プロローグ ~魔王と妹~
それは、誰かの夢だった――
月明かりが降り注ぐ夜。
キィィン、キィィィンッと竜鳴が鳴り響く中、小さな女の子が必死に森を走っていた。
魔族である。年齢は六歳か七歳だろうか。その歳にしては大きな魔力を持っていたが、竜に敵うほどではない。
彼女は泣きじゃくりながら、木々の間をくぐり抜けていく。それらをなぎ倒し、凶暴な牙を剥き出しにしながら、竜が追ってくる。
「や、やだっ……!」
少女が走っている途中で靴は脱げ、手足は所々血が滲んでいる。
無我夢中で逃走を続けていたが、大きな木の根に足を取られ、彼女はその身を地面に打った。
「う……ぁぁ……」
痛みを堪えて、少女は身を起こす。
獰猛な呻き声に振り向けば、そこに竜の頭があった。
「あ……」
腰が抜けて立てず、少女は尻餅をついたまま、じりじりと後ろへ下がる。
竜の瞳は獲物を捉えたまま、決して離れなかった。
「…………た、助けて……」
竜がその顎を大きく開いた。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォッッッ!!!」
「助けてっ……お兄ちゃーんっ……!!!」
けたたましい咆吼とともに竜の牙が少女に迫る。
ガゴンッと顎が閉じられたが、しかし、彼女は食べられていなかった。
「ふむ。竜が忌避する森だと聞いていたのだがな」
現れたのは十歳ほどの魔族の少年である。
その長い牙を片手でつかみ、足で下顎を踏みつけている。
黒髪と黒い瞳。
見る者が見れば、確かにそうとわかるほど常軌を逸した魔力を秘めている。
名はアノス・ヴォルディゴード。
まだ暴虐の魔王と呼ばれる以前の姿だった。
「<灼熱炎黒>」
灼熱の黒き炎を喉奥にぶち込まれ、竜が大きな悲鳴を上げる。
だが、体の内側につけられた炎をどうすることもできず、そのまま、内蔵を焼かれて地面にひれ伏した。
「こんなところか」
アノスは半死半生の竜を<拘束魔鎖>でがんじがらめに縛り上げると、そのまま収納魔法の中に閉じ込めた。
彼は少女を振り返った。
ほっとして気が緩んだのか、彼女は先程以上に目に涙を溜めて、嗚咽を漏らした。
「泣くな。お前をいじめる竜はこの兄が退治してやった」
アノスは妹の頭に手をやり、穏やかに笑ってみせる。
「もう心配はない」
「……ぐす……えぐっ……お兄ちゃん……」
少女はアノスに抱きつき、また一段と大きな泣き声を上げた。
「……恐かったよぉ。お兄ちゃんっ……!」
アノスは少女の背中をよしよしと撫でる。
一向に泣き止む気配のない妹を見かねて、彼は手の平に魔法陣を描いた。
「見るがいい」
アノスが手を開けば、そこに紅く輝く宝石が現れた。
「わぁ……」
少女は瞳を輝かせ、その宝石をじっと見つめる。
「今朝、<創造建築>のコツをつかんでな。お前にやろう」
「いいの?」
「ああ」
花が咲いたような笑顔で少女は笑った。
「ありがとう。お兄ちゃん」
「宝石一つで現金なものだ」
「わたしはお金じゃないよっ。魔族だもん。お兄ちゃんの妹だもん」
妹の反論を、アノスは笑顔でいなして彼女をお姫様のように抱えた。
回復魔法の光が少女の傷を癒していく。
そのまま<飛行>で浮かび上がり、アノスは森の奥を目指した。
「どうやらこの場所も竜に嗅ぎつけられたようだ。明日、日が昇れば早々に引っ越すとしよう」
「あのね、お兄ちゃん。いい場所があるよ」
アノスの腕の中で少女が言う。
「ほう。どこだ?」
「街って知ってる? 街には沢山人が住んでてね。魔法の防壁もあって、竜が来ても大丈夫なんだって」
妹は笑顔で言う。
