魔王の水遊び
放課後――
授業終了の鐘が鳴ると、エールドメードは言った。
「終わりではないか。ヤレヤレだ。楽しい授業はあっという間に過ぎていく」
彼はくるくると杖を回転させ、それを魔法陣に収納した。
「ときにシン先生、この後空いているかな?」
「ええ」
「素晴らしい。では、つき合いたまえ。竜を討伐するにも、まずは見つけなければ話にならない。さすがに生徒たちにはまだ早い」
シンが俺の方に視線を向ける。
「カッカッカ、アレにやらせては授業にならないではないか」
「つき合いましょう」
二人は<転移>の魔法を使い、大講堂から出ていった。
「んー、終わったぞ」
ぐぅっとエレオノールが伸びをする。
隣でゼシアが真似をするように、ぐっと伸びをしていた。
「それじゃ、水遊びだぞっ!」
「え、あれって、本気でやるつもりだったのっ?」
サーシャが若干驚いたように言う。
「悪くないんじゃないかな」
「あははー、いいですよね。今日はちょうど暑いですし、絶好の水浴び日和じゃないですか」
レイとミサが笑顔で言った。
「それに暇そうにしてたら、またザミラ学院長が誘ってくるかもしれないしね」
「あー、それはありそうだわ」
ザミラのことを思い出したか、呆れ気味にサーシャは言った。
「楽しそう」
ミーシャがそう口にすると、サーシャは笑顔でうなずいた。
「そうね。じゃ、行きましょ」
サーシャが俺に手を伸ばす。
その手を取り、ミーシャたちとも手をつなぐ。
<転移>の魔法を使えば、目の前が真っ白に染まった。
すぐに視界がはっきりしてくると、そこは聖明湖である。
白い砂が一面に広がっており、その向こうにある透き通った水が、青の濃淡をつけている。
水際は浅瀬だ。以前に学院別対抗試験をした場所とは違い、水遊びには最適だろう。
湖へ向かおうとした俺は、ふと視線を感じて、振り向いた。
緋色の制服を纏った男がこちらを見ている。
制服は勇者学院のものだ。緋色ということは、選抜クラスだろう。
たった今授業を終えたばかりのはずだが、サボりでもしたのか?
男は長身で、細身。右側の髪だけが長く、片目が隠れている。
彼は一瞬俺に視線を合わせると、特に焦った風でもなく、踵を返した。
そのとき、男の人差し指に光るものが見えた。
指輪である。珍しい造形だ。リングはなにかの動物の爪を加工してあり、動物の皮が薄く張ってある。
宝石がまた変わっている。透き通った黒い石の中心に、紅い光源があり、石全体を照らしている。だが、その光は石の中から出ていかず、なんとも幻想的な輝きを発していた。
他の素材は見たことがないが、指輪に薄く張られたあの皮。
あれは、竜の皮ではないか?
「珍しい指輪だな」
俺がそう声をかけると、男は立ち止まった。
「どこで手に入れた?」
「祖国の民芸品です」
言って、彼はこの場から立ち去っていった。
祖国の民芸品か。
確か、皇族派に竜を引き渡した男も、珍しい指輪をしていたそうだったな。
ディルヘイドやアゼシオンでは、指輪は主に金属や樹木、鉱物を使う。
動物の爪や皮などを指輪にすることがないわけではないが、ごくごく一部の店や、村落などでだろう。
ましてや、今の時代に竜の皮を手に入れるなど、そうそうできることではない。
「気になる?」
ミーシャが俺の顔を覗いてきた。
「なに、勇者学院の制服を着ていたからな。また会ったときにでも、話を聞くとしよう」
「アノシュくーん、ミーシャちゃーん、早くおいでー。泳ぐぞっ」
エレオノールが浅瀬に素足をつけ、こちらに手を振っている。
俺はミーシャと共に、彼女のもとへゆるりと歩いていった。
「どうせなら、水着を持ってくればよかったわ。泳ぐなんて思ってなかったから、魔法陣にも収納してないのよね」
サーシャが波打ち際でしゃがみ込み、水を手の平ですくう。
「んー、でも、学院別対抗試験のときみたいに、<水中活動>を使えばいいんじゃない? 服があっても問題ないぞ」
「泳ぐのは簡単だけど、それじゃ気分が出ないじゃない」
「ふむ。ならば気分が出るようにしてやろう」
俺は目の前に手をかざし、自分を含め、この場の全員に魔法陣を描いた。
次の瞬間、ぱっと衣服が光となって消え、俺たちは水着を身に纏っていた。
「わーお、水着だぞっ!」
エレオノールが嬉しそうに波打ち際をはしゃぎ回る。
