逃亡の果てに
ガイラディーテより東に二〇〇キロ地点にあるレドン砂漠。
熾死王の指示のもと、魔王学院の生徒たちが、流砂から飛び出してくる竜に魔法での攻撃を試みている。
その様子をぼんやりと眺めながら、俺はレイたちの視界を注視していた。
「ふむ。睨んだ通りか。ガイラディーテの王宮は竜を飼っていたようだ。二千年ぶりに竜が地上で暴れ出したのは、人為的なものである可能性が高いな」
唸り声を上げ、一匹の竜が口を開き、襲いかかってくる。
俺をその口内に飲み込もうという寸前、鱗のない首筋にサーシャが<根源死殺>の指先を突き刺した。
「滅びなさいっ!」
根源を貫けば、その巨体がぐらりと揺らいでドゴォォンッと砂漠に倒れた。
「人間の王が、竜で自分たちの民を苦しめてるってこと?」
指先の血を振り払い、サーシャが訊いてきた。
「救済などと言ってはいたがな。王は盟珠を持っていた。地底世界とつながりがあるのだろう。大方、勇者に見捨てられ、神にすがったといったところか」
もっとも、先に勇者を見捨てたのは人間の方だろうに。
「んー、カノンとミサちゃんはどうなったんだ?」
竜を退治したエレオノールが戻ってくる。
「王に捕まっている。近くには異竜と、番神がいる」
「って、それ、大丈夫なの?」
サーシャが驚きと心配の混ざった声を発する。
「あの二人ならば、しばらくは問題あるまい。どうやら、霊神人剣の力を奪いたい輩がいるようだが、それを突き止めようとしているようだ」
番神にそんな権能はないが、アルカナのように選定の神ならば、霊神人剣を供物にしてその力を食らうこともできるのだろう。
霊神人剣の力を奪いたいのは、俺に有効な攻撃手段を身につけるためか?
少なくとも、どの選定者かがあの王をそそのかしたのだろう。それを突き止めぬことには、また何度でも同じことが起きる。
レイたちはそう考え、しばし泳がせているというわけだ。
とはいえ、腐っても神だからな。あまりに好きにやらせすぎれば、取り返しのつかぬことにもなる。
その辺りはレイもミサも承知の上だろうがな。
と、そのとき、キィィィンと高く不快な音が遠くから聞こえた。
「……竜鳴がするな」
「あ、うん。さっきから聞こえてるわよね。地上に出てきている竜たちが、竜域を作ってるんだわ」
サーシャが砂漠に溢れる白い光の粒子に魔眼を向ける。
それは確かに魔眼の働きを阻害する竜域だ。
「ここの話ではない」
「……え? じゃ、どこよ?」
「勇者学院、アルクランイスカの真下だ」
竜が近くまで上がってきているということだ。竜鳴を発しているのは、魔眼を眩ますためか。あちらの魔力環境が正確に見えなければ、<転移>を使うことができぬ。
とはいえ、備えはしてあった。
俺はつないでおいた魔法線を辿り、その視界に目を移す。
場所は勇者学院の廊下だ。
カツカツと床を踏みならす音が響く。
視界の主が早足で歩いているのだ。
「……はぁ……まったく、どこでサボッてるんだか……。この時間に宿舎に戻るとは思えませんし……」
独り言のように呟いたのは、エミリアだ。
彼女に渡した<思念の鐘>を経由し、その魔眼を借りている。
キィィィンと竜鳴が再び響く。
エミリアが立ち止まった。
今度は彼女にも聞こえたのだろう。
「……なに、この音…………」
更に一際大きく、竜鳴が鳴り響く。
その音はみるみる近く、大きくなっていく。
カタカタカタッと窓が揺れていた。近くの教室に視線を向ければ、椅子と机が、微かに震動している。
「……地震……? きゃっ……!」
エミリアがバランスを崩し、廊下に倒れる。
立ち上がろうとするが、しかし、あまりの揺れの激しさに彼女は身動きがとれなかった。
「なに……? こんな地震があるわけ…………」
ガ、ガガガ、ガガガガガガッと揺れはますます大きく、激しくなっていく。
キィィィィンッと耳を劈くような音が大きく響くと、校舎の窓ガラスが次々と割れていく。
次の瞬間、ドッガァァァァンッと地面が爆発し、アルクランイスカが傾いた。
エミリアはその身を投げ出され、床を滑っていく。
「……うぁっ……!!」
壁に衝突して、ようやく止まった。
「…………なに…………?」
震動が収まり、彼女はよろよろと身を起こす。
