不適合者
アヴォス・ディルヘヴィアの根源が砕け散る。
だが、次の瞬間、その体内に<根源再生>の魔法陣が描かれ、それが再生された。
彼女の手が、弱々しく俺の腕をつかむ。
「……まだ、終わりではありませんわ……」
「勝ち目がないことがわからぬお前ではあるまい」
彼女はその両眼を禍々しく光らせ、ふっと笑う。
「わたくしは大精霊レノの実子にて、暴虐の魔王アヴォス・ディルヘヴィア。そして――」
アヴォス・ディルヘヴィアが、握った拳を開く。
そこには、赤い宝石があった。
ノウスガリアを封じ込めた、宝剣エイルアロウの宝石が。
「――あなたを滅ぼす、神の子ですわ」
赤い宝石を魔法陣が覆い、<封呪縛解復>の魔法が発動する。
直後、その赤い宝石が宙に浮かび上がった。
「蒙昧なる魔王に、神の知恵を授ける。神々の計画は絶対なり。アヴォス・ディルヘヴィアは定められた運命に従い、ここに目覚め、我が言葉を賜り、神の子となった」
宝石から、ノウスガリアの声が響く。
略奪剣で声を奪われていたはずだが、その理をヴェヌズドノアで滅ぼしたか。
「神の子は、定められた神の計画通り事を運び、そして、理滅剣を手中に収めた。かつてこの地に堕とされた、滅びの秩序、破壊神アベルニユーを」
徐々に赤い宝石に亀裂が入り、パリンッと音を立てて砕け散る。
淡い光を纏いながら、その場に姿を現したのは、ノウスガリアだ。
最早、神の体を維持することもできず、エールドメードの魔族の体に戻っている。
しかし、その顔はすべて思い通りと言わんばかりの傲慢さを見せていた。
「今こそ、目覚めのとき」
ノウスガリアは両腕を掲げる。
同時に、アヴォス・ディルヘヴィアが囁く。
「アノス・ヴォルディゴード」
彼女は、理滅剣を持った右手を僅かに動かした。
「……わたくしは未だに、すべてを掌握しております……」
言葉と同時、彼女はその剣を自らの胸に、その根源に突き刺していた。
アヴォス・ディルヘヴィアの魔力が、理滅剣に送られていく。
ゴ、ゴゴゴゴ、ゴオォォォッとデルゾゲードが震え始めた。
「かつて、暴虐の魔王は世界を破壊の秩序で照らしていた破壊神をこの地に堕とした。破壊神アベルニユーは、魔王城デルゾゲードと名を上書きされ、そして、その神の権能、破壊の秩序を凝縮した奇跡は、理滅剣ヴェヌズドノアと名を変えられた」
厳かに、謳うように、ノウスガリアは言う。
「なぜ、あらゆる死と破壊の元凶となった破壊神アベルニユーを、平和を求めた魔王は滅ぼさなかったのか。答えはあまりにも明快だ。破壊の秩序そのものであるアベルニユーを滅ぼし尽くすことは、暴虐の魔王と言えども不可能であったからだ」
理滅剣がこれまで以上に黒く、禍々しく、闇色に輝いていた。
「アノス・ヴォルディゴードは、苦肉の策として、破壊神アベルニユーの力を限定し、その方向を変えることで、破壊の秩序をこの世から奪った。そうして、あらゆる秩序、あらゆる理を滅ぼす、理滅剣という奇跡が生まれた」
ノウスガリアは掲げた両手をゆっくりと握る。
「だが、それはあまりにも愚かな選択だ。神の秩序を、永遠に形を変えたままにしておくことなど不可能なのだから。秩序はやがて、本来の理を取り戻す。そのとき、いったいなにが起きると思う?」
問いかけるように言い、ノウスガリアはそれに自ら答えた。
「行われなかった破壊の反動が押し寄せる。堰き止められた川の水がやがて堤防を決壊させるかのように。破壊神の力を奪い、君は世界を救済したと思ったのかもしれないが、ただ問題を先送りにしたにすぎない」
事実を突きつけるように、ノウスガリアは高らかに声を上げる。
「否、秩序を押さえつけていた年月の分だけ、その力は桁外れに膨れあがる」
