魔王賛美歌第六番『隣人』
神竜の霊地はざわめきに溢れていた。
どれだけ待っても、来聖捧歌が始まらない。祈りを捧げる信徒たちには、先のアヒデの言葉が頭によぎっていたことだろう。
二千年続いた来聖捧歌はここで途絶える。それこそが地底に神はいないことの証明なのだ。盲信するわけではないものの、やはり不安と動揺は隠せるものではなかった。
刻一刻と不安が広がるかのように、みるみるざわつきが大きくなっていき、そしてそれが最高潮に達したときだった。
祭壇のある舞台に一人の少女が姿を現す。
エレンである。彼女が手を上げると、舞台の下にいたファンユニオンの少女たちが反応した。
彼女たちには、<思念通信>で事情を伝えてある。
「行こうっ」
「うんっ」
ファンユニオンの少女たちは舞台の上に上がり、魔王賛美歌用の隊列を組む。
彼女たちの体に魔法陣が描かれると、式典用のローブが現れた。
「皆さん、お待たせしてすみません。聖歌の祭礼で、来聖歌人を務めさせていただく、ディルヘイド国、魔王聖歌隊のエレンです」
彼女の言葉に、信徒たちは皆ほっとしたような表情を浮かべ、改めて祈りを捧げた。
「あたしたちの国はとても遠い、きっとジオルダルの人たちが想像もつかないぐらい遠くにあります。そこでは魔王という王が国を治めていて、人々は平和に暮らしています」
信徒たちに語りかけるように、エレンが言う。
「あたしたちがここへ来たのは、ジオルダルを知るためです。魔王は言いました。この国で生きる人々を見てくるように、と。きっと、それは皆さんがなにを信じ、どんな未来を夢見ているのか、それを見てくるようにっていうことなんだと思います」
彼女は屈託のない笑みを見せる。
「この国へ来たばかりで、まだまだ全然わからないことばかりですが、一つはっきりしたことがあります。この国の人たちは歌が好きだということです。あたしたちも同じです。そして、あたしたちの国の魔王も歌が大好きなんです」
エレンの言葉に、ファンユニオンの少女たちは晴れやかな笑みを浮かべた。
彼女たちが魔法陣を描くと、そこから管弦楽器の音が溢れ出す。
<音楽演奏>の魔法である。
「これは、あたしたちの国を知ってもらうため、魔王を知ってもらうための歌です。彼はすべてを愛する偉大な御方。あたしたちは、その大きな愛を伝えるための掛け橋。それが、ディルヘイド魔王聖歌隊です。聴いてください」
声を揃えて、彼女たちは言う。
「「「魔王賛美歌第六番『隣人』」」」
格調高い弦楽器の音が流麗に響き渡る。
空を思わせるその響きは、空のないこの地底の音楽とはどこか違った趣があり、爽快にジオルヘイゼの街を覆っていく。
竜人たちは祈りを捧げながらも、聞き覚えのない音楽に耳を楽しませ、その洗練された音に心奪われてしまったかのように魔力を震わせた。
これからどんな厳かな聖歌が始まるのか。
前のめりの姿勢で耳を傾けた信徒たち、その――
「あー、神様♪ こ・ん・な、世界があるなんて、知・ら・な・かったよ~~~っ♪♪♪」
「「「ク・イック、ク・イック、ク・イックウッウー♪」」」
――出鼻を挫くかの如き、極限の転調とぶちこまれたサビ。
しかし、その驚きが、逆に信徒たちの心をわしづかみにしていた。
その心を放さないよう、魔王聖歌隊は跳ねるようなリズムとメロディで歌い上げる。
「開けないでっ♪」
「「うっうー♪」」
「開けないでっ♪」
「「うっうー♪」」
「開けないでっ、それは禁断の門っ♪」
軽快な伴奏に合わせ、聖歌隊は愉快に歌う。
こんなにも愉快な聖歌を、地底の民は知らなかったに違いない。
皆、度肝を抜かれていた。
「教えて、神様っ♪ これはナニ♪ それはナニ♪」
「まずはノックから♪」
「優しく叩いて、なーんてダメダメッ♪」
「「「ク・イック、ク・イック、ク・イックウッウー♪」」」
「ぼ・くは隣人♪ た・だの隣人♪」
「一人ぼっちで♪ 平和だった――は・ず・なのにー♪」
「いつの・まーにか、伸びてる、それはナニナニ♪」
「それは魔の手でっ♪」
「君はナニナニっ♪」
「彼は魔王でっ♪」
「あー♪ か・みさまが言ったよーっ♪」
「なーんじの隣人をあーいせよ、愛せよっ♪」
「心開いて♪ 禁断の門っ♪」
