寝ぼけ魔女
エミリアと別れた後、俺はメルヘイスに<思念通信>で彼女のことを伝達した。
すぐに勇者学院へ赴任するよう手はずを整えるだろう。
しかし、思ったよりも時間が余ったな。
もう少し食ってかかられるかとも思ったが、なかなかどうして、しおらしくなったものだ。それだけ、今日までの日々が過酷だったということか。
「アノス」
振り向くと、そこにミーシャが立っていた。
彼女は手にバスケットを持っている。
「朝ごはん」
そう口にして、ミーシャは両手でバスケットを差し出した。
「お弁当にした」
「ほう。それはありがたいことだ。手間をかけたな」
嬉しそうに微笑み、ミーシャは首を左右に振った。
「デルゾゲードへ行く?」
「行くには行くが、今日は少し早く出たからな」
俺は魔法陣の中にバスケットを収納しながら、ふと考える。
「ふむ。良いことを思いついたぞ。ミーシャの家に行こう」
ぱちぱち、と目を瞬かせ、ミーシャは小首をかしげた。
「いつだったか、話をしただろう。サーシャを起こしに行くとな。なんだかんだで先送りにしてしまったが、ちょうどいい機会だ」
ミーシャはこくりとうなずき、俺に手を伸ばした。
「サーシャは喜ぶ」
小さな手を取ると、彼女は<転移>を使った。
目の前の視界が真っ白に染まり、やがて、違う景色が現れた。
広い一室だ。天井は高く、装飾の施された柱が何本もある。
赤を基調にしたカーテンが風にそよいでおり、窓からは日光が注ぎ込んでいた。
大きな天蓋付きのベッドを目映く照らしているものの、そこに寝ている人物はまるで起きようとしない。
桃色のネグリジェを身につけ、髪をほどいているサーシャは、すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている。
「完全に寝入っているな」
「二度寝」
ミーシャが窓を指さす。
「ふむ。窓を開けておきながら、また寝たというわけか」
こくりとミーシャがうなずく。
「もしかしたら三度寝」
俺はサーシャへ近づいていき、ベッドに腰かける。
「サーシャ」
彼女を呼ぶが、まるで反応がない。
この調子で、毎回遅刻せずに間に合っているのだから、不思議なものだ。
彼女の頭に手をやり、軽く揺さぶる。
「さっさと起きるがいい。さもなくば、家ごと揺らすぞ」
言葉に魔力を込めて言ってやると、サーシャがうっすらと目を開ける。
「……ミーシャ? もう朝なの……?」
ぼんやりとした口調でサーシャは言う。
俺をミーシャと見間違えるとは、まだ寝ぼけているようだな。
「主君の顔を忘れたか?」
ぼーっとサーシャは俺に視線をやっている。
だが、その目はどことなく焦点が定まっていない。
「主君は……アノス……? わたしの魔王」
「そうだ。お前の魔王だ。起こしにきてやったぞ」
「あれぇ……? おかしいわ……アノスが、いるわけないわよね……」
まだ寝ぼけているのか、ふわふわした口調である。
「以前に話しただろう。わざわざ起こしに来てやったのだ。そろそろ目覚めたらどうだ?」
「……あ、夢だわ……」
聞いておらぬ。
「夢ではない。起きろ」
「……夢でも、アノスはそっけないわ……」
シーツをつかみ、ごろんとサーシャは俺に背を向ける。
「サーシャ」
「まだ眠たいの」
手を伸ばすと、サーシャがそれをつかみ、ベッドに引きずりこもうとする。
「……んー、じゃ、ほら……アノスも一緒に寝ればいいわ……わたしのベッド大きいわよ……」
「以前も言ったがな。俺の前で寝かせると思うな」
「……ふ、ふーんだ……」
駄々っ子のような甘えた声でサーシャが言う。
「……夢だからって、アノスは絶対、そんなことしてくれないんだもん……」
わけのわからぬことを言う。
段々と起きてきたと思ったが、そうでもなさそうだな。
「あまり駄々をこねるな」
「……言うこと聞かせたかったら、ちゃんと言ったこと守ってよ……」
またサーシャがこちらに寝返りを打つ。
シーツが乱れ、薄いネグリジェがあらわになる。
「なにを守れと言うのだ?」
「……寝かせないって、言ったくせに……」
すねたようにサーシャが言う。
「……夢なんだから、ちょっとぐらい、抱いてくれても、いいじゃない……」
「ふむ。仕方のない奴だな」
俺はサーシャに手を伸ばす。
そして、彼女の体に触れた。
「……あ、ふふっ……もっと近くに来てよ……もっと……」
嬉しそうにサーシャが笑う。
「ああ」
そのまま軽くサーシャを持ち上げた。
「……きゃっ……!」
両手でサーシャを抱き抱え、ベッドから下りる。
「どうだ? 抱いてやったぞ。まったく、一人で起きる上がることもできぬとは。幼子のようなことを言うものだな」
視界の端に見えたミーシャが、小刻みに首を左右に振っていた。
なにか違ったか、と思った瞬間、ミーシャははっとしたように、今度は小刻みにこくこくとうなずき始めた。
どうやら間違ってはいないようだな。
「……あれ……アノス……?」
俺の腕の中にいるサーシャが瞬きをして、じっとその目を俺に向けた。
ぼーっとしていた視線が次第にしっかりしてくると、彼女は言葉をこぼした。
「……今の? あ、あれ……? だって……夢……? だけど、なんでアノスが……ここにいるの……?」
動転したように、サーシャが言う。
「以前に約束しただろう。起こしに来てやったぞ」
「……え、あ……そうなの……あ、ありがとう……」
未だ頭に疑問を浮かべた様子で、サーシャがお礼を口にする。
