噂と伝承
「無事……みたいだね……」
霊神人剣エヴァンスマナを構えたまま、レイが呟く。
「……ええ……」
その隣には、斬神剣を手にしたシンがいる。
彼もまた、空に向かい、神殺しの剣を構えていた。
二人の背後では、レノが床にうつぶせに伏せている。
彼女の胸の中には、ミサがいた。庇うように、床に押し倒した格好で、レノは彼女を抱いている。
あの瞬間、<破滅の太陽>サージエルドナーヴェが空に輝いたとき、三人は同時に動いていた。
そして、全員が咄嗟にミサの盾になったのだ。
「……大丈夫?」
優しい声で、腕の中の我が子にレノは言った。
ミサは呆然と彼女の顔を見つめながら、僅かにうなずく。
「……大きくなったね……」
レノがそっとミサの頬に触れると、彼女の涙がその指先を濡らした。
「……お母さん……ですか……?」
呆然と口にしたミサに、レノは慈愛に満ちた笑みを見せた。
「……うん、やっと抱きしめてあげられた……」
そう言って、ぎゅっとレノはミサを抱きしめる。
彼女の体が光に包まれ、薄く、透明になっていく。
フランの体を借りていられる時間は、もう幾許もないのだ。
「ごめんね。いつもすれ違ってばかりで……」
レノは瞳に涙を溜める。
「ごめんね。いつも、一緒にいてあげられなくて……」
咄嗟に、ミサは言った。
「……待って……。ま、まだっ」
その瞳から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「……まだ、だめですよ……ぉ……」
語尾が掠れ、言葉は涙に飲まれた。
「……逝かないで、もう少し……もう少しだけ……」
悲しげな表情で、レノは首を左右に振る。
彼女の姿がまた一段と薄くなった。
「だって、まだ……まだ……会ったばかり……で……あたし、ずっと……」
「愛してるよ、ミサ。ごめんね……」
レノの涙がポタポタとミサの頬を濡らす。
けれども、それは涙花に変わることはない。
母なる大精霊の力は、とっくに失われているのだ。
「……私はもう潰えたけれど、あなたはまだここにいる。きっと、アノスが助けてくれるから。きっと……可哀相な、あなたの半身と一緒にね……」
ぐっと涙を堪えて、それからレノは笑顔を浮かべた。
優しい、優しい、母親の顔を。
「……あなたを産んで、本当に良かった……」
ふっと光の粒子が立ち上り、それがミサのもとから去っていく。
シンがそれを見上げると、一瞬、光の粒は母なる大精霊の姿を象った。
「シン、ありがとう。さようなら。それから――」
レノが彼に手を伸ばす。
それをシンがそっとつかむと、ニコッと彼女は笑った。
「私は幸せだった」
「レノ」
一筋の涙をこぼし、シンは告げる。
「あなたを愛しています」
温かな風が吹き、光を運ぶように、ふっとレノの姿が消えていった。
シンの手の中に残されたのは、母なる大精霊の涙……彼が墓標に供えた、真っ白な一輪の涙花だ。
「……お母さん……」
とめどなく、ミサの瞳から涙が溢れ出る。
それは、ぽたぽたと頬を伝っては流れ落ち、床を塗らす。
「……お願い……します……フランッ……」
泣きじゃくりながら、ミサは声を発した。
「……もう一回、お母さんに会わせてくださいっ。できるでしょう? だって、今、できたんなら、もう少しぐらいいいじゃないですかっ……」
ミサは体を起こし、どこかにいるはずの愛の妖精に訴える。
まるで子供のように、ただ泣きながら。
それが、不可能だということがわからない彼女ではあるまい。
それでも、なお、悲しみは深かった。
「……もうちょっとぐらい……いいじゃないですかぁ……」
けれども、愛の妖精は現れない。
フランが体を貸してくれるのは一度きり。
その愛を伝え、自らがもう潰えたのだと認識するまでの間のみだ。
「無理は言わぬことだ、ミサ。アレにそれほど大きな力はない。できるのは、せいぜい悲劇に決着をつけることぐらいだろう」
ゆるりと歩いてきた俺を、ミサがすがるような目で見た。
「……アノス様……」
絞り出すように、ミサは言う。
「……あたしが、いけないんです……」
ポタポタと涙をこぼしながら、ミサは悲しみを吐露した。