「だから、街に行けばきっともう逃げなくても大丈夫だよ」
「どこで知った?」
「あのね、拾った本に載ってたの。だから、この近くにも人が住んでて、どこかに街があるんだよ」
アノスはしばし口を閉ざし、それから答えた。
「残念だが、街には行けぬ」
「どうして? お兄ちゃんも街を知らないの?」
「……お前には竜が獲物を追いかけてくると教えていたな」
少女はうなずく。
「それは事実だが、本来、竜のいない土地にまで追いかけて来ることはない。特にこの森の土壌は、奴らが忌避する魔力で満ちている。俺が竜を引きつけているのだ」
「……お兄ちゃんだけ、竜が追っかけてくるの?」
「ああ。だから、街に行くわけにはいかぬ。そこにいる魔族を巻き込むことになるからな。それに、竜が俺を追ってくるとわかれば、歓迎はされまい」
アノスはそう説明したが、実際に狙われているのは妹の方だった。
逃亡を余儀なくされている責任を、彼は幼い妹に負わせたくはなかったのだ。
「俺のために、住処を転々する羽目になってすまぬ。お前を一人を街に預けることもできただろうが、それでも、俺はお前と一緒にいたかったのだ」
すると、少女はぱっと表情を明るくした。
「大丈夫っ。だって、お兄ちゃんのこと大好きだもん。街でお留守番をしているより、お兄ちゃんとずっと一緒にいたいよっ!」
そう言って、少女はぎゅっとアノスにしがみつく。
「ふふっ」
「どうした?」
「あのねあのね。わたし、ずっと役立たずだなって思ってたの。お兄ちゃんに守ってもらってばかりで、なんにもできない愚図だなぁって」
嬉しそうに少女は言う。
「でも、お兄ちゃんはわたしが必要なんだね」
「ああ。たった一人の家族だからな」
温かい微笑みを浮かべ、アノスがうなずく。
「じゃ、お兄ちゃんはもっともっとわたしに甘えていいんだよ?」
「十分に甘えている」
「えへへ……」
少女は照れたように笑った。
「あのね、わたし、大きくなったら、お兄ちゃんと結婚するんだ」
「結婚がなにかわかっているのか?」
「うん。ずっと一緒にいられる約束なんだよ。お兄ちゃんが大好きだから、結婚するの。お兄ちゃんは、わたしと結婚してくれる?」
くすり、とアノスは笑った。
「そのときに、お前が望むのならばそうしよう」
ふふっと少女は笑った。
「絶対、絶対、約束だよ? ずっと、ずーっと一緒なんだよ?」
「ああ。それだけは違えぬ」
やがて、彼らの目の前に木造の家が見えてくる。
二人が地面に足をつくと、少女はとことこと家へ駆けていく。
扉を開けようとして、ふとアノスを振り向いた。
「あ、汚れたけど……水浴びはもう、無理かな?」
彼女は土埃や泥で汚れた自分の体を見る。
「狭いが、これで我慢せよ」
アノスが魔法陣を描き、その場に水の球を作った。
周囲を覆うように木を生やし、枝と葉をカーテン代わりにする。
即席の風呂である。
「ありがとう、お兄ちゃんっ」
纏っていた服を脱ぎ捨て、彼女は風呂に飛び込んだ。
そうかと思えば、ひょっこり顔を出す。
「お兄ちゃんも一緒に入る?」
「先に済ませた。明日の準備をしておく」
アノスは家の中に入っていく。
家具や日用品を次々と収納魔法の中に放り込み、寝具以外のものが殆どなくなった。
彼はまたすぐに外へ出る。
地面に魔法陣を描き、収納魔法から<拘束魔鎖>で縛った竜を取り出す。
そうして、<根源擬装>の魔法をかけた。
それは妹の根源に擬装するものだ。
どういう理由か、竜は匂いでも姿でもなく、妹の根源を追いかけてくる。
そのため、引っ越した後、他の竜が勘違いしてこの場所へ来るようにしているのだ。
