ちっぽけな勇気を合わせながら
ミシミシと<四属結界封>が軋んだ。
異竜の牙が結界に食い込み、凶暴な顎が少しずつ閉じられていく。
ラオス、ハイネ、レドリアーノが全力で魔力を送っているが、異竜にとっては、ただ少し堅いだけの食べ物にすぎないだろう。エミリアの体が竜の口に飲み込まれるのは時間の問題だった。
それは彼らもわかっているはずだ。
「……なにを……しているんですかっ……?」
呆然とエミリアが呟く。
「無駄なことはやめて、早く逃げなさいっ! こんなことをしても、なんの意味もありません。あなたたちは……」
エミリアの口から自然と言葉がこぼれ落ちる。
「いいですか? あなたたちは、守りたくないもののために、戦う必要はありません。それが勇者の枷だというなら、今ここで外して行きなさい」
あのとき、ラオスの頬を叩いたときに伝えたかった想いを、彼女は改めて言い直した。あるいは、これが最後と悟ったのかもしれない。
「勇者が逃げたと詰る言葉はあるでしょう。あなたたちを責める声はあるでしょう。ですが、誰がなにを言おうとも、気にする必要はありません。いくらでも、言わせておけばいいんです」
竜の口の中に、今にも飲み込まれそうになりながら、エミリアは彼ら三人に視線を飛ばした。
「人の痛みがわからない人間の言葉なんかに、あなたたちが傷つく必要はないんです。そんなもののために、命を賭ける必要なんかないんです」
そう言いながらも、エミリアは自嘲するような表情を浮かべる。
人の痛みがわからなかった、かつての自分を思い出しているのだろう。
「勇者になんか、なれなくてもいいんですよ。恐ければ逃げたっていいんです。どれだけ逃げても、どこまで逃げても、わたしはあなたたちを責めません」
ギシィッ、と結界が歪み、竜の牙の先端が彼女の肩口に食い込んだ。
「……うっ……あぁっ……!!」
赤い血が滲む。
エミリアは結界ごと今にも食べられそうだった。
「……それから、<根源光滅爆>の魔法は忘れなさい。誰が教えたのか知りませんけど、そんなものを生徒に学ばせる教育は間違っています。それを教えたのは、教師ではありません」
一つでも、彼らを縛る枷を取り払えるようにとエミリアは言った。
そうすることで、ラオスたちがこの場を離れると思ったのだろう。
「ほら、早く。一度ぐらい、言うことを聞いてください。それが、わたしの……」
きゅっと唇を噛みしめ、それから彼女は言葉を発する。
「……なにも、教えてあげられなかった、わたしの、唯一教えてあげられることです……」
三人を見つめ、エミリアは叫んだ。
「逃げなさいっ! あなたたちには、まだ未来があるっ! 最期ぐらいはわたしに、教師らしいことをさせてくださいよっ!!」
「……うるっせえっ!!」
叫ぶと同時に、ラオスたちは竜へ向かって飛んだ。
グシャッと<四属結界封>が潰される。
しかし、竜の顎は完全に閉ざされてはいない。
寸前のところでラオス、ハイネ、レドリアーノが竜の口へ飛び込み、聖剣を突き立てて、それを防いだのだ。
「……なにが、なにも教えられなかっただ……一週間かそれぐらいしかいねえで、教師ぶってんじゃねえよ……!」
聖炎熾剣ガリュフォードを握りながら、自らを奮い立たせるように、ラオスが叫んだ。
「なにをしてるんですか、さっきから。これじゃ、わたしの苦労が台無しじゃないですかっ!」
「……ほんとに、せっかく守ってあげたのに。エミリアって言うことがひどいよね……」
ハイネは大聖地剣ゼーレを、大聖土剣ゼレオを、それぞれ竜の口腔の上下に刺している。
「馬鹿なことを言わないでくださいっ! 四人とも飲み込まれるだけですよっ! わかってるでしょうっ!」
「ええ、そうでしょうね……」
聖海護剣ベイラメンテで、レドリアーノは竜の口の中に結界を構築していた。
しかし、先程と状況はなにも変わらない。結界が潰されれば、今度こそエミリアは竜に飲み込まれるだろう。
今度は、三人の生徒たち諸共。
「まだわからないんですかっ! 勇者学院の教育なんて、馬鹿もいいところですよっ! 守りたくないもののために、命をかける必要なんかどこにもないんですよっ! 早く行きなさいっ! 今ならまだっ……!」
エミリアが叱責するように言うも、三人は聖剣に魔力を込めるのに集中し、竜の口から出ていこうともしない。
「……クズだの、馬鹿だの……散々言われたけどよ……」
ピシィッと、ラオスの手にしたガリュフォードに亀裂が入った。
竜の力に聖剣が耐えきれないのだ。
「……勇者がなんだって、カノンがどうしたって……俺たちに、言ってくれるのは、おめえぇぐらいしか、いねえしな……」