「ほーら、サーシャちゃん、ご所望の水着だぞっ。せっかくおねだりしたんだから、もっと喜ばなきゃっ」
言いながら、エレオノールが水をすくい、ぱしゃぱしゃっとサーシャにかける。
「きゃっ、ちょっと、エレオノールッ」
「……反撃……です……」
水着姿のゼシアが、真似するように水をすくい、エレオノールの顔にぱしゃっとかけた。
「くすくすっ、やったな、ゼシアっ」
エレオノールとゼシアは楽しそうに水をかけ合っている。
「サーシャ」
ミーシャが自らの水着を指さして言った。
「似合う?」
「……えーと、似合うけどね……似合うんだけど、わたしのもエレオノールのも、というか、みんな、その……大胆すぎない?」
サーシャたちの着ている水着は、よくディルヘイドの店頭に並んでいるものよりも率直に言えば面積が少ない。
「ふむ。わかっていないな、サーシャ」
俺は堂々と腕を組みながら言った。
「なんでもいいんだけど、アノシュの水着もぴったりフィットしすぎじゃない?」
「水着というのはただの衣服ではなく、水中での活動能力を極限まで高めるための魔法の一種だ」
「はい?」
サーシャが素っ頓狂な声を上げた。
「つまり、この薄布は、すなわち魔法陣であり、絶えず魔法を行使している。この時代ではその基本すら忘れてしまっているようだが、今お前たちの纏っている水着こそが、それぞれの体型に合わせた最適の形だ」
俺は自ら纏った水着を見せつけるように言った。
「覚えておけ。これが、<至高水着>だ」
ゆるりと湖に足を踏み出す。
「見よ。これを纏っていれば、こうなる」
足は湖に沈まず、俺は水面をいとも容易く走っていた。
「泳ぎなさいよっ……!」
「無論、泳ぐこともできる」
ざぶんっと水中に入り、ぐるぐると回転するように聖明湖を泳ぐ。
次第に水流が激しく渦を巻き、魚でさえも飲み込まれるような渦潮が発生する。
「さあ、来るがいい。サーシャ、ミーシャ、せっかくの水遊びだ。存分に満喫せよ」
「死ぬわっ!」
「なにを言っている。<至高水着>を甘く見るな。どれほどの水流、どれほど水面が荒れていようとも、泳げなくては水着とは言えぬ」
サーシャとミーシャが顔を見合わせる。
「大丈夫」
ミーシャがまっすぐ荒れ狂う湖に足を踏み出す。
<至高水着>に守られ、その水流の中をミーシャは苦もなく歩いていた。
「おいで」
ミーシャが手を伸ばすと、サーシャも怖ず怖ずと湖に足を踏み出した。
水の中に入っても、水流に足をさらわれないことを悟ると、彼女は笑顔を浮かべた。
「あはっ、なにこれ? すごいわっ!」
ザバンッと思いきって、サーシャは水の中に入る。
「エレオノールもゼシアも来なさいよーっ」
サーシャが泳ぎながら、波打ち際にいる二人に手を振った。
「んー、すぐ行くぞーっ。砂のお城を作ってからねっ」
ゼシアとエレオノールは、水で砂を固め、なにやら建物らしき物体を作っている。
完成にはまだ時間がかかりそうだ。
「じゃ、後でねっ」
そう口にすると、サーシャは潜水し、俺を追いかけるように泳いできた。
その横にミーシャが続く。
「アノシューっ」
二人がもう一歩で俺に並ぶというところで、足で水をかき、更に速度をぐんと上げた。
「な、なんで逃げるのよっ?」
「くははっ、水遊びだぞ。追いついてみよ」
「もう。待ちなさいよっ」
水中を縦横無尽に逃げる俺を、サーシャとミーシャは全力で追いかけてくる。
三人で泳ぎ回ることで、水流は更に激しく、荒れ狂う。
波打ち際では、渦潮ができた湖の様子をミサがぽかんとしながら見ていた。
「……あはは……なんかものすごいことになってますね……」
「<至高水着>だから、大丈夫だよ」
さらりとレイは言い、微笑んだ。
「で、でも、ですね。この水着……ちょっと恥ずかしすぎますよね……」
言いながら、ミサは自らの体を隠すように抱いた。
「似合ってるよ」
そういうレイも<至高水着>である。
鍛え抜かれた彼の体が、あらわになっていた。
「そ、そんなに見ちゃ、だめですよ……?」
レイがさりげなく視線をそらす。
すると、ミサはしゃがみ込み、波打ち際の水を手ですくった。
「えいっ……」
ぴしゃっとその水がレイにかかる。
「あははー、油断禁物ですよー」
レイは爽やかに微笑み、水をすくおうとその場にしゃがんだ。
「おしおきが必要みたいだね」
「きゃ、きゃーーーっ」
ミサはくるりと反転して波打ち際を駆け出した。