アノスの<根源擬装>はまだ未熟だったが、竜の魔眼を多少は誤魔化すことができる。
時間をかけて、<根源擬装>の精度をできる限り高めていく。
それが終わり、家の中に戻ると、風呂から上がった妹がタオルで髪を拭いていた。
「これぐらいでいっかな?」
「風邪を引く」
彼女の頭に魔法陣を描き、温風で髪を乾かしていく。
妹は頭を撫でられる風の感触に嬉しそうにしていた。
「明日は早い。寝るとしよう」
アノスは自らに魔法陣を描き、寝衣に着替えた。
「はーい」
二人は寝室へ移動する。
ベッドが二つ横に並んでおり、アノスが右に妹は左のベッドに寝転がった。
ランプの明かりを消せば、室内には僅かに月光が降り注ぐばかりだ。
アノスは目を閉じて、明日の行き先に考えを巡らせていた。
竜はどこまでも追ってくる。
彼ら兄妹は竜の牙が届かぬ場所を探し、ディルヘイドを転々としていたが、未だに安住の地は見つからない。
今いる森も、数百年以上、竜が現れたことがないはずだったが、それも彼らが引っ越してきて、ものの一ヶ月ほどで覆されてしまった。
最早、竜を根絶やしにするしかないと思うぐらいだが、幼いアノスにはまだそれだけの力はなかった。
一時間ぐらい経った頃だろうか。
隣のベッドから声が聞こえた。
「お兄ちゃん、起きてる?」
ごろんと転がり、妹がアノスの方を向いた。
「ああ。眠れないのか?」
「……うん」
か細い声が響く。
「……あのね、今日もお兄ちゃんの隣で寝てもいい?」
「仕方のない」
アノスが返事をすると、妹が彼の寝床に飛び込んでくる。
嬉しそうに彼女はアノスに足を絡ませ、頬を寄せた。
「お兄ちゃん。次行くところは寒い? 暑い?」
「北へ向かおうと思っている。多少は寒くなるだろう」
「じゃ、冬のお洋服が着れるねっ」
嬉しそうに少女が言う。
そうして、アノスの目を至近距離で覗き込んだ。
「あのね、お兄ちゃん」
にっこりと彼女は笑みを浮かべた。
「わたし、竜なんて全然恐くないよ。だって、お兄ちゃんの方が強いんだもん」
眼を細め、アノスは言う。
「すぐ嘘をつく妹だ」
「……う、嘘じゃないもんっ。嘘じゃないもん……」
「さっきまで泣きべそをかいていた者が、そう強がるな」
少女はぐうの音も出ないといった様子だった。
「それはちょっと嘘だけど……すぐ嘘はつかないもん」
「家の中にいると言って、こっそりと抜け出しはするがな。夜はあまり出歩くなと言ってあっただろう」
「……ごめんなさい…………」
しょんぼりしながら、彼女は俯く。
その頭にアノスは手をやった。
「そう落ち込むことはない。お前の嘘など、可愛いものだ」
少女は嬉しそうにアノスに抱きついた。
「……あのね、あのねあのねあのねっ!」
「どうした?」
「わたし、お兄ちゃんが大好きっ」
「そうか」
「うんっ……だって、お兄ちゃんといたら、竜も恐くないし、夜も眠れるしね。お兄ちゃんがいたら、他にはなんにもいらないよ……」
ぎゅっと妹がアノスに抱きついてくる。
「できた妹を持ったものだ」
「それ、褒められたのっ? わたし良い妹っ?」
「ああ。寝つきがよければもっといいがな」
「わたし寝つきもいいもんっ。お兄ちゃんが、いつものおまじないしてくれたら、すぐに寝られるんだもんっ」
妹がアノスの目の前でにっこりと笑う。
「仕方のない妹だ」
アノスは妹の後頭部にそっと手を回し、彼女の額に優しくキスをした。
嬉しそうに彼女は目を閉じる。
「えへへ……おやすみ、お兄ちゃん」
そのまま妹の頭を撫でながら、彼は囁く。
「おやすみ、アルカナ」
いつものように、魔族の兄妹は仲よく眠りにつきました。