「あー♪ そこは不浄のっ♪」
「誰も知らないっ♪」
「そこは不浄でっ♪」
「入らないでよっ♪」
「入らないはず、なーんて、ダメダメっ♪」
「教っえて、あっげるぅっ♪ 教典になーいことぜんぶ、ぜんぶぅっっっ♪」
「「「ク・イック、ク・イック、ク・イックウッウー♪」」」
「あー、神様♪ こ・ん・な、世界があるなんて、知・ら・な・かったよ~~~っ♪♪♪」
「「「ク・イック、ク・イック、ク・イックウッウー♪」」」
軽快なリズム、弾むような音色に、粛々と祈る信徒たちの体は、けれどもうずうずと動きたそうにしている。
あるいは、ジオルダルでは厳格な聖歌しか存在しないため、このような歌に飢えていたのかもしれぬ。
ノリに乗った間奏が続く中、エレンは舞台の最前列に歩いていく。
「あたしたちの国では、聖歌隊もそれ以外の人たちもみんなで声を揃えて楽しく歌います。どうか、ディルヘイドの歌を一緒に歌ってください」
信徒たちに届くようにと大声で彼女は語る。
「ク・イック、それは古代魔法語で、『道理なく楽しい』っていう意味です。これは、『わけがわからないけど楽しいからいいじゃん』ってことだと思います」
エレンの言葉を、信心深い信徒たちは真剣に聞いてくれている。
「国と国の難しい関係はあたしたちにはわかりません。でも、楽しいことは一緒にできるはずです。わけがわからないぐらい楽しい歌を、わけがわからないぐらい楽しく歌いましょうっ! きっと、人と人の関係はそこから始まるんだと思います。難しいことはやった後に考えましょうっ!」
どこまでも通る声で、エレンはそう訴える。
「素晴らしい曲……のように思うが……」
「ああ、しかし、これはちょっと不敬というか……?」
「だけど、これは来聖捧歌、あらゆる歌は神の思し召しのはず」
「それにこんなに心に染み入る歌は、そうそうない」
「だが、この歌の解釈は? どう捉えればいい?」
「来聖捧歌として聴くのはともかく、我々が歌うのは、どうなんだ……?」
信徒たちは価値観の相違からか、若干戸惑った様子である。
「落ちつくのだ。こういうときのため、来聖捧歌には、聖歌の専門家、ジオルヘイゼの八歌賢人の方々に来ていただいている」
「おお、そうだった。八歌賢人は果たして、どんな反応を……?」
信徒たちは、最前列に設けられた特別席にいる八歌賢人たちを見た。
紺色の法衣を纏った彼らは皆、神妙な表情を浮かべている。
「反応が鈍いような」
「いや、見ろ。彼らの指先をっ!」
「……リズムをとっている……弾むように、若干走り気味の……」
「八歌賢人がリズムをとるなど、尋常なことではないぞ……」
やがて、八歌賢人の一人が口火を切った。
「古代魔法語は、神のもたらした言葉とも言われている」
すると、他の八歌賢人たちもそれに続く。
「ク・イック、異国の教えながら、素晴らしく、そして深い言葉だ」
「ときとして、我々は理屈だけで考えてしまう。しかし、神の前に理屈などなんの意味もなさない。それはただ人が決めただけのこと」
「この歌は、その原初の気持ちを、思い出させてくれる」
「それにク・イック以外にも深い意味が込められている。隣人、これは人と人の関係のみならず、国と国の関係を表しているのだろう」
「私もそう思う。見知らぬ国同士、これまでかかわり合いもなく、過ごしてきた。その禁断の門を開けるのを、私たちはいつも躊躇ってしまう」
「魔の手に思えたものは本当に魔の手だったのか。いや、違う。私たちの曇った目が、恐れる心が、その手を、魔の手へと見せたのだ」
「だが、不浄を恐れず、禁断の門を開き、入ってきた。入らないはず、入れないはずの門の中へ。国と国との交流が始まったのだ。すなわち、隣人を愛せよ」
「新しい世界の幕開けだ。その勇気は、禁断の門を解き放つ勇気だけは、教典にはない教え、魔王はそれを、訴えようというのか」
「この歌を聞いただけで、彼の求める国が、そして彼が素晴らしい人物なのだということがわかる」
「ああ、なんとありがたい。それに、この音楽を聴いていると、心の底から楽しさが溢れ出してくるようだ。この曲には神が宿っている。神が心を躍らせろと言っているのだろう」
絶賛であった。