ノウスガリアの魔眼が仄かに赤く輝き、俺を視線で射抜く。
「暴虐の魔王の噂と伝承を持つアヴォス・ディルヘヴィア。それは君を倒すためではなく、その膨大な魔力で破壊神アベルニユーを目覚めさせるためにある」
ほぼすべての魔力を使い果たしたか、ガタッと音を立て、アヴォス・ディルヘヴィアが仰向けに倒れた。
突き刺さった理滅剣がひとりでに抜け、ゆっくりと宙に浮かび上がる。
闇色の剣の輪郭がぐにゃりと歪み、禍々しい魔力の奔流とともに、球状を象っていく。
「さあ、天を仰ぎ見よ、愚かなる者たちよ。神話の時代、あらゆる死と破壊をもたらした破壊神の奇跡、<破滅の太陽>サージエルドナーヴェが、今ここに蘇るっ!」
激しい魔力の余波に耐えきれず、デルゾゲードの天井が吹き飛んでいた。
見上げれば、夜空には月が浮かんでいる。
その反対側に、一つの巨大な影があった。
雲一つ無いそこに、星の瞬きに照らされ、太陽の影が出現していた。
黒い粒子が、その周囲に集い始める。
うっすらと月が消えていき、昼と夜が反転するように、空が明るくなった。
太陽の影は一段と濃く、禍々しく空を彩っている。
「秩序を示せ、暴虐の魔王を滅ぼす神の子アヴォス・ディルヘヴィア。その理に従い、二人の暴虐の魔王を滅ぼすがいい。ありとあらゆる命とともに!」
大空の巨大な影が反転し、そこに闇色の日輪が姿を現す。
<破滅の太陽>サージエルドナーヴェ、その黒き滅びの光が、冷たい死の匂いを漂わせ、デルゾゲードに降り注いだ。
「二千年以上もの間、汝が歪め続けた破壊の秩序、サージエルドナーヴェの光に抱かれ、その大罪を償え、暴虐の魔王よ」
玉座の間一帯が、滅びの光に包まれる。
すべてを消し去り、すべてを滅ぼす、<破滅の太陽>サージエルドナーヴェの黒陽であった。
「秩序を守らぬ者が、秩序を乱す者が、世界に滅びをもたらすのだ。アノス・ヴォルディゴード、君が愚かにも神に背かなければ、アヴォス・ディルヘヴィアは生まれなかった。神殺しの凶剣も、母なる大精霊も、平穏に暮らしていたことだろう。君は神を蔑むが、神は秩序だ。そこには意志も心もない」
世界が闇色の光に埋め尽くされる中、ただノウスガリアの声だけが響いた。
「ただ物が落下するかの如く、ただ根源が輪廻するかの如く、神はただ秩序であり続ける。ならば、この顛末を引き起こしたのは、君だ、アノス・ヴォルディゴード。神はなにも行わない。いつでも、悲劇を引き起こすのは、愚かな生者の仕業なのだ」
光の静寂が辺りを飲み込み、まるで時が止まったかのようだった。
<破滅の太陽>サージエルドナーヴェの黒陽が、段々とその輝きを弱め、玉座の間は、徐々に色を取り戻していく。
「最後に結びの言葉を授け、長き舞台の幕を下ろそう。滅びとは、神の救済だ。滅びるべきものが滅びなければ、後に続くものが誕生しない。自らの私利私欲で、それを歪めたのが、そもそもの間違い。因果応報である」
「ほう」
傲慢なノウスガリアの表情に、険しさが浮かぶ。
「自らは関係がないと傍観者を気取り、安全なところから必死に生きる者を嘲笑っては、虐げる。あまつさえ、この二千年の間に起きた悲劇の責任を、他者になすりつけるか」
その声に、ノウスガリアは絶句した。
彼は驚愕の表情を浮かべ、視線を泳がせる。
「そんな神ならば、この世にいらぬ」
次第に闇色の光が晴れ、その場の光景があらわになった。
「…………な…………………………」
俺の顔を見て、ノウスガリアは固まった。
俺だけではない。シンもレイもミサもレノも、この場にいる誰一人、<破滅の太陽>で傷一つ負っていないのだ。
それはミッドヘイズにいる民全てがそうだった。
