エピローグ ~魔王の記憶~
「姿勢を楽にせよ。立ちたい者は立ち、座りたい者は座るがいい」
俺がすっと片手を上げると、どこからともかく、音楽の調べが聞こえてきた。
弦楽器、管楽器、打楽器が調和のとれた華やかで流麗な音を奏でている。
「二千年後のこの世界で見つけた、素晴らしいものが一つある。この平和の式典に相応しい、美しく、そしてまるで風のように、つまらぬ憂いをなにもかも吹き飛ばしてしまう歌声だ」
両手を広げ、謁見台の両脇に魔法陣を描けば、溢れ出した光とともに八人の少女たちが現れた。
ファンユニオンの少女たちである。
皆、魔王学院の制服の上に、式典用の黒いローブを羽織っていた。
「紹介しよう。俺のために歌を捧ぐ、魔王聖歌隊の少女たちだ」
彼女たちは、ゆっくりと顔を上げ、目の前にいる大勢の魔族たちを見た。
数え切れないほど多くの視線が八人の少女に突き刺さったが、彼女たちは穏やかな微笑みを崩すことはない。
静かに、少女たちは声を発す。
それは魔法で拡声され、どこまでも遠く響き渡る。
「しばらく前に、あたしたちはアノス様のお母様とお話をしました」
「沢山のことを聞きました」
「アノス様が転生なさった直後のこと」
「アノス様が大好きな食べ物のこと」
「アノス様が大切にしているもののこと」
「この平和な魔法の時代を、アノス様がどんな目でご覧になっていたか。とてもよく理解できたように思います」
「暴虐と呼ばれた魔王様の、本当の姿を、この曲に込めて歌います」
「聞いてください。魔王賛美歌第五番『平和』」
元々はアノス様応援歌合唱曲だが、それでは少々格好がつかぬということで、公式の場では魔王賛美歌と名を改めた。
しかし、それで本質が変わるものではない。
城内で奏でられるオーケストラの伴奏が、魔法でミッドヘイズ中に響いていた。
優しく、愉快で、心弾む前奏が終わり、聖歌隊の少女たちは、すっと息を吸い込んだ。
歌が、始まる――
「――この右手に、剣はいらない――」
しんみりとした、穏やかで優しい曲調。
「――この左手に、盾はいらない――」
それは聴衆たちの胸にすっと入り込んでくる。
「――さあ、臆病な鎧を脱いで、たとえ魔法が使えなくとも、この名が過去に奪われたとしても。俺はただ――」
心に響くそんな調べが、
「一人の俺として、愛を胸に――」
この場にいる全員の心を虜にし、そして――
「なに一つこの身を♪ かざーることなく、あるーがままの♪」
「「「あるがままのっ♪」」
「あるーがままの♪」
「「「あるがままのっ♪」」
「す・が・たでー、きーみに会いに行くよー♪」
「「「ゼーンラゼラゼラ、ゼーラゼラ♪」」」
「「「ゼーンラゼラゼラ、ゼーラゼラ♪」」」
突然の転調。
合いの手のように入る、ゼーンラゼラゼラという謎の擬音。
それは、古代魔法語で、『心をかさね、一つになろう』という平和を象徴する意味があった。
「たとえば、この身に剣がなくとも♪」
「あるがまーまで十分さ♪」
「愛をつ・ら・ぬ・き、斬り・伏せるよぉー。剣を持たない――♪」
「「「あるーがままの♪」」」
「「「あるがままのっ♪」」」
「「ゼーンラゼラゼラ♪」」
「「「ゼーラゼラ♪」」」
「魔王っっ!!!! の魔剣~~~っっっ♪♪♪」
衝撃が、ディルヘイドを襲っていた。
しかし、かろうじて、かろうじてだが、彼らは厳粛な式典に相応しい、まだ神妙な顔つきをしていた。
だが、そこへ、歌のサビが容赦なくたたみかける。
「つらぬくーのは愛だー♪ 斬り伏せーるのはお前だー♪ 手ぇーと、手ぇーを取~りあぁってぇ、俺とお前がつーながれ~ばー♪」
「二つの愛がぁっ♪」
「「「あるーがままの♪」」」
「「「あるがままのっ♪」」」
「「ゼーンラゼラゼラ♪」」
「「「ゼーラゼラ♪」」」
「無限に増ーえるぅぅっ♪」
ある者は困惑し、ある者は険しい視線を向け、ある者は自らの膝を思いきりつねり、またある者は呆然とした。
反応は様々なれど、全員を一言で言い表すならばこうだ。
皆、撃沈していた。
くはは、と思わず、笑い声が漏れる。
相も変わらず、人を食った、なんとのどかな歌か。
やはり、平和はこうでなくてはな。
しかし、どうやら皆はまだまだ緊張していると見える。
