードリッヒ様をお連れしました。ジオルダルの戒律を乱す愚者アヒデめも、ここに」
ディードリッヒとアルカナ、ナフタを同時に見たときのミラノの驚きようといったらなかったが、昨日のことでずいぶんと奇跡に慣れたようで、すぐに教皇へ伝達してくれた。
会談の場を設けてくれるというその約束通り、聖歌の祭礼がつつがなく終わった後に、こうして案内してくれたというわけだ。
『ご苦労でした、司教ミラノ』
大聖門から声が聞こえてくる。
男とも女ともとれぬ、中性的な響きだ。
「<全能なる煌輝>の御心のままに」
そう口にして、司教は大聖門の前から退き、脇に並んでいる聖騎士たちの列に混ざっては、そっと祈りを捧げる。
『ディルヘイドの魔王アノス。アガハの剣帝ディードリッヒ。私は教皇ゴルロアナ・デロ・ジオルダル。選定の神より救済者の称号を賜りし、八神選定者の一人です』
門を開くことなく、ゴルロアナは声だけを響かせる。
『会談をご所望とうかがいましたが、目的をお聞かせ願えますでしょうか?』
ディードリッヒが俺の方を向く。
「先に述べるがいい」
そう言うと、ディードリッヒは一歩前へ出て、声を張り上げた。
「アガハの剣帝、ディードリッヒ・クレイツェン・アガハだ。教皇ゴルロアナ。ジオルダルの元枢機卿アヒデが、アガハの王竜を盗んだのはすでに承知であろうか?」
『存じております』
「ならば、落とし前をつけてもらわねばなるまいて。この件に、ジオルダルは関わっていないことを示してもらおう。王竜を盗んだのはアヒデの独断であり、アガハがこの男をどう裁こうと、お前さん方はなんら関与しない、とな」
鷹揚にディードリッヒは笑う。
「でなけりゃ、こいつは戦争ものだぜ」
『その男、アヒデからは洗礼名を剥奪しております。教団が保護すべき聖職者ではありません。あなたの国の戒律に則り、裁いていただいても、ジオルダルの教義に反することはないと、この場で我が神に宣誓しましょう』
「そいつは重畳」
ディードリッヒには未来が見える。
アヒデがすでに洗礼名を剥奪されていることは預言していたはずだが、それでも、こうしてやってきたのは、この場でゴルロアナから誓いを聞かなければ、アヒデのことを口実につけ込まれる未来が訪れるということなのだろうな。
そう考えれば、教皇もただひたすら神を信ずるだけの者ではあるまい。
と、そのとき、俺がつかんでいたアヒデの頭が僅かに揺れた。
「ヒャハッ、ヒャハハハハハッ!!」
アヒデの口から、狂ったような笑い声が響く。
「教皇ゴルロアナッ! とうとう、とうとうここまでやってきましたよっ。あなたに、言葉をかけられるときがっ! 聞けっ、聞くがいいっ! 神などいないっ! <全能なる煌輝>エクエスなど、先祖の竜人が作りあげたただの妄想なのですっ!」
辺りはシーンと静まり返る。
大聖門の横に並んでいる聖職者たちは、皆アヒデに見下すような視線を向けている。
だが、なによりも絶望的な表情を浮かべていたのは彼自身だった。
「……なぜ、悪夢が……終わらない……」
彼はジオルダルの民に神がいないことを吹聴して回った。
教団の長である教皇にさえ、そのことを直接伝えた。
これ以上、できることなどないだろう。
『アヒデ。なんの魔法をかけられたのか存じませんが、もう悟ったことでしょう。これは夢ではありません。現実でございます』
「……現……実…………」
まるで未来をなくしたかのように、ぽつりとアヒデは呟いた。
