ネクロンの秘術
先刻の騒動に引きずられることなく、アイヴィスは低い声を発した。
「本日は我がネクロン家の秘術、融合魔法についての講義を行う」
アイヴィスが黒板に融合魔法の基礎魔法術式を描いていく。
月光を魔法陣として用いる自然魔法陣のようだ。使われている魔法門や魔法文字も神話の時代に近いもののようで、なかなか大がかりな術式である。
生徒たちは魔法術式を模写するのもやっとという様子だったが、俺にとっては大したものではない。
しかし、神話の時代の魔族が研究してきた魔法だ。そういった意味では、なかなか興味深い。
普段の授業もこれぐらいやってもらえると、眠気を感じずに済むのだがな。
「ちょっと、アノス。ノートに書くなり、記録水晶に保存するなりしなくていいの?」
隣からサーシャがそんなこと言ってくる。
「記録ならしてる。ここにな」
俺はこめかみを人差し指で叩く。
「……嘘、よね……? こんな複雑な魔法術式を見ただけで暗記できるわけないわ……」
驚き半分、疑い半分でサーシャは呟く。
「お前こそ、見たところなんの記録も取ってないようだが?」
「ネクロン家の秘術だもの。わたしは直系だし、基礎なんかとっくの昔にマスターしたわ」
そういえば、そうだったな。
「直系ということは、アイヴィスと親しいのか?」
「まさか。七魔皇老は雲の上の存在だわ。直系って言っても、わたしは一六代目だもの。一番下だし、アイヴィス様と話をしたことなんて……一回しかないわ」
魔族は寿命が長いことだしな。
サーシャ以外の直系もまだ生きているだろう。
「――今説明した通り、融合魔法の利点は魔力と魔力の融合にある。波長の違う別種の魔力を結合させることにより、強い魔法反応を生み、元の魔力を十数倍に引き上げることができる。これが初級融合魔法<混合同化>だ」
アイヴィスの講釈が続く中、サーシャが小声で話しかけてくる。
「ねえ。本当に覚えたの? 適当なこと言ってないわよね?」
「疑り深い奴だな」
「だって、わたし、この術式を理解するのに、一ヶ月もかかったのよ」
「お前が一ヶ月なら、俺が一秒で計算は合っていると思うが」
サーシャがムッと睨んでくる。どうやら相当不服らしいな。瞳には<破滅の魔眼>が浮かんでいる。
「証拠を見せようか」
「どうやってよ?」
ちょうどアイヴィスの説明に一区切りがついた。
「質問のある者はいるか?」
教室内には恐縮した雰囲気が漂っている。
恐れ多くて、誰も手を挙げられないのだろう。
「一ついいか」
緊張を打ち破るように、俺はすっと手を挙げた。
「うむ、よかろう」
立ち上がると、生徒たちのひそひそ話が聞こえてくる。
「あいつ……今度はなに言うつもりだよ……?」
「ていうか、よく七魔皇老に手を挙げられるわね……」
「ほんと、信じられないわ。どういう心臓してるのよ……」
「的外れなことを言ったら、殺されかねないぞ……」
やれやれ。この時代の魔族は引っ込み思案だな。俺の子孫とは思えないほどだ。
「その<混合同化>の魔法陣、というか、融合魔法の基礎魔法術式なんだが、構造に致命的な欠陥があるぞ」
しーん、と物音一つない静寂が訪れた。
ふむ。どうやら俺の一言で教室の空気が凍りついたか。
「あ、ああ、あいつ……もうだめだっ……今度の今度こそ終わりだよっ! エミリア先生のときとはわけが違うぞっ……!!」
「ネクロンの秘術に欠陥があるって、つまり七魔皇老のミスを指摘してるってことで
しょ? やばいなんてもんじゃないわよ……」
「大体、七魔皇老が開発した術式構造に欠陥なんてあるわけないだろうが……」
ざわざわと騒がしい生徒たちとは裏腹に、アイヴィスは冷静に声を発した。
「欠陥とは?」
「この基礎魔法術式なら魔力の融合はできる。魔法反応によって、十数倍に魔力は引き上げられるだろう。だが、術式構造からいって、この融合は長くもたない」
ぐっと身構えるように生徒たちは魔法障壁を展開していた。
今にもアイヴィスが攻撃魔法で、教室を殲滅せんと言わんばかりだ。
「初見でそれに気がつくとは大したものだ」
教室中が肩すかしを食らったような雰囲気になった。
「た、大したものってどういうことっ……!?」
「すごいって意味じゃないっ……?」
「初見ってっ……!?」
「落ちつけ、お前。普通の言葉が理解できてないぞ……!」
アイヴィスが黒板に融合可能時間などを書き加えていく。
「確かに融合魔法は持続時間が著しく短いという欠陥がある。基礎魔法術式の構造によるもののため、上級魔法になろうとも、この欠陥自体を消すことはできないのだ」