ここは一つ、魔王である俺が率先して見せてやらねばなるまい。
俺は両手を掲げ、皆にこの歌の楽しみ方を教示するかの如く、歌の間奏に合わせ、リズムよく、しかし泰然と口を開く。
「ゼーンラゼラゼラ♪ ゼーラゼラ♪」
顎が外れそうになるほどに聴衆たちは大きく口を開き、目をこれでもかというぐらいに見開いていた。
俺は更に続けた。
先程よりも、腹に力を入れ、
「ゼーンラゼラゼラ♪ ゼーラゼラ♪」
すぐに続いたのは魔王の右腕、その忠誠心を発揮するかの如く、シンは鋭い視線を飛ばしながらも、言った。
「ゼーンラゼラゼラ♪ ゼーラゼラ♪」
それに、レノとレイ、ミサが続く。
謁見台の様子を見ていたメルヘイス、アイヴィスたち、七魔皇老が動き出す。
皆アゼシオンとの戦いに挑むときよりも、どこか緊張した面持ちだ。
これから、平和に挑まねばならぬからであろう。
「「「ゼーンラゼラゼラ♪ ゼーラゼラ♪」」」
そうして、今度は貴賓席の魔皇たちが、そろって、ゼーンラゼラゼラと声を上げ始める。
やがて、一人、二人と、聴衆たちがその言葉を発し始めた。
そして――
「――もしもお前が、剣を放せず――♪」
二番が始まる。
「――もしもお前が、盾を持つなら――♪」
それは先程とは、まるで違った意味で聴衆たちの胸をこじ開けようとする。
「――その、二つを俺が奪い、臆病な鎧を脱げるように。悲しい名を過去にぬぐい去ってやるから。俺はただ――」
無駄に心に響くそんな調べが、
「一人の俺として、愛を胸に――♪」
この場にいる全員の心を暴虐に奪い去っていき、そして――
「なに一つこの身を♪ かざーることなく、あるーがままの♪」
「「「あるがままのっ♪」」
「あるーがままの♪」
「「「あるがままのっ♪」」
「す・が・たでー、きーみに会いにいくよー♪」
次の瞬間、その声に、ミッドヘイズが揺さぶられる。
「「「ゼーンラゼラゼラ、ゼーラゼラ♪」」」
「「「ゼーンラゼラゼラ、ゼーラゼラ♪」」」
この場に集まった者たちによる大合唱だった。
万を軽く超える民たちが熱に浮かされたように声を上げる中、それに負けず、魔王聖歌隊は声を振り絞る。
「つらぬくーのは愛だー♪ 斬り伏せーるのは俺だー♪ 手ぇーと、手ぇーを取~りあぁってぇ、お前と俺がつーながれ~ばー♪」
「二つの愛がぁっ♪」
「「「あるーがままの♪」」」
「「「あるがままのっ♪」」」
「「ゼーンラゼラゼラ♪」」
「「「ゼーラゼラ♪」」」
「一つに重なるぅぅっ♪」
まだまだこのディルヘイドの統一は始まったばかり。
思想が違うものがいる。理想が違うものもいる。どうしても相容れないこともあるだろう。
だが、それでも、まずは皆で楽しむことから始めたい。
この平和の歌を歌って。
魔王として民を導くため、この場の全員を受けとめるかの如く、俺は両腕を広げた。
「ゼーンラゼラゼラ♪」
俺が言えば、
「「「ゼーラゼラ♪」」」
間髪入れず、ディルヘイドの民が、絶叫する。
「ゼーンラゼラゼラ♪」
魔王に続けと、言わんばかりに。
「「「ゼーラゼラ♪」」」
ゼーンラゼラゼラ、ゼーラゼラ――
心をかさね、一つになろう。
その言葉で魔族は一丸となっていく。
これはその始まりの調べだ。
皇族も混血もなく、剣も盾ももたずに。
臆病な鎧を脱ぎ捨て、あるがままに。
声を重ねるごとに、まるで俺たちはかつて抱いていた、わだかまりを捨てていくかのようだった。
少しずつ、ほんの少しずつではあるが、魔族は正しく、一つになっていく。
ゼーンラゼラゼラ、ゼーラゼラ。
ゼーンラゼラゼラ、ゼーラゼラ――と。
そんな平和の調べが、いつまでもミッドヘイズに響き渡っていた。
式典が一段落すると俺は一度、デルゾゲードの中へ戻った。
玉座の間を訪れ、玉座に座る。
遠くから響く魔王聖歌隊の歌と、民衆たちの声に耳を傾けながら、その場に手をかざす。
魔法陣を描き、そこに魔力を送った。
「おつかれさま」
ひょっこりと玉座の後ろから、ミーシャが顔を出す。
その隣にサーシャもいた。
「なんか、予想以上にあの歌が受け入れられて、ビビるわ……」
サーシャは心底疑問でならないといった表情を浮かべている。
「ふむ。それだけ人々が争いを望んではいなかったということなのだろうな」
