プロローグ ~創造の月~
神話の時代――
ひらひらと雪の結晶が遙か地上へと舞い降りる。
降り注ぐ温かな光を、美しくキラキラと反射させながら。
いや、正確には少し違う。
その雪の結晶は、光が変化した姿であった。
夜空には、平常の月の他にもう一つ、<創造の月>アーティエルトノアが浮かぶ。
白銀に輝くその満月は、地上を照らし、雪の結晶を降らせていた。
その月明かりから生まれる花にも似た雪の結晶を、人々は雪月花と読んだ。
<創造の月>の光を受け、ありとあらゆる生命が、その源である魔力を宿す。
生まれているのは、あらゆるものの原初であり、根幹である、生命の根源であった。
そこは多くの命が奪われた戦場。
白銀の月明かりに照らされ、荒れ地も屍も、折れた木々から、枯れた草花まで、時が止まったかのように凍りつき、そして、消えた。
古きものが滅びれば、新たなものが誕生する。
曰く、幾千の滅びの夜を迎え、かの月は空に輝き、新生の奇跡を起こす。
アーティエルトノアによって、失われた生命は循環し、この世界の秩序が保たれていた。
白銀の雪月花が降り注ぐ中、屍が積み重なり、時が止まったかのような死に満ちたその大地に、一つだけ動くものがあった。
一人の男が立っている。
蹂躙にも等しい圧倒的な破壊が行われたその場所に佇む、黒き王の装束を纏った彼は、悪名高き暴虐の魔王、アノス・ヴォルディゴード。
彼はゆっくりと足を踏み出し、滅紫に染まった魔眼で天を睨む。
すると、黒き暗黒がその場に一枚の板のような足場を作る。更に一段上に暗黒の板が現れ、その上にもまた一枚の板が現れる。
暗黒はみるみる階段を作っていき、それは夜空に輝く<創造の月>アーティエルトノアに続いていた。
魔王は夜空にかけられた長い闇の階段を上っていく。
<創造の月>は遙か遠く、地上の山が小石よりも小さくなっても、終わりはまだなお見えない。
時間にすれば、どのぐらいの時が経っていたか。
ゆうに七日が過ぎたように思えたが、まだなお、世界は夜のままだ。
<創造の月>が空に輝く限り、朝は来ない。
もう七日が経過したが、やはり白銀の月は遙かに遠い。
魔王が上り続ければ、彼が作った闇の階段に、雪月花が降り注いでいく。
その月明かりの化身である雪の結晶が、一際目映く輝いたかと思うと、十段ほど上に銀髪の少女の姿があった。
その髪は足のくるぶしまで長く伸び、その瞳は銀の輝きを秘め、その体には純白の礼装を纏っていた。
「帰って」
一言、少女はそう言った。
「断る」
そう口にして、魔王はまた階段を上り始めた。
しかし、どれだけ進んでも、その少女との距離は一向に縮まらない。
「目的は?」
「あの月を堕とす」
感情のない無機質な視線が魔王に突き刺さる。
「それはできない」
「不可能など俺は知らぬ」
魔王が言うと、少女の姿はふっと消えた。
気にせず、彼は階段を上っていく。
それから、七日が経過した。
再び目映く輝く雪月花が舞い降りてきて、銀髪の少女が姿を現した。
「あなたは、なぜ<創造の月>を堕としたい?」
「わからぬな。なぜ、そんなことを訊く?」
少女は無言で魔王を見つめた。
「朝になれば<破滅の太陽>が命を滅ぼし、夜が訪れれば<創造の月>が新たな命を生む。殺すために生み、生むために殺す。俺たちは、貴様らのおもちゃではないぞ」
「それは、この世の理」
「ならば、滅びよ」
驚いたように少女が目を丸くする。
「そんな理不尽がこの世の理だと言うのならば、いっそ滅んでしまえばいい」
「理が滅べば、秩序が滅ぶ。この世界も滅ぶ」
淡々と言葉を発する少女を、魔王は殺気を込めて睨む。
「優しいか、この世界は?」
その問いに、彼女は答えない。
あるいは、答えられなかったのかもしれない。
「守らなければならぬほどの世界か? 殺し殺され、滅び滅ぼされ、希望など、とうの昔に潰えた。ここは世界という名の巨大な拷問部屋だ。そのルールに従う限り、一切の光は当たらず、阿鼻叫喚だけが木霊する」
魔王は立ち止まり、高みから見つめてくる少女へ言った。
「名も知れぬ神よ。その頭蓋にとくと刻め。世界が滅びるという陳腐な脅しで、いつまでも貴様らの定めたルールに従う俺ではないぞ」
静寂を体に纏い、それを打ち破るように彼女は言った。
「ミリティア」
魔王が疑問の視線を向けると、続けて少女は言う。
「創造神ミリティア。この世界を創った秩序。あなたの名前は?」
「魔王アノス」
魔王は答えた。
「アノス」
それは、淡々とした口調だった。
「……世界は、優しくなんかない……」
雪月花を残し、少女は消える。
魔王は立ち止まったまま、その花を見つめた。
彼はなにを思ったか、歩き出そうとはしなかった。
考えを巡らせるかのように、遙か彼方の<創造の月>を睨み、その深淵を覗き、じっと立ちつくしていた。
一時間が経ち、四時間が経ち、一〇時間が経って、丸一日が経過した。
なおも微動だにせず、そこに佇む彼の前に再び月光のような雪月花が舞い降りてきた。
階段の上に、銀髪の少女が姿を現す。