「……さすが八歌賢人……なんて深い見識なんだ……」
「その彼らにここまで絶賛される歌、やはり心に感じた通りだった!」
八歌賢人のお墨付きを得て、信徒たちは皆、音楽に合わせ体を弾ませ始めた。
「いきますよっ~~っ!」
「「「ク・イック、ク・イック、ク・イックウッウー♪」」」
ファンユニオンが歌い上げると、聖歌の専門家である八歌賢人は素早くそれに反応した。
『『『ク・イック、ク・イック、ク・イックウッウー♪』』』
寸分違わぬメロディで、けれども野太く、力強く、八歌賢人が繰り返す。
「もう一回っ!」
今度は八歌賢人に倣い、信徒たち全員が声を上げた。
『『『ク・イック、ク・イック、ク・イックウッウー♪』』』
あっという間に魔王聖歌隊の少女たちは、この場の信徒たちを熱狂の渦に巻き込んだ。
魔力に乏しく、大した魔法が使えぬ彼女たちの歌声は、しかし確かに人々の胸に響くものがあるのだろう。
会場が最高潮に暖まっていく中、曲の二番が始まる。
最前列にいた八歌賢人がくるりと振り返り、信徒たちに相対した。
「入れないで♪」
『『『せっ!』』』
繰り出される八歌賢人の右正拳突き。
「入れないで♪」
『『『せっ!』』』
手を入れ替え、一糸乱れぬ今度は左の正拳突き。
「入れないで、それは禁忌の鍵♪」
『『『せっ、せっ、せっーっ!!!』』』
さすがは八歌賢人といったところか。
この音楽の国にあって、最高峰の聖歌専門家、あっという間に魔王賛美歌の勘所を見抜き、完璧な振り付けを作ってみせた。
順応力が群を抜いている。
八歌賢人に倣うように、信徒たちもまた立ち上がった。
「教えて、魔王様っ♪」
『せっ!』
信徒全員二万人、祭壇に向かい、一糸乱れぬ正拳突き。
「これはナニ♪ それはナニ♪」
『せっ、せっ!』
「まずはタッチから♪」
「優しく触れて、なーんてダメダメッ♪」
『ぜあぜあぜあぜあ!』
「「「ク・イック、ク・イック、ク・イックウッウー♪」」」
「ぼ・くは隣人♪ た・だの隣人♪」
「一人ぼっちで♪ 平和だった――は・ず・なのにー♪」
「いつの・まーにか、伸びてる、それはナニナニ♪」
「それは魔の手でっ♪」
『『『せっ!!!』』』
燃えるような熱き拳。
「君はナニナニっ♪」
「彼は魔王でっ♪」
『『『せっ!!!』』』
左右を入れ替え、もう一突き。
「あー♪ ま・おう様が言ったよーっ♪」
「なーんじの隣人をあーいせよ、愛せよっ♪」
「体開いて♪ 禁断の門っ♪」
『『『せっ!』』』
「あー♪ そこは不浄のっ♪」
『『『せっ!』』』
その奇跡のような調和が、この場の空気をどこまでも盛り上げ、
「誰も知らないっ♪」
『『『せっ!』』』
禁断の門を突き破るが如く、
「そこは不浄でっ♪」
『『『せっ!』』』
敬虔な信徒たちの、想いの丈をぶつける二万の拳が、
「入らないでよっ♪」
「入らないはず、なーんて、ダメダメっ♪」
『『『せっ!』』』
突いて、突いて、突きまくる――
「教っえて、あっげるぅっ♪ 教典になーいことぜんぶ、ぜんぶぅっっっ♪」
『『『ぜあぜあぜあぜあ! ぜあぜあぜあぜあ!』』』
「「「ク・イック、ク・イック、ク・イックウッウー♪」」」
「あー、神様♪ こ・ん・な、世界があるなんて、知・ら・な・かったよ~~~っ♪♪♪」
『『『せっ、せあっ! きええええええええええええぇぇぇっ!!』』』
バンザイをするかの如く、信徒らはその両拳を天蓋に向かって突き上げた。
「「「ク・イック、ク・イック、ク・イックウッウー♪」」」
ファンユニオンたちの歌声に、
『『『ク・イック、ク・イック、ク・イックウッウー♪』』』
両腕をリズミカルに突き上げながら、信徒たちが大声で続く。
「もう一回っ♪」
『『『ク・イック、ク・イック、ク・イックウッウー♪』』』
これまで交流のなかった異国の地。
けれども、歌は国教をいとも容易く越える。
ク・イック――わけがわからないけど楽しいからいいじゃん。
その言葉を体現するかのように、魔王聖歌隊の少女たちも、ジオルダルの信徒たちも、この来聖捧歌の舞台で、道理などすっ飛ばして、賛美歌が作り出す最高の楽しさに、ただただその身を委ねていたのだった――
『『『せっ!!!』』』