薄々は気がついていたのだろう。
それでも必死に目を背け続けてきたのだ。
だが、最早、限界だ。
「……これが、わたしの現実だというのですか……? わたしの積み重ねてきた、わたしの信仰は、わたしの地位はっ……」
『神はすべてを見ています。なぜこうなったのか、ご自身の胸に聞いてみるとよろしいでしょう。なにもかも、因果応報というものでございましょう』
「……そ、んな…………」
俺に後頭部をつかまれながらも、アヒデはジタバタと暴れる。
放り投げてやると、床を転がり、懇願するように大聖門へすがりついた。
「教皇ゴルロアナ様、どうかっ、どうかお許しをっ! 牢獄に捕らえられたとき、洗礼名などいらぬと口にした言葉、聞き及んでいるかもしれませぬが、あれは嘘ですっ。嘘なのですっ! すべて夢だからと思ってやったことっ! 本当は、神を信じているのですっ! わたしは、この暴虐の魔王に騙されていた憐れな子羊、どうか、どうかお救いをっ……わたしは悔い改めておりますっ……!!」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、アヒデは教皇に懺悔した。
『アヒデ、悔い改めたなどという言葉は自ら口にするものではありません』
冷たく、ゴルロアナは言い放つ。
「……で、ですが、本当に、懺悔を…………」
『たとえ夢の中であろうと信徒ならばただ一心に神を信じ、祈りを捧げ続けるべきでありましょう。違いますか?』
「……すべては、この暴虐の魔王に、悪魔にそそのかされて……!」
『あなたの心は常に自由でした。よろしいですか。神を信じるというのは口先だけで行うものではありません。我々でさえも、あなたの愚かな本性が見えるというのに、神がどうしてその嘘に気づかないとお思いでしたか』
すげなく言われ、アヒデは絶望に染まった表情を浮かべる。
「……お、お待ちくだ――」
『あなたを破門といたします。二度とこのジオルダルの地を踏むことは許しません』
呆然とするアヒデの頭をディードリッヒがつかみあげた。
「ってことだ。お前さんにゃ、王竜を盗んだ罰として、生贄になってもらう」
「……馬鹿な……!! そんなっ、そのような非道な真似を、神がお許しになるは――ごふぅっ……!!」
ディードリッヒがアヒデの腹部に拳をめり込ませる。
強烈な魔力に根源ごと揺さぶられたか、彼は意識を手放したように、がくりと項垂れた。
「神を信じてもいない輩が、言う台詞ではあるまいて」
邪魔だとばかりにアヒデを脇に放り投げ、ディードリッヒは再び大聖門を向いた。
「用件はもう一つあるのだ、ゴルロアナよ。せっかく話ができるのだ。ここで言わせてもらおうぞ」
堂々とディードリッヒは声を上げる。
「代々ジオルダルの教皇に受け継がれてきた教典があろう。そいつを聞かせてはくれまいか?」
教皇の返事の代わりに不穏な空気が辺りに漂う。
ジオルダルの聖騎士たちが、皆、険しい表情を浮かべていた。
『……それがどういう意味か、ご存知で口にしているのですか? アガハの剣帝』
「おうとも。無論、ただでとは言うまいて。こっちもお前さんに、アガハの剣帝に受け継がれてきた教典を教える用意がある。そいつと交換ということでどうであろうか?」
確かジオルダル、アガハ、ガデイシオラの三大国には、口伝でのみ受け継がれてきた教典があるのだったな。
しかし、読めぬな。
自分の信ずる神とは違う教典を教え合ってどうするつもりだ?