俺は加えて指摘した。
「並の使い手なら、融合時間は約三秒~五秒。これだけ派手な術式を組んで、それじゃ覚える価値のある魔法とは言えないな」
アイヴィスが鷹揚にうなずく。
「確かに融合魔法に優位性がある場面というのは限られている。殆どのケースでは、他の魔法で代用した方が良いだろう。しかし、更に深く深淵を覗けば、あるいは化けるかもしれぬ魔法でもある」
ふむ。さすがは俺の血から生み出した配下だ。
術式を完成させることはできずとも、その魔眼は到達点をしっかりと見据えていたか。
「同感だ。俺が深淵を覗いたところ、真の融合魔法の基礎術式がわかった」
その台詞に、さすがのアイヴィスも驚いたように魔力を震わせた。
教室中のノートというノートがパタパタとめくれ、ペンが落下する音が響く。
「……あっあぁぁっ! 終わりだぁぁっ。殺される、殺されるぞぉぉっ……!」
「……い、嫌だぁ……死にたくない……! どうして不適合者なんかと同じクラスになっちまったんだ……!」
生徒たちはまるで死を覚悟したかのように、ガタガタと震えている。
「この術式構造を改良できるというのか?」
低い声に僅かな驚きが混ざる。
「簡単だ」
「……我が千年以上もの時を費やしてきた魔法術式なのだぞ……」
「まあ、見ていろ」
俺は立ち上がる。
「……ちょっと……融合魔法は、ネクロン家の秘術よ……。<魔王軍>の魔法は見たことあったかも知れないけど……」
サーシャが俺を引き止めるように言った。
「たかだか授業で、なにをそんなに心配しているんだ?」
「……べっ、別に……心配してるわけじゃないけど……」
ぷいっとサーシャはそっぽを向く。
「見ていろ」
俺は黒板の前へ歩いて行き、魔力を発して、魔法術式をさっと描き変えた。
「どうだ?」
アイヴィスはそれを見た瞬間、息を飲んだ。
数瞬遅れ、彼の体がわなわなと震え出す。
黒板に描かれた魔法術式というのは、実際に魔力が入っている。構造を理解するのにはそれなりの魔眼と頭が必要だが、術式が成立しているかどうかは、一目瞭然なのだ。
「……これは……なんということだ……? 融合時間が数百倍に……そうか、起源魔法の術式を組み込んだのか……。だが、起源魔法の術式を他の術式に組み込ませるなど、いったいどうやって……?」
必死に魔法術式を解読しようとするアイヴィスに、俺はこともなげに言った。
「簡単なことだ。融合魔法の術式を応用して、魔法術式同士を融合させただけだからな」
「な……!?」
アイヴィスは絶句した。思いもよらなかったのだろう。
だが、誰もが見ていながら、誰も気がつかなかったことに気づく。
言われてみれば、実際に目にしてみれば、なんだこんな簡単なことだったのかと思う。
魔法研究とはそういうものなのだ。
「……なんという発想だ。アノス・ヴォルディゴード……と言ったな。まさか、我よりも先に融合魔法を研究している者がいるとは思ってもみなかったぞ」
「ああ、なるほど」
少々誤解させてしまったらしい。
「いや、アイヴィス。これはお前の成果だ」
「なに……?」
「俺が融合魔法の術式を見たのは今日が初めてだ。お前の研究なくしては、この魔法術式は完成しなかった。俺は最後の一押しをしたにすぎない」
アイヴィスは驚愕したような声を漏らす。
「なんだと……? 初めて見た融合魔法の術式をここまで完璧に理解し、この僅かな間に完成させたというのか……!?」
「なに、早い遅いはものの数に入らない。あと千年もあれば、お前も気づいたはずだ」
証明が済んだため、俺は席へ戻ることにした。
「……なぜお前のような化け物が学院なんぞに通っている? 教えることなどなにもないぞ、アノス・ヴォルディゴード……」
俺の背中にアイヴィスが畏怖をもって呟いた。
途端にまた教室中がざわざわと騒ぎ始めた。
「ど、どうなったのっ……!?」
「生きてるっ……!!」
「生きてるのはわかってるよぉっ……!!」
「ぜ、全然理解できないけど、なんか、アノスが融合魔法の魔法術式を完成させたみたいだ……!」
「……あいつ、なんなんだよ……不適合者じゃなかったのかっ……!?」
「不適合者って、天才って意味だっけっ……!?」
「お前、驚きすぎて、また普通の言葉がわからなくなってるぞ……!」
自席の椅子を引き、着席すると、口を開いたまま俺を見ているサーシャに言う。
「ちゃんと理解してただろ?」
「……もう、なんて言っていいかわからないわ……」