「……あたしが産まれなかったら、お母さんは……潰えることはなかったんです……」
「それは違う」
「だって、なにが違うんですか……? あたしが産まれて、噂と伝承に背いたから、お母さんは死んじゃって……」
アヴォス・ディルヘヴィアとして目覚めたことで、ミサはあの二千年前の記憶を取り戻したのだろう。
「あたしが、いなかったら……」
「ミサ、俺が気休めを言ったことなどあったか」
「…………え?」
大粒の涙をこぼしながら、ミサは目を丸くする。
「レノが潰えたのならば、確かにお前が原因となったことは間違いあるまい。なにをどう言い繕ったところでお前の悲しみは癒されぬだろう」
呆然とミサは俺を見つめる。
「違うというのは、潰えてなどいないという意味だ」
「……本当ですかっ!?」
ミサが声を上げると同時に、シンがこちらに強い視線を飛ばす。
「ああ、だが、彼女を救う前に」
そう口にした途端、ミサの体から淡い光が漏れ始めた。
彼女に魔眼を向ければ、その体の根源が崩壊しようとしているのがわかる。
アヴォス・ディルヘヴィアから切り離され、半分だけとなった根源では、生き続けることはできない。
「お前を先に救わねばならぬ」
傍らに立つ勇者に、俺は言った。
「レイ」
彼は前へ出た。
「噂と伝承通り、ミサを霊神人剣で滅ぼすがよい」
驚きを隠せず、ミサは絶句した。
「説明してやりたいところだが、その時間もあまりない。お前の根源は今にも崩れ、滅びるだろう。覚悟はいいか?」
二人に問う。
レイとミサは顔を見合わせ、こくりとうなずいた。
「……信じています……」
レイがエヴァンスマナの切っ先をミサの胸元へ向ける。
神々しい光が彼女に向かって放出され、それが根源を浄化するかの如く、消し去っていく。
俺は指先を向け、同時に彼女の根源にある魔法陣を描いた。
光が弾けるように、一際大きくミサの体が輝いたかと思うと、次の瞬間、ふっとそれが消え去った。
ミサの姿は、影も形もなかった。
「暴虐の魔王の噂と伝承により生じた大精霊アヴォス・ディルヘヴィアが、ミサの根源の半分を形作っていた」
レイがこちらを振り向く。
後ろでシンが、俺の言葉に耳を傾けていた。
「アヴォス・ディルヘヴィアが滅びれば、ミサも生きていくことはできぬ。その二つはどうあがいたところで完全に切り離すことはできないからな」
霊神人剣でレイは彼女たちを二つに分けたが、それは永久にそのままにしておくことができるものでもない。たとえ二人になろうとも、ミサはアヴォス・ディルヘヴィアであり、アヴォス・ディルヘヴィアはミサなのだ。
「ならば、アヴォス・ディルヘヴィアを名が同じだけの違う精霊に変えれば、ミサは自らに宿る精霊の心と共存することができるだろう。噂と伝承が変われば、精霊はそれに応じて変わっていく。だが、ここで問題となるのは最初に生まれたときの噂と伝承に最も影響を受けてしまうということだ」
二千年前に行ったときに、レノから説明を受けたことだ。
たとえば遠い未来に、母なる大精霊レノは精霊の母ではない、という噂と伝承が広まったとする。それは、彼女が潰えるのと同義である。
精霊の根幹となる噂と伝承に矛盾する噂と伝承は、ただ精霊の寿命を縮めるのみだ。
「精霊は魔族や人間と違って、転生はせぬ。つまり、別人に生まれ変わるという概念がないのだ。だからこそ、その精霊に矛盾する噂と伝承はただ害としかならぬ」
皇族至上主義を掲げ、人間を恨む暴虐の魔王として生まれたアヴォス・ディルヘヴィアは、邪悪な存在として生き続けるしかない。
「それをどうにかできたとしても、今この世界に蔓延っている伝承と、まったく別物の伝承を作ろうとも、総量が絶対的に足りぬ」
イガレスに、アヴォス・ディルヘヴィアが心優しい精霊だったという噂を広めさせようとしても、元々の噂の方が遙かに量が多かっただろう。
一見八方塞がりのように見えるが、ミサを救う方法はある。
「ならば、どうするか?」
答えは思いついてしまえば、ひどく簡単なことだ。