<破滅の太陽>で滅びたのは、アヴォス・ディルヘヴィアだけだ。
「…………ありえない…………」
「破壊神ならば、俺を滅ぼせると思ったか」
「……神の秩序は絶対だ。破壊を司る神が、魔族一人滅ぼせないわけがない……こんなことは、ありえない……あってはならない……」
半ば動転したかのようにノウスガリアは繰り返す。
ありえない、と。
「貴様ら神は、秩序に従う。破壊神はあらゆるものを滅ぼすことができる。確かに、それが貴様ら神の定めた秩序だ。だが、俺はそんなものには従わぬ」
<破滅の魔眼>を向ければ、奴は浮いていられず、地上に足をついた。
「つまり、貴様ら神の計画は最初から破綻していたのだ。神は秩序ではない。貴様らは、世界の管理者を、秩序を気取っているだけだ。もしも、神が真に秩序だというのならば、俺が生きているわけがないのだからな」
「…………滅びないわけがない……」
「認めよ。これが現実だ」
「……君がいかに逸脱していようと、他の魔族たちまで、守りきれるはずがない。滅びの秩序は絶対だ……」
一歩、俺は足を踏み出す。
ノウスガリアはその場から動かず、その両眼をただ俺に向けている。
「……神が……破壊神アベルニユーが、君に味方したのか? それとも、理滅剣に封じない状態でさえ、破壊神の秩序を君が完全に支配しているのか……?」
「さて、単純に俺が強すぎるだけかもしれぬぞ」
もう一歩、俺は歩を刻む。
びくんっ、とノウスガリアの体が震えた。
「秩序が俺を恐れるか」
「……ははっ……」
ノウスガリアが乾いた笑声をこぼす。
「神は恐れなどしない。心も意志もなく、この身はただ一つの秩序だ」
「ならば、とっとと退くがいい。新しい計画でも立ててくるのだな」
「そうさせてもらうよ」
二つの魔眼をノウスガリアに向け、俺はまっすぐ歩いていく。
しかし、奴はその場から動かなかった。
「…………な、んだ…………?」
天父神が困惑したような表情を見せた。
「……ありえない……なにをした……? 動かない……なにをしている……?」
俺が答えぬままでいると、繰り返して、奴は言った。
「なにをしている? なにをしているっ、暴虐の魔王っ!?」
「わからぬか、ノウスガリア」
また一歩、俺は歩を刻む。
奴の体は地面に根を張ったかの如く、まるで動かなかった。
「それが恐怖だ」
息を飲み、目を丸くしてノウスガリアは俺を見つめる。
その視線は脅えており、その足は完全に竦んでいた。
「……神に恐れなど……ない……神は不滅なり……ゆえに、心など……」
身動き一つ取ることができず、天父神がガタガタと震える。
俺は容易く奴の前まで歩いていき、その指を胸元に当てた。
「……君は私を滅ぼすことはできない……秩序を生む秩序。天父神を滅ぼせば、世界は崩壊の一途を辿るのみだ……」
「ふむ。確かにな」
「……ははっ」
ノウスガリアが安堵したかのように声を漏らす。
それを嘲笑うかのように、俺は言った。
「などと口にすると思ったか」
途端に絶望的な表情になり、ノウスガリアは絶句する。
その目は、まるで奈落に堕ちたかのようだった。
「どうした、ノウスガリア? 心などないというならば、滅びなど恐れはしまい。それとも、秩序であるお前が生きたいとでも言うつもりか?」
天父神を滅ぼせば、世界は崩壊の一途を辿る。
だが、そんな秩序は、俺の前ではなんの意味も持ちはしない。
たった今、破壊神の秩序さえ、滅ぼしてみせたのだからな。
「笑ってみよ」
「……な、に……?」
「この状況で笑えたならば、貴様は秩序だ。悪意はあるまい。それなりの対処はさせてもらうが、滅ぼしはせぬ。だが、もしも俺を恐れ、笑えぬというのならば、捨ておくことはできぬな」
