魔王の真贋
「愚かなことをなさいますわ、勇者カノン」
刻一刻と存在の薄れていく体で、それでもアヴォス・ディルヘヴィアは優雅に微笑した。
「その聖剣をこの胸に突き刺すことが、あなたにできますの? わたくしが消えることを、あなたは黙って見ていられますの?」
ゆっくりとその細い指先を、アヴォス・ディルヘヴィアはミサへ向けた。
「霊神人剣が宿命を断ちきり、わたくしを精霊に、彼女を魔族に分かとうとも、その根源が増えるわけではありませんもの。あなたがおっしゃった通り。一つの根源が二つに分かれれば、長くは生きられないでしょう。それは、ミサも同じことですわ」
サーシャとミーシャのときと同じだ。
半身を失った二人は、やがて消滅する運命にある。
「カノン。世界を救うために、自らを犠牲にし続けた哀れな勇者。あなたは今度は、世界のために、愛する者まで犠牲になさいますの?」
その言葉に、レイは応えず、ただじっとアヴォス・ディルヘヴィアを見返した。
「ミサ。戻っていらっしゃいな。わかっているでしょう? わたくしはあなたで、あなたはわたくし。そのままでは、わたくしとともに、あなたも滅びますわ」
ミサは強い視線を偽の魔王へ向け、はっきりと言った。
「それが、なんですか」
思いもよらぬ回答だったか、アヴォス・ディルヘヴィアが表情を険しくする。
ミサは続けて、彼女に言う。
「あなただって、わかっているでしょう。あたしは、混血と皇族が、正しく手を取り合えるように、正しく魔族が統一される日を夢見て、今日まで生きてきたんです。あたしはあなたを絶対に許しません」
ミサは、アヴォス・ディルヘヴィアを強く糾弾した。
「そんなものは、仮初めの人生ですわ。あなたは精霊として、暴虐の魔王の噂と伝承に従い生きるべくこの世に誕生しましたの。二千年もの間培われたその想いに比べ、あなたのその信念はたった一五年ばかり。あまりに脆弱ですわ」
「仮初めなんかじゃありませんよ。脆弱なんかじゃありません」
強い信念を持って、ミサは返答した。
「あたしには、一緒に、理想を誓い合った統一派の仲間たちがいます。決して、理不尽には屈しない本物の魔王がいます。それから、きっと――」
僅かに視線をそらし、ミサは遠くで死闘を繰り広げるシンの背中を見た。
「あたしに会える日を待っていてくれる、父が」
それに、と彼女は続ける。
「大好きな人がいます」
「よく考えなさいな、お馬鹿さん。あなたを愛する人が、本当にあなたを滅ぼそうとするかしら? ほんの僅かでも、あなたが滅びる可能性のある選択をするかしら?」
ミサの動揺を誘うようにアヴォス・ディルヘヴィアは、そう問いかける。
「いいえ、愛しているならできませんわ。カノンは二千年前の勇者のまま、ただ世界を救おうとしているだけ。わたくしを愛していないように、彼はあなたのことも、決して愛してはいませんの」
だが、ミサはまったく動じず、言葉を返した。
「あなたが言っているのは小さな愛ですよね」
苛立ちをあらわにするように、アヴォス・ディルヘヴィアがミサを睨む。
「命が助かれば、それでいいなんて、あたしは思ったことはありません。生きているっていうのは、あたしが、あたしらしくあることですよ」
ぎゅっとレイにしがみつき、ミサは自らの半身へ告げる。
「だから、レイさんは助けてくれたんです。ほんの少しでも、あたしが混血のみんなを虐げる姿を見ていられなくて。誰よりも人を傷つけたくない彼が、あたしのために、あたしを傷つけてくれた」
彼女を拒絶するように、ミサは大声で言った。
「そんな単純な、こんなに簡単なレイさんの想いすらわからないあなたは、これっぽっちもあたしじゃありませんっ!」
示し合わせたかのように、レイとミサは同時に地面を蹴った。
手の平をかざし、<獄炎殲滅砲>の照準をレイに向けたアヴォス・ディルヘヴィアは、しかし、次の瞬間に視線を険しくした。
レイの盾になるかのように、ミサが立ちはだかったのだ。彼女の魔力は弱い。レイにダメージを与えるほどの魔法を放てば、死は免れないだろう。
ミサを滅ぼせば、彼女も滅ぶ。
アヴォス・ディルヘヴィアに生じた一瞬の躊躇を逃さず、レイは偽の魔王に接近を果たしていた。
血が剣を伝う。
エヴァンスマナがアヴォス・ディルヘヴィアに突き刺さっていた。
「……ぁ…………」
赤い血と共に、か細い声が、彼女の口からこぼれ落ちる。
霊神人剣の放つ光に、偽の魔王の体が包まれていく。
そして――完全に消滅した。
「レイさんっ……!?」
悲鳴を上げるように、ミサが彼の名を呼んだ。
漆黒の太陽が、レイの真後ろに迫っていた。
「……ふっ……!」
霊神人剣で<獄炎殲滅砲>を一刀両断すると同時に、その視線を遠くへ向ける。
「根源を滅ぼしたからといって、わたくしが滅びるとお思いですの?」
アヴォス・ディルヘヴィアがそこにいた。
霊神人剣で一度倒された噂と伝承を持つ彼女は、<根源再生>で蘇ることができたのだろう。
「そうだろうとは思ったけどね。だから、君の根源を半分にした」
「あら? でしたら、残念でしたわね」
にっこりと彼女は微笑する。
その瞬間、周囲の壁に浮かんでいた魔法文字が一気に数を増した。
「掌握しましたわ」
黒い光の粒が立ち上り、室内を満たしていく。
「いらっしゃいな、ヴェヌズドノア」
その呼びかけに応じ、室内を満たす無数の黒い粒子、その一切が彼女の足元へ集中した。
出現したのは、剣の形をした暗い影。
それを投影している物体はなく、ただ影のみが存在している。
その影の剣は、アヴォス・ディルヘヴィアの手に、ゆっくりと浮かび上がってきた。
彼女が、柄を手にする。
途端に、影が裏返るかの如く、闇色の長剣が偽の魔王の手中に現れる。
「わたくしの眼前の理は、その一切が破滅する。半分だけの根源になったとて、この身が滅ぶとお思いですの?」
「さあ、どうだろうね。少なくとも、理滅剣を手にしている間だけの、仮初めの命じゃないかな?」
霊神人剣を構え、レイはミサとその手をつなぐ。
二人の全身に愛の光が溢れ出た。
<聖愛域>。
愛が極限まで昇華され、その光がレイの能力を限界まで引き上げる。
「すべては無駄なことですわ」
ゆっくりとアヴォス・ディルヘヴィアが歩を刻む。
一歩、二歩――
三歩目で大きく彼女が前へ跳んだその歩法を完全に見切り、偽の魔王の視界からレイの姿が消えていた。
次の瞬間、アヴォス・ディルヘヴィアの背後を取ったレイは、間断なく、エヴァンスマナでその心臓を貫いていた。
「霊神人剣、秘奥が一――」
純白の剣閃が、アヴォス・ディルヘヴィアを斬り裂く。
「――<天牙刃断>ッ!!」
ゆっくりと彼女は振り向き、理滅剣ヴェヌズドノアを一閃した。