それをレイがゆっくりと追いかける。
「ミサ、どこまで行くんだいっ?」
「だ、だって、止まったら、絶対水かけますよねっ?」
「大丈夫だよ」
「本当ですか?」
「約束するよ」
すると、ミサは立ち止まり、ゆっくりと振り返ると見せかけて、また水をすくって、ぱしゃっとレイにかけた。
「あははー、また引っかかりましたねー」
にっこりとレイは笑う。
「こいつっ」
レイが反撃とばかりに水をかけ、ミサがまた嬉しそうに「きゃー」と悲鳴を上げながら、駆けていく。
二人は楽しそうに、ぱしゃぱしゃと足で水を跳ね上げながら、波打ち際を仲よく駆けていた。
「待ちなよ、ミサ」
「ま、待ちませんよーだっ。捕まえてみてくださいよー」
「言ったな」
あはは、はははっ、と爽やかな二人の笑いが鳴り響く。
やがて、レイは彼女に追いついていき、その手をつかんだ。
「あ……」
「ほら、捕まえた」
笑顔を浮かべたレイの瞳に、ミサの視線が吸い込まれる。
エレオノールとゼシアは砂浜でお城を作っている。俺とミーシャ、サーシャは水中で渦潮を作っている。
そして、ミサとレイは、今、二人の世界を作り始めた――
「捕まえてなにをするのでしょうか」
ばっと正気に戻ったかのように、レイが後ろを振り向く。
<至高水着>姿のシンが、その場に仁王立ちしていた。
「お……お父さんっ……!? あれ、でも、竜を捜しに行くって……?」
「胸騒ぎがしましてね。すでに数匹は見つけましたが、残りはエールドメードに任せ、戻ってきたのです」
「……そ、そうですか……」
「ときに、レイ・グランズドリィ」
シンは冷たい瞳を、キランと光らせる。
「あちらの岸からこちらの岸まで、往復で遠泳でもしませんか? あなたがこちらの岸に私より早く戻ってきたならば、その時間差の分だけ、娘とのことは目をつむりましょう」
「な、なに言ってるんですか、お父さん……?」
ミサを手で制して、レイはにっこりと笑う。
「剣ではまだ敵わないかもしれないけど、泳ぎにはそれなりに自信があってね」
「それは楽しみです。私よりも泳ぎの下手な男に、娘を任せるわけにはいきませんからね。いざというとき、海難救助もできない男には」
二人は静かに睨み合い、視線の火花を散らした。
「合図を賜りますよう」
「面白い。存分に競い合えっ!」
水中から響いた俺の声を合図に、シンとレイは同時に地面を蹴った。
「仰せのままに、我が君っ。見せて差し上げましょう、この身は魔王の右腕、片腕だけとはいえ、魔王の泳法が破れるわけもありませんっ」
「ガイラディーテは人間に残された最後の希望、二千年前、この聖明湖は僕たちの砦だった。僕たちの後ろにはいつも弱き民がいた。ここから先へ魔族を一人たりとも通すわけにはいかない。だからこそ、僕は必死で泳ぎを鍛えたんだっ!」
同時に水中に飛び込んだレイとシンは、まるで矢のような速度で渦潮を貫通し、向こう岸まで突き進んでいく。
「見せてあげるよっ、勇者の泳法をっ!」
「望むところですっ!」
恋人として、父親として。
勇者として、魔王の右腕として。
意地と誇り、想いと願い、そして恋と愛がぶつかり合い、今、<至高水着>の男たちが水中を行く。
まさにそれは、神話の時代の戦いと呼ぶに相応しい。決して負けられぬ水中戦であった。
そうして、広大な聖明湖を泳ぎ抜き、あっという間に戻ってきた。
先行しているのはシンだ。
だが、最後の力を振り絞り、レイがそれに追いすがる。
二人は湖から砂浜にダイブするかのように突っ込んできて、殆ど同時に地面を叩いた。
「はあ…………はあ…………」
「……ふっ……ふぅ……」
二人は息を切らしている。
激しい剣戟を交わしてさえ、平然としている両者が。
それほどの全力、それほどの泳技であった。
「……どちらが、早かったですか……?」
「……ミサ…………?」
レイとシンが、ミサを見る。
エレオノールたちの近くにいた彼女がゆるりと振り返る。
果たして、勝敗の行方は――
「……あー、あははー、見てませんでしたー……」
<至高水着>の男たちは、最後の気力を失ったかのように、がっくりと砂浜に倒れ込む。
二人は横に並んで仰向けになり、ただ空を見つめていた。
娘を持つ父親と彼女の恋人、譲れない想いを抱く両者は、しかし今、同じ気持ちを確かに共有していたのかもしれない。
見とけよ……。