ノウスガリアは色をなくした瞳で俺を見つめている。
「三秒数えよう。その間に秩序を示すがよい。三」
言葉も出ぬ様子でノウスガリアはぐっと奥歯を噛む。
「二」
険しい視線で、奴は俯いた。
「一」
はっと息を吐き出し、奴は声を振り絞る。
「……は、ははっ……」
確かに、ノウスガリアは笑みを見せた。
「そうか。笑ったな、ノウスガリア」
俺は言った。
「生きたいということか。貴様は秩序などではないと自ら証明したようだな」
一瞬絶句した後、ノウスガリアは腕を振り上げる。
その顔は、憤怒の表情を浮かべていた。
「……おの、れぇぇっ…………!!!」
奴の手刀を軽く躱し、その腹部を貫いた。
「……か……ぁ……」
神の根源をぐっとつかみ、俺は言った。
「契約だ、熾死王。貴様が俺に逆らわぬと言うのならば、望みのものをくれてやろう」
<思念通信>と<契約>を根源の奥へ飛ばすと、エールドメードから返事があった。
『その言葉を待っていたぞ、魔王アノス』
ノウスガリアの根源に、魔法陣を描く。
「……な、なにを……するつもりだ、暴虐の魔王……?」
脅えた瞳で奴は言う。
「大したことではない。天父神の秩序を滅ぼせば、世界が崩壊する。それは面倒なのでな。貴様の神の力を全て、熾死王に渡すまでだ」
「……神の力は絶対……その秩序を、矮小な魔族に移すなど……」
「ふむ。気がつかなかったのか? 二千年の間、エールドメードは神の力を簒奪する魔法術式を自らの根源で練っていた。もっとも、まだまだ不完全な状態だが、すでにくさびは打ち込まれている」
シンと戦っている間、ノウスガリアの根源の底を覗き、エールドメードが開発中だった魔法術式を解析した。
「あとはそれを完成させればいいだけの話だ」
「……愚かな……愚かな男だ……。神の力を、簒奪しようとは……!! 裁きが下る……秩序の裁きが……」
「貴様は虫けらにでも変えてやろう。未来永劫、何度転生しようともな」
「……な…………」
「楽しいぞ、心があるというのはな。秩序などという無味乾燥なものよりも、虫けらの方がよっぽど刺激的な生だ。無論、多少は辛いこともある」
体内に構築した魔法陣に魔力を送り、ノウスガリアから神の秩序を簒奪し、それをエールドメードへ移動させる。
「……秩序が……乱れ……愚かな……おの、れぇ……」
腹の底から湧き出たような、激しい怒り。
とても秩序とは思えぬ感情が、ノウスガリアの言葉に表れていた。
「おのれぇ……おのれぇぇぇ……おのれぇぇぇぇぇっ!!」
絶叫するように彼は言った。
「……おのっれぇぇぇぇぇぇっ!! 世界の理から……秩序から、外れた……不適合者めぇぇっ……!!」
「ふむ。ずいぶんと虫けららしいことを言うようになったものだ」
奴の言葉には取り合わず、神の力を奪う魔法を続ける。
「……後悔しろ。後悔するがいいっ、アノス・ヴォルディゴードッ! 君が理を乱すのだ。神に心があるのではない。君が神に感情を植えつけ、秩序を乱しているだけなのだ! 君はやがて、世界を滅ぼし、破滅へと導くだろう。神の預言は、ぜった――っ!!」
ノウスガリアの体が光に包まれる。
次の瞬間、それが膨れあがるように弾けると、その根源は二つに分かれていた。
カッカッカ、と高笑いが聞こえた。
熾死王が目の前にいた。
「さすがではないか、魔王アノスッ! <秩序簒奪>の魔法術式をあっさりと完成させ、神の力さえ容易く簒奪してみせるとは、それでこそ、この熾死王が認めた絶対なる王者だ!」
上機嫌に言葉を放ちながら、熾死王エールドメードは足を上げ、その場から逃げ出した、一匹のゴミ虫を踏みつぶした。
次は良い虫けらに生まれ変わりますように……。