「そんなの、わたしがこの国の常識すら、よくわかっていないだけですっ。あなたたちを思った言葉じゃないっ! そんな、くだらない勘違いで、立派でもない教師のために、一緒に死んで、いったい、なんの意味があるんですかっ!?」
「だったらよっ!! 立派な教師を連れてきてみろよっ!!」
嘆くように、怒りをあらわにするように、ラオスが訴える。
「どこにいんだよっ!? 立派な教師なんて、この国のどこにいるんだよっ!?」
ハイネの手にしたゼーレとゼレオに、亀裂が入る。
今にも二本の聖剣は折れそうだった。
「……クズしかいねえよ。おめえが思ってるより、ずっと、この国は腐ってやがる。そりゃ、おめえは自分のことしか考えてねえ、クズだったかもしれねえけどよ。この国の教師なんて奴ぁ、自分たちの責任を、生徒に押しつけるようなウジ虫しかいねえっ!」
ビキビキッと鈍い音を立てて、ベイラメンテが軋む。
レドリアーノが、険しい表情で言った。
「……あのディルヘイドとの戦争以来、生徒の責任を、自分の責任だと口にした奇特な教師は、あなただけですよ……」
驚いたようにエミリアが、レドリアーノを振り向く。
「……大体……さ!」
奥歯を食いしばり、竜に飲み込まれる恐怖に必死に耐えながら、ハイネは言う。
「……考えてもみなよ。今更、ご立派な教師なんかに授業されちゃ、たまらないんだよね。ぼくたちみたいなクズにはさ、エミリアぐらいのクズがちょうどいいんだよ……」
「……ハイネの言う通り……俺たちは偽者で……おまけに馬鹿で、短気で、人に八つ当たりしてばっかの、どうしようもねえクズかもしれねえけどよ……」
足を踏ん張り、腕に力を込め、ラオスは気力を振り絞る。
「そんでも、この国のきたねえ大人どものようにだけは、なりたくねえ……。仲間見捨てて逃げんのだけは、死んでも我慢がならねえっ!! 俺たちはそこまで人間が腐っちゃいねえよっ!!」
ラオスが思いきり、竜の口をこじ開けようとするが、バキンッとガリュフォードが折れる。彼はそのまま折れた剣で、なんとか竜の口蓋を支えた。
「……ちっきしょうっ!! なんとかならねえのかよ、レドリアーノっ! このままじゃ、マジでくたばっちまうぞっ!」
レドリアーノが顔を険しくする。
一か八かといった風に、彼は言った。
「<竜縛結界封>を使いましょう。それしか勝機はありません」
「……それはいいけど、今聖剣の力と結界を緩めたら、一瞬でかみ潰されるんじゃないの……。どうすんのさ……?」
ハイネの疑問に、レドリアーノが答える。
「……一人、手が空いているでしょう。ちょうど先程、<竜縛結界封>の練習をしたばかりです……」
彼はエミリアを見つめた。
「今、わたしは、地上にいる生徒たちから<勇者部隊>を受け、彼らの想いを<聖域>で魔力に変えています」
この異竜をどうにかしなければ、全員死ぬ。
その想いが一つになったからこそ、レドリアーノの魔力は高まり、かろうじて竜の攻撃に対抗できる結界を張れていたのだろう。
「その想いをあなたが受け継ぎ、<聖域>を使ってください。うまくいけば、<竜縛結界封>を成功させられるでしょう」
レドリアーノが<聖域>の力なしに、竜の牙を押さえつけていられるのは、数秒といったところか。
<竜縛結界封>の魔法術式はわかっているとはいえ、エミリアはそれを成功させたことはない。
しかし、どのみち、このままでは時間の問題だ。
その数秒に賭けるしかあるまい。
「……わたしが……勇者学院の生徒たちと……」
想いを一つにする。
やろうとしたところで、そう簡単にできるものでもない。
「……安心してください。というのはおかしいかもしれませんが、少なくとも恐いのは、我々も同じです……」
僅かにレドリアーノは笑みを覗かせる。
「……勇者などと呼ばれていながら、わたしたちにはこれっぽっちの勇気もなかった。代わる代わるやってきては、すぐいなくなる新任の教師。どうせあなたも同じだろうと、最初から話を聞こうとさえしませんでした……」
レドリアーノが聖剣から片手を離し、エミリアへ伸ばす。
「……わたしたちを助けるため、その身を盾にしようとしたあなたを、今一度、信じてみたい。もしも偽者のわたしたちにもあるのならば、その、ほんのちっぽけな勇気を、振り絞って……」
エミリアが怯えたような目で、その手を見つめた。
彼女が決心を固めようとするその寸前で、ピキィッ、バキンッと鈍い音と共に、ハイネの聖剣二本が折れた。
「早くっっっ!!! もう、やるしかないでしょっ! これで生き延びたら、授業でもなんでも真面目に受けるからさっ!!」
弾き出されたようにエミリアがレドリアーノの手を取り、力の限り叫んだ。
彼らと、そして、そこにつながっている、勇者学院の生徒たちへ向けて――