ミリティアは感情のこもらぬ瞳で魔王の深淵を覗いた。
「ふむ。今回は早かったな」
「待っていたから」
すっとミリティアは、魔王を指さす。
彼が彼女を待っていた、という意味だろう。
「わかるのか?」
「わかる」
「なるほど。さすがは創造神だ」
魔王は背を向け、暗黒の階段に腰かけた。
頭上の<創造の月>へ向けていた敵意もなく、彼は眼下にある世界を眺めた。
ほんの少し憂いのある表情を浮かべながら。
ミリティアはそれを不思議に思ったか、階段を下りた。
二人の距離が初めて縮まった。
「訊きたいことがある」
背を向けたまま、魔王は顔だけをミリティアの方へ向けた。
「世界のこと?」
「お前のことだ」
ミリティアは僅かに目を丸くした。
「思えば俺も、神族を理解しようとしたことはなくてな。ミリティア、お前の想いを聞かせてくれ」
感情の伴わない声で、彼女は応えた。
「神は秩序。怒りも、悲しみも、優しさも、誇りも、わたしたちにはなにもない。ただ秩序として生じ、その役割を実行するだけ。この身は不滅、だから、生きてすらいない」
「想いはないということか?」
「不滅の存在に想いは不要。それは生者にだけ与えられた、生きるための権能」
無機質な声で、ミリティアはそう口にした。
魔王は視線を地上へやり、しばし考えた後に言う。
「神は不滅ではない」
確かな意志を込めた言葉だった。
「俺の眼前で、不滅の存在などありえぬ」
魔王は創造神へ、もう一度問いかけた。
「お前のことを聞かせてくれるか?」
無表情を崩さず、ミリティアは訊き返す。
「なにを?」
「なんでもよい」
しばらく、少女の姿をした神は口を閉ざした。
長い、長い、時が過ぎていく。
やがて、彼女は言った。
「妹がいる」
「ほう。仲はいいのか?」
「会ったことはない」
「なぜだ?」
「それが、秩序だから」
彼女がそう口にすると、東の空が赤く染まり始めた。
まもなく、長い夜が明けようとしているのだ。
「<創造の月>が消える。地上にいる時間は終わり」
「では、最後に一つ、聞かせてくれるか?」
ミリティアがうなずいた。
魔王は尋ねる。
「妹の名は?」
白銀に輝く夜空の月が消えていき、代わりに太陽が上り始める。
キラキラと光を反射する雪月花と化して、ミリティアはふっとその場から消えた。
妹の名をそこに残して。
月日は流れる。
地上の生命は変わりなく滅び、幾千万の命が失われていった。
その日から、七年後の夜だった――
空には再び<創造の月>が輝いている。
時が止まったかのような清浄な世界で、暗黒の階段が白銀の月にかかっていた。
そこを上っている者がいる。
暴虐の魔王、アノス・ヴォルディゴード。
彼が七日七晩歩き続け、山が小石ほどの大きさになった頃、白銀に輝く雪月花がひらひらとその階段に舞い降りてきた。
それは次第に輝きを増し、人の形を象る。
かつてと変わらない銀髪の少女の姿で、創造神ミリティアが姿を現した。
「ふむ、久しいな、ミリティア」
「七年ぶり」
ミリティアは階段を下りてくる。
「今日は土産がある」
魔王は懐から一枚の手紙を取り出し、少女に手渡した。
「妹からだ」
魔王がそう口にすると、ミリティアは手紙の封を切り、中から便箋を取り出した。
そこに描かれているのは魔法陣だ。少女がそっと手を触れると、彼女の頭の中に、言葉が再生されていく。
しばらくそれに耳を傾けていたミリティアが、ほんの僅かだけ微笑みを見せた。
「なんと書いてあった?」
じっと彼女はその瞳を魔王へ向けた。
「読んでない?」
「他人への手紙を読むわけにはいかぬ」
ミリティアは言った。
「わたしの魔王様によろしくって」
「ふむ。まあ、それを書いてもらうのには苦労したからな」
魔王が階段に腰かけると、ミリティアがその傍らに立つ。
「夢を見た」
「ほう。神でも夢を見るのだな」
ミリティアは首を静かに左右に振る。
「初めて」
「どんな夢だ?」
「神が転生した」
遙か地上へ想いを馳せるように、ミリティアは言った。
「どうなるのだ?」
「転生しても、秩序は秩序。神は神」
淡々と彼女は言葉を発する。
「だけど、夢では神が秩序以外の命になれた。わたしは、妹に、わたしのぜんぶを譲った」
「すべてを譲り、お前はどうした?」
じっと俺を見つめ、彼女は言った。
「わからない」
魔王は考え、そして問うた。
「では、どうしたかった?」
「冷たい世界の優しさになりたかった」
なにげなく、こぼれ落ちた創造神の言葉に、魔王は笑みを浮かべた。
「おかしい?」
「いや。我ながら愚かなものだと思ってな」
自嘲するように、彼は言う。
「神族にも様々な者がいるものだ」
「様々な秩序はある。命はない」
薄く笑い、魔王は問う。
「今宵は時間があるのか?」
「少し」
「では、七年前の続きを。朝が訪れるまで、語り明かそう」
白銀の月が輝き、雪月花が舞い落ちる夜。
空にかかる暗闇の階段の上で、創造神と魔王は、訥々と語り合っていた。
魔王と創造神の出会い。
なにを話したのでしょうね。