「争いを望んでいなかったのは否定しないけど、絶対、みんななにかに取り憑かれてたでしょ」
きっぱりと彼女は断言した。
「それで、そんなところでなにをしていた?」
「待ってた」
ミーシャが言う。
「俺をか?」
こくりと彼女はうなずいた。
「アヴォス・ディルヘヴィアと戦ったときのことで、聞きたかったことがあったのよ。ほら、ちょうど今、あなたが魔法でなんとかしようとしている、アレのことなんだけど?」
「サージエルドナーヴェか」
天井に魔力を送れば、それが透明になり、空が見えた。
影と化している<破滅の太陽>がそこにあった。
理滅剣にするには少々時間がかかるため、まだあのままの姿なのだ。
とはいえ、それも、もうまもなく完了する。
「サージエルドナーヴェが輝いたとき、わたしたちは外にいた」
ミーシャが言う。
「どうして、無事だった?」
「アノスはあのとき、玉座の間にいたし、さすがにわたしたち全員を守る余裕なんてなかったわよね? それに、あれだけの規模の魔法なら、ミッドヘイズ中の魔族がやられてもおかしくなかったわ」
魔法陣に闇が立ちこめる。
天に浮かぶ<破滅の太陽>の影が一部欠け、反対に魔法陣の中心には影の剣の一部が姿を現した。
次第にサージエルドナーヴェは姿を消していき、やがて完全に消滅した。
俺の前に、一本の影の剣が現れていた。
「簡単なことだ。サージエルドナーヴェは、お前たちを敵とは見なさなかった。滅ぼすべき、アヴォス・ディルヘヴィアだけを滅ぼしたのだ」
「……うーん、それがわからないんだけど。なんでそんなことになるの? 破壊神はアノスの敵だったんでしょ」
「敵、と言えば敵だったな。アベルニユーを堕とさぬことには、救えぬ命ばかりだった。だが――」
言葉にしようとして、俺は口を閉ざしていた。
記憶の底に、意識を向ける。
「……なぜ、そんなことになるのか……か」
「どうかした?」
ミーシャが心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
「ふむ。これは少々、予想外だったな」
俺は立ち上がり、影の剣に手を伸ばした。
柄を握れば、理滅剣ヴェヌズドノアが姿をあらわにする。
「ミーシャ。二千年前に戻ったとき、イガレスを助けるための理滅剣が塔にあったのを覚えているな?」
こくり、と彼女はうなずく。
「理滅剣を操れる者はそうそういない。いったい、誰がと思っていたが、もしかしたら、答えは存外簡単なところにあったのかもしれぬ」
ぱちぱち、とミーシャは瞬きをした。
「つまり、俺が<時間遡航>で二千年前に戻ってくる可能性をふまえ、転生前に予めあそこに理滅剣を置いたのかもしれぬ」
「二千年前のアノスが、理滅剣を発動しておいたってこと? でも知らなかったんでしょ?」
「思い出せないだけかもしれぬ」
「……え?」
「現にアベルニユーのことを、俺は正確に覚えていないようだ」
理滅剣に魔法陣を描き、それをデルゾゲードに収納する。
「今回が初めての転生だ。すべてうまくいったものとばかり思っていたが、なかなかどうして、覚えていないことすら気がついていなかったとはな」
サーシャに問われ、具体的に答えようとするまで、まったく気がつかなかった。
俺は確かに破壊神アベルニユーをこの地に堕とし、デルゾゲードとした。
破壊神の秩序は、この世界の生ある者すべてにとって、脅威であるからだ。
しかし、戦った理由はそれだけではなかったはずだ。
あのとき、<破滅の太陽>が空に輝いたとき、それは俺とその仲間、このディルヘイドの魔族たちを決して傷つけはしない確信があった。
この魔眼でサージエルドナーヴェの深淵を覗いたが、確信を裏づけるように、その照準は偽の魔王にだけ向いていた。
だが、なぜだ?
その理由がどうしても、思い出せぬ。
「それって……?」
「まあ、なに、大したことではないがな」
だが、いくら自分に試すのは初めてだったとはいえ、俺が<転生>魔法を失敗したとも思えぬ。
一方で、記憶の一部が欠けているのは紛れもない事実だ。
では、いったい、なぜ転生は完全ではなかったのか――?
大きな謎を一つ残し、第四章は終わりです。
明日からは五章が始まりますので、よろしくお願いします。