割れた窓から、外の様子を窺うと、ぎろりと巨大な瞳がエミリアを睨んだ。
体長一〇〇メートルを超えるかという、それは竜だ。
しかも鱗と皮膚が緑ではなく、赤い。
「……希少種の……異竜……」
出会ったならば、脇目も振らずに逃げたまえ――
エールドメードの言葉が頭によぎったか、エミリアはすぐさま廊下を駆け出した。
だが、しばらく走った後、彼女は驚いたように立ち止まる。
割れた窓に近づき、顔を出した。
そこから見えたのは、赤き異竜が飛び出してきた深い穴。
破壊され、地面に転がった無数の瓦礫。
そして、それに埋もれるように身を横たえる、緋色の制服を着た生徒たちだった。
彼らは大きな瓦礫に挟まれ、身動きを取ることができない様子だ。
気を失っている者も何人かいた。
「……ちきしょう…………来やがれってんだ、このデカブツが…………!」
エミリアが目を丸くする。
立っている生徒たちは、巨大な異竜と対峙していたのだ。
ラオスとハイネ、レドリアーノは結界を纏い、聖剣を抜いている。
「刺し違えてでも、ぶっ殺してやるっ!!」
ラオスが吠える。
それは虚勢なのだろう。彼の足は震えている。
ハイネとレドリアーノの瞳にも怯えが見えた。
それでも、彼らはどうしてか、逃げようとしなかった。
彼らの仲間がそこにいるからかもしれない。
逃げる勇者などいるものか、とザミラに笑われたからかもしれない。
あるいは自暴自棄になっていたのかもしれない。
様々なものが彼らの足を縛り、逃げることを許さなかったのだろう。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォッッッ!!!」
けたたましい咆吼が、キィィィンと耳を劈き、レドリアーノたちの体の自由を奪う。
竜がその顎を開き、三人に猛然と牙を突き立てようと頭を伸ばした。
瞬間、黒い火球が真横から飛来した。
エミリアが放った<魔炎>が赤き異竜の顔面を焼く。
「埋まってる生徒たちを助けて、逃げなさいっ!」
<飛行>の魔法でエミリアは窓から空に飛びだし、眼下の異竜に<魔炎>の雨を次々と降らしていく。
不意をついたが、大した時間稼ぎにもならないだろう
だが、レドリアーノたちはその場から動けなかった。
「なにやってるんですかっ!? 早くしなさいっ!!」
「……き……ねえ……」
ラオスが呟く。
「なんですかっ!?」
「……できねえよっ!! 俺たちに逃げ場所なんかありゃしねえっ!! ここはガイラディーテだぜ! 勇者学院アルクランイスカだっ! どこに逃げろってんだっ? ここで逃げたら、俺たちはもうおしまいなんだよっ! 勇者は逃げちゃなんねえんだっ!!」
レドリアーノが覚悟が決めたような表情で言った。
「……いいですか、やりますよ…………わたしが先に行きます……<根源光滅爆>があれに通用するなら、後に続いてください……」
<根源光滅爆>は根源の持つ全ての魔力を強制的に全開放し、光の魔法爆発を起こす勇者の禁呪。
かつて一万人のゼシアが使おうとした、捨て身の自爆魔法だ。
「……ビビッちゃってんじゃない、レドリアーノ」
ハイネが言う。
「ええ、そうですよ……。わたしは偽者ですからね……。ですが、かつてゼシアが通った道。でしたら、これは避けては通れぬ義務でしょう……」
ふむ。助けにいくか。
と、そう思ったとき、黒い火球が三人めがけて放たれた。
「うおっ……!!」
<魔炎>の炎に包まれ、咄嗟に彼らは飛び退いた。
「おいっ……! エミリアッ! なにしやがんだっ!?」
「逃げる大義名分は、その火傷で十分でしょうっ。教師が無理矢理命じたのだと言えばいいっ。あなたたちを責める人はいませんっ」
エミリアは地上を炎で焼いていき、生徒たちの足場をなくす。
「さっさと助けないと、みんな燃えて死にますよっ。竜ならともかく、わたしなんかに殺されたくはないでしょうっ! 勇者ならっ、助けなさいっ!」
「グオオオオオオオオォォォッッッ!!!」
赤き異竜が顎を開き、エミリアへ向け、その口から炎の球を放つ。
竜のものにしては火力が弱いのは、彼女を食らおうとしているからだろう。竜のブレスならば、骨も残らぬ。そうなっては、さすがの竜と言えど、食らうことはできまい。