「――お願いしますっ! わたしに、もう一度、あなたたちを教えるチャンスをくださいっ……!! あなたたちが、クズなんかじゃないって、わたしが証明してみせます!!」
エミリアが首から提げた<思念の鐘>が目映く光る。
それは思念系の力を増幅する魔法具。
瞬間、レドリアーノを経由して、生徒全員の想いが、エミリアの<聖域>へ集められ、<思念の鐘>によって更に増幅された。
即座に<竜縛結界封>の魔法陣を描く。エミリアは覚悟を決めた表情を浮かべると、ぐっと足に力を入れ、勢いよく、竜の喉へ自ら飛び込んだ。
<竜縛結界封>は音の結界。竜の体内ならばその音はより響き、効果が高いと判断したのだろう。
それは事実だ。しかし、竜は根源さえも食らう。
呪いをかけられた彼女ですら、竜の胃に消化されれば、転生することはない。
彼女が消えるのが先か、それとも、異竜を結界で封じるのが先か。
生死を決めるのは、彼女の、そして、彼らの想いにかかっていた。
――ようやく、見つかりそうな気がしていた――
――逃げ続けたわたしだから、間違え続けたわたしだから――
――きっと、彼らの気持ちを、誰よりも受け入れられるのかもしれない――
――わたしは浅ましく、愚かで、なんの取り柄もないけれど――
――だからこそ、あなたたちの痛みがよくわかる――
――あなたたちの苦しみを、あなたたちの悲しみを――
――あなたたちの誇りを――
――わたしは痛いぐらいに知っている――
――導くなんて、大それたことは、わたしにはできないけれど――
――どうか、彼らとともに、一緒に歩いていきたい――
――この大きな罪を背負い、ちっぽけな勇気を合わせながら、一歩、一歩――
――前へ――
――だから、どうか――
「<竜縛結界封>」
魔法の糸が、エミリアが描いた魔法陣から溢れ出す。
それらは無数に枝分かれし、異竜の臓器という臓器を縛りつけていく。
異竜が体を動かそうとする度に、臓器が活動する度に、その魔法の糸からは、ギィィィンと大きな音が響き、竜の魔力を内部から封じていく。
ぐらり、とエミリアは竜の体内で揺れを感じた。
飛ぶ力を失い、竜が地上に落下しているのだ。
全身に加速度を感じながら、彼女はぎゅっと瞳を閉じる。
ドッガアアァァァァァンッと竜の体内にいて、なおもけたたましい音ともに、彼女は全身に衝撃を覚えた。
「か、は……」
言葉にならないほどの激痛が走り、彼女は血を吐く。
だが、生きている。
<聖域>の光が彼女を守るように、優しく包み込んでいた。
エミリアはじっと身構える。
竜が動く気配はない。
飲み込まれた彼女の根源を消化するはずの竜の胃も、内部に張り巡らされた<竜縛結界封>によって、完全に沈黙していた。
エミリアは身を起こし、<飛行>の魔法で、竜の体内を昇っていく。
だが、辿り着いたのは行き止まりだ。竜の口は固く閉ざされている。どれだけ力を入れようとも、まるで開く気配はなかった。
そのとき、ガンガンッと外からなにかを打ちつけるような音が聞こえた。
「……くそっ……ちきしょうっ……! 開けっ……開けよぉっ……このぉっ!!」
「なんだよっ、このっ! 格好つけてっ! こんな、こんなところで、死なれちゃ、寝覚めが悪いんだよっ、ほんとっ!!」
「なあっ、生きてるよなっ、レドリアーノッ! まだ死んでねえよなっ!!」
「……ええっ!! 竜の機能は停止しています。必ず、助けますっ! 必ずっ!!」
ガゴンッと閉ざされた口に折れた聖剣が僅かに入った。
「おい、お前らも手を貸せっ! 全員でこじ開けるぞっ!!」
その僅かな隙間を取っ手にして、生徒たちが全員で竜の口をこじ開けていく。
光が見えた。外の風景が僅かに、エミリアの目に映る。
そうして、人が入れるぐらいに隙間ができると、そこに、三人の勇者の顔が見えた。
「エミリアッ……」
彼らはボロボロの制服を身に纏い、目に涙を浮かべていた。
ゆっくりとエミリアはその隙間から外へ出る。
「…………んだよ……心配して損したじゃねえか……」
「ほんっと……人騒がせだよね……」
そんな風に、憎まれ口を叩きながら、咄嗟に涙を拭ったハイネとラオスに、エミリアは両手を伸ばして、抱きしめた。
「おいっ……んだよ……?」
「そういうの、いいから……」
エミリアをふりほどこうとしたが、しかし、彼女の瞳からはらりとこぼれた涙を見て、二人はなすがままに抱きしめられる。
「……馬鹿ですね……あなたたちみたいな、どうしようもない生徒を遺して、死ねるわけないじゃありませんか……」
レドリアーノが割れた眼鏡を上げる。
僅かに笑ったハイネとラオスを、そしてエミリアをもみくちゃにするように、勇者学院の生徒たちが声を上げ、勢いよく飛びついてきたのだった。
竜ってどこに落ちたんでしょうかねぇ……。
誰も潰されてないといいんですが。