「暴虐の魔王の伝承の続きを作ればいい。蘇った暴虐の魔王は、霊神人剣エヴァンスマナによって再び滅ぼされる。そして、アヴォス・ディルヘヴィアは転生する。聖剣の祝福を受け、半霊半魔ではなく、精霊ミサとして、元の姿を取り戻すのだ、と」
暴虐の魔王の伝承は、過去のことは語られているものの、未来はなにも決められていない。
精霊というのは転生しない生き物だが、暴虐の魔王は二千年後に転生するという噂と伝承により、生じている。
むしろ、それが最も人々に広まった伝承の根幹と言えよう。
ならば、暴虐の魔王が転生したとして、なんら噂と伝承に矛盾はない。
最後の転生でどうなるか、それはまだ起きていないことなのだから、誰も語りはしなかった。伝承を埋める隙間があるのだ。だからこそ、その伝承をイガレスに広めるように命じた。
使命を果たした、と彼は言った。
人間が暴虐の魔王への恐怖を感じれば感じるほど、エヴァンスマナによって、アヴォス・ディルヘヴィアが善なる精霊に転生するという伝承は強く支持され、長く残り続けるだろう。
そして、レイがミサを霊神人剣の祝福にて命を奪ったとき、俺は彼女に<転生>の魔法を使っていた。
「だが、元々転生しない精霊が、噂と伝承のみで転生を果たし、命を得られるかは定かではない。転生するということは、アヴォス・ディルヘヴィアではなく、新しい精霊が生まれるも同然だからだ」
シンの方向へ、俺はすっと手を伸ばす。
魔力を送れば、彼が持っていた白い涙花が宙を飛んで俺のもとへやってきた。
「涙花は精霊を生む。この花は大精霊レノが、シンとミサの幸せを願った涙から、生まれたものだ」
魔力を送れば、涙花は光の粒子に変わった。
「ここに蘇れ、潰えし、大精霊よ。二千年の時を経て、悲しみが、喜びに変わるときが来た」
悲しいときは泣かない、とレノは言った。
それでも、あのとき、どうしようもなくこぼれ落ちた涙は、この花を咲かせた。
光が、ゆっくりと人の姿を象っていく。
抱きしめ合う母子の姿を。
一人の姿がはっきりと実体化する。
その背には結晶のような六枚の羽。髪は清んだ湖のように蒼く、瞳は琥珀のように輝いている。
「……レノ…………」
シンが呟く。
「母なる大精霊は、魔族を生んだために自らの噂と伝承に背き、潰えた。だが、大精霊アヴォス・ディルヘヴィアは、今噂と伝承に従い、本来の精霊の姿を取り戻した」
アヴォス・ディルヘヴィアは半霊半魔ではない。
元々、ミサという精霊だったということに変わったのだ。
「ならば、もう母なる大精霊レノが潰える理由はどこにもあるまい」
レノが噂と伝承に背いた事実は、なかったことになった。
精霊は噂と伝承が潰えぬ限り、たとえ滅びようとも何度でも蘇る。
「……お母……さん……?」
レノが抱いた光が、その姿がはっきりと実体化する。
肩ほどまである癖のある栗毛の髪、くりくりとした大きな瞳の少女――ミサがそこにいた。
「ミサ……」
ぎゅっと抱きついてきたミサの頭を、レノが優しく撫でる。
ミサは嬉しそうに、涙をこぼした。
「……お母さんっ……お母さぁぁぁん……」
「……泣かないの……大丈夫。お母さんはここにいるよ、ミサ。これからは、ずっと……あなたのそばにいるから……」
そう言いながら、レノも涙を流していた。
悲しい涙とともに、咲いた涙花。
けれども、それは今、確かに喜びの花に変わったのだ。
「ふむ。これですべてか」
踵を返し、俺はこちらの様子を何気なく見ているエールドメードへ言った。
「お前の処遇は後だ。大人しくしていろ」
ニヤリ、と笑い、エールドメードは慇懃にお辞儀した。
<契約>がある以上、迂闊な真似はできぬだろうが、面倒な男ではある。
目の離さぬところに置いておく必要はあるだろう。
俺はそのまま静かにこの場を離れる。
多少の憂いは残ったが、しかし、取り返した。
心の底から願えば、必ず応えてくれるものだ。
たとえ、どれほど荒廃しようと、どれほど争いが蔓延しようと。
彼女が作ったこの世界は温かく、愛と希望に満ちている。
何度でも、それを俺が証明してやろう。
きっと、どこかで見ているのだろうからな。
なあ、ミリティア――
やっぱり、ハッピーエンドはいいものですね。
もうすぐ四章もエピローグを迎えます。