手加減された炎の球を避け、エミリアは竜を引きつけるようにしながら、<飛行>で逃げていく。
ドガアァァンッとその巨体でアルクランイスカを破壊しながら、異竜はエミリアを追いかけてきた。
唯一反撃してきた彼女を、最初の標的に定めたのだろう。
「グオオオオオオオオォォォッッッ!!!」
と再び、炎の球が赤き異竜から放たれる。
先程の十倍以上もの数の火球がエミリアを襲い、彼女は避ける術もなく、炎に包まれた。
「……あ、きゃぁぁっ……!!」
<飛行>の魔力が乱れ、彼女は地上に落下していく。
そこでは異竜が口を開き、待ち受けていた。
「……まだ…………」
落下する景色の中、彼女は魔力を全開にして魔法陣に込め、<飛行>の魔法を再度使った。
「…………追ってきなさい……!」
ふらふらと彼女は空へ空へと向かい、飛んでいく。
竜が自分を獲物として捉えたなら、空へ逃げれば、翼を広げて追ってくると考えたのだろう。
そうすれば、地上に被害は及ばず、生徒たちが逃げるための時間を稼げる。
エミリアがつけた、<思念の鐘>が淡く光を放っていた。
ボロボロの体とは裏腹に、彼女は強い想いを抱いている。
その心が増幅され、魔法具を通して外に溢れ出す。
――なにもない、空っぽのわたし――
――虚構の栄光にすがり、ありもしない幻想を胸に、
真実からずっと目を背け続けた――
――それに気がついたとき、わたしは、逃げた――
――逃げて逃げて逃げて、なにもかもから逃げ続けて辿り着いたのがここ――
――どうしようもないクズみたいな学院で、
やる気のない不真面目な生徒ばかりで、
救いようのない、馬鹿しかいない――
――ここで見つけたのは、浅ましく、ありのままのわたし――
――彼らは、わたしだった――
――理不尽な想いをしているのが、
自分たちだけだなんて、思わないでって
わたしは彼を叩いたけれど――
――本当に叩きたかったのは、わたし自身――
――逃げてもいいんだ――
――大丈夫なんだって、わたしは誰かに言って欲しくて――
――逃げられないでいた、彼らに咄嗟に叫んでいた――
――立派なんかじゃないわたしが、こんなことを思うのは、
きっとなにかの気の迷いに違いないけど――
――わたしと同じで、それでも若い彼らの――
――せめて可能性ぐらいは遺したい――
――誰にも褒められることはなくて、立派なんかじゃなくても、
唯一続いた、これがわたしの仕事だと思うから――
――逃げるな、なんてわたしは言えない――
――だけど、せめて、わたしと同じ結末だけは迎えないように――
――叶うなら、逃げのびてほしい――
――自分にできないことをさせようなんて、
ひどい教師もいたものだけれど――
――逃亡の果てに、きっと、つかめる答えがあるのだと――
――そう、信じたいから――
「……最後まで、つまらない授業でしたね…………」
異竜がエミリアの間近に迫る。
彼女を丸飲みするかの如く、その巨大な口が大きく開き、そして、ガシャンッと閉ざされた。
「グゥゥゥッ……!!」
しかし、その牙は、エミリアの体に刺さってはいなかった。
彼女を守るように張られた四つの魔法陣。水、火、土、風の属性で構成されたその結界は、<四属結界封>。
「諦めてんじゃねえっ……エミリアァァッ……!!」
ラオス、レドリアーノ、ハイネが、地上から<飛行>で昇ってきた。
彼らは全力で<四属結界封>に魔力を込めながら、異竜を三人で取り囲む。
彼らと異竜では力の差がありすぎる。
竜が食べる気ではなく、ただ蹂躙するつもりだったなら、とうに決着はついているだろう。
無論、今すぐ、助けに行くことはできよう。
ここから<獄炎殲滅砲>で竜を焼くなど造作もない。
だが、それでは命しか救えぬ。
今、初めて彼女と彼らは勇気をもって、立ち上がり、前へ進もうとしているのだ。
赤子が立とうとしているときに、手を貸せば、もう二度とその者は立ち上がれぬだろう。
エミリア。
逃げて、逃げて、逃げ続けてきた。
そのお前が今、ようやく戦うために前を向いたのだ。
存分に想いを示せ。
そして、願わくば、勝利して帰ってこい――
彼女はようやく探していたものを見つけたのかもしれません。