なにか、有用なことがそこに伝えられているということか。
『お話になりません。代々教皇へのみ受け継がれてきた教典は、ジオルダルの信徒たちを救済するためのもの。外に漏らせば、彼らを救うことはかなわないでしょう』
「本当にそう思うかよ?」
重たい口調でディードリッヒは言う。
「ジオルダルの教典に従えば、信徒は救えるものか?」
『それが<全能なる煌輝>エクエスの教えです』
唸るように息を吐き、ディードリッヒは顎に手をやる。
「そいつは、どうだろうな? ま、ジオルダルにもジオルダルの教えがあろう。なにも、教典を直接見せろとは言うまいて。その代わり、ここを開けて話をしようではないか。地底の未来について、互いに腹を割ってな」
一瞬の沈黙の後、ゴルロアナは言った。
『アガハの剣帝ディードリッヒ。用件はわかりました。返答より先に、まずはあなたにお尋ねしましょう、魔王アノス。それとも不適合者の方がよろしいでしょうか?』
「どちらでも構わぬ」
『では、神より与えられし称号の方を。不適合者よ、あなたはこのジオルダルに何用で参ったのでしょう?』
「平たく言えば、見聞を広めにな。地底の者がなにを思い、どのように暮らしているのかを知るために来た」
そう言うと、続いて教皇が問う。
『では、私になんの用がおありなのでしょう?』
「訊きたいことがあってな。選定審判について、それから痕跡神リーバルシュネッドの何処だ」
『よくわかりました』
一拍おいて、ゴルロアナは信徒に教えを伝えるかのように、厳かに言った。
『神は言われました。救世をなす者には、多くの人々が救いの手を求める。しかし、そのすべての手をとれば、神への祈りが疎かになり、救済はかなわない。あなた方は、あなた方のやり方でただ一人を選びなさい。その者の手を、救済者はとるでしょう』
「ふむ。俺とディードリッヒ、どちらか一人の話だけを聞くので、どちらが話をするのかは、お前たちで勝手に決めろということか?」
『その通りでございます』
面倒なことを言うものだ。
とはいえ、俺に敵意を向けてくるわけでもないことだしな。
この扉をぶち破り、無理矢理話をしてやるのが一番手っ取り早いのだが、そういうわけにもいくまい。
まあ、一人は話を聞いてくれるというのだから、由とするか。
「残念だったな、ディードリッヒ。せっかくジオルダルまで来たというに」
アガハの剣帝の方を向き、俺は続けて言う。
「まあ、アヒデのことは教皇の誓いを引き出せたのだからな。今日のところは欲張らずに帰るがいい」
ディードリッヒは豪放な笑みを見せる。
「強気な男よな、アノス。まだどちらが帰ることになるかはわかるまいて」
「なにを言う。お前は預言者だろう」
泰然と立つディードリッヒに、俺は言葉を投げかける。
「どんなやり方だろうと俺が選ばれることぐらいわからぬようでは、預言とは言えぬぞ」
その言葉を、ディードリッヒは豪快に笑い飛ばした。
「さあてな。そいつは、どうであろうな?」
ほう。未来が見えるにもかかわらず、引く気はないか。
「ならば、選び方を決めるがよい」
「こんなところでガチンコの聖戦というわけにもいくまいて。互いの選定の神と選定者が戦い、長くもちこたえた方が勝ちというところでどうか?」
つまり、俺がナフタと、ディードリッヒがアルカナと戦うわけだ。
神と選定者は本来、隔絶した力の差がある。
アルカナを相手に長くもちこたえる自信があるということだろう。
しかし、どこまで俺の力が見えているのやら?
「構わぬ」
そう応え、振り向けば、すでにそこに未来神ナフタがいた。
こうなる未来が見えていたのだろう。
「アルカナ」
言葉をかけると、彼女は光の如く消え、ディードリッヒの目の前に移動した。
俺と奴は背中合わせになり、互いの選定神と対峙している。
「恐らくその男は強い。全力で戦うがいい」
「あなたに従おう」
彼女は両手をすっと持ち上げ、ゆっくりと手の平を天に返す。
屋内のため直接は見えぬが、地底の天蓋に、<創造の月>が浮かぶ。
「魔族の王よ、予言いたします」
両眼を閉じた神が、両手で持った水晶を俺の方へ向ける。
「この目が開くとき、ナフタにはすべての未来が見えるでしょう。起こるべきすべての未来が、あらゆる奇跡が、未来神ナフタの手の内にある。あなたの手の隙間から、勝利という未来はこぼれ落ち、抗う可能性すら消え果てる」
当たり前のように彼女は言う。
「風邪をこじらせて死ぬ者もいる。転んで命を落とす者もいる。あらゆる者が神のサイコロを振り、その結果この世を生きている。ナフタに挑むのならば、あなたを最悪の日が襲うでしょう」
「ほう。ではこちらも、一つ予言しておくぞ、未来を司る神よ」
佇むナフタに、俺は言葉を突きつけてやる。
「その目を開いた瞬間、お前の敗北が確定するだろう」
未来神、そしてディードリッヒの力やいかに――?