「ところで、あの……アノス……ちょっと聞いてもいいかしら……?」
怖ず怖ずとサーシャが尋ねる。
「なんだ?」
「その……わたし、なにか、変なこと言ってた……かしら……?」
意図がつかめずにいると、サーシャはすぐに言葉を続けた。
「……ゆっ、夢なんだけどっ……夢なんだけどねっ。そう、へ、変な夢を見てて、それで……おかしなこと言ってなかったかと……思ったんだけど?」
「まあ、わけのわからぬことを色々と口にしてはいたが、抱いてやるまで起きぬと駄々をこねたのでな。こうして起こしてやったというわけだ」
サーシャはほっとしたような表情を見せた後、首を捻った。
「……というか、なんで抱いてって聞いて、抱っこしてほしいと思うのよ……子供じゃないんだから……」
なんの気なしにそうぼやいた瞬間、サーシャは口を大きく開き、危機的状況にでも陥ったような顔をした。
まるで墓穴を掘ったと言わんばかりである。
「すべて寝言とは思わなかったのでな。てっきり起こして欲しいものとばかり思ったが、まさか、夢とは」
「そ、そう。そうなのよっ。夢、夢だわ、夢。まあ、別にそんなことはどうでもいいんだけどね、どうでも。ところで――」
「なんの夢を見ていたのだ?」
サーシャが絶句した。
「……え、えーと……その……」
「ずいぶんと良い夢だったのだろう。なかなか幸せそうな顔をしていた」
サーシャは顔を真っ赤にし、そっぽを向くように視線をそらす。
「……う、うん……良い夢だったわ……」
「俺の名を呼んでいたが、俺も出てきたのか?」
サーシャがぎゅっと俺の袖をつかむ。
「……出てきた……」
「なにをしていたのだ?」
「なっ、なにをっ!?」
びっくりしたようにサーシャが声を上げる。
「どうした?」
「……なんでもないわ……」
じっと彼女を見つめてやれば、なんとも心細そうな顔を浮かべている。
「ふむ。いらぬ詮索をしたな。言いたくないこともあるだろう。無理には聞かぬ」
「あ……」
サーシャをおろしてやろうとすると、彼女は嫌がるようにぎゅっと俺の袖につかまった。
か細い声で彼女は言う。
「……抱っこ……」
「ん?」
「その、抱っこしてもらったわ。アノスに」
それを聞き、俺は朗らかに笑った。
結われていない彼女の金の髪をぐしゃりとかき乱すように、その頭を撫でてやった。
「いらぬ意地をはるものだな。まだまだ子供ではないか」
「う、うるさいわ。いいじゃない、別に」
サーシャがぎゅっと俺に抱きついてきた。
それを見ていたミーシャが、ふふっと笑う。
「もう。なによ、ミーシャ」
「サーシャが幸せそうで嬉しい」
そう言われ、サーシャはバツの悪そうな顔を浮かべる。
「くはは。相も変わらず、どちらが姉かわからぬな」
「サーシャがお姉ちゃん」
渋い表情でサーシャが呟く。
「だったら、ミーシャはもうちょっと妹っぽくして欲しいわ」
ミーシャが首をかしげる。
「どんなのがいい?」
「なんでもいいから、わたしよりもだらしないところを見せるとか」
困ったようにミーシャがその場で固まる。
だが、やがて、気がついたように言った。
「妹であることには、だらしない」
「トンチなのっ!?」
鋭いツッコミであった。
「もう、いいわ」
サーシャが足で宙をこぐので、そのまま床におろしてやった。
彼女は足元に魔法陣を描く。それが頭上へ上っていく毎に、ネグリジェが魔王学院の黒服に変わっていく。
一瞬でサーシャは着替えを終えた。
「困った」
と、ミーシャが俺を見上げる。
妹らしくないと言われたことを、気にしているのだろう。
「まあ、気にせずともよいとは思うがな」
「……気になる……」
「では、たまにはわがままの一つぐらい、口にしてみたらどうだ?」
「わがまま?」
「少しは妹らしくなるだろう」
ミーシャはじっと考え、サーシャに言った。
「寂しい」
「……ど、どうしたの、急に?」
サーシャが心配そうにミーシャの方へ寄っていく。
「アノスが授業に出られないのが」
「あ……」
サーシャは、気がついたように声を漏らす。
「……うん、そうよね……。それはそうだけど、そもそも、もう暴虐の魔王だって完全にディルヘイドに広まったんだから、授業なんか受けたら大騒ぎにしかならないわ」
「……ん……」
「わたしも、少し、寂しいけど……仕方ないわ」
そう言いながら、サーシャはさりげなくミーシャと手をつないだ。
「アノスも可哀相」
「可哀相?」
不思議そうにサーシャは俺を見た。
「でも、暴虐の魔王だって証明するのは、もう果たしたんだし、アノスは別に授業なんて受けたくないわよね?」
サーシャが訊いてくる。
「そうでもないぞ。授業を受ける意味はさほどないがな。しかし、あの退屈な授業はなかなかどうして、悪くはない。お前たちもいる」
嬉しそうにサーシャが顔を綻ばせる。
「……そう、なの……? じゃ、せっかく、本物の魔王だって認めてもらったのに、いいことばかりじゃないわね……」
ミーシャが少し悲しげにうなずいた。
「なに、そう落ち込むな。色々と準備をしていてな。それが今日調った」
「えっ? ええと……ちょっと待って。なんの話よ?」
不思議そうな顔で二人は俺を見つめる。
「無論、俺が魔王学院へ再び通う話だ」
「はぁっ!?」
そんな無茶な、といった表情を浮かべ、サーシャは大きく声を上げたのだった。
アノス、再び学院へ。
いったい、どうやって騒ぎを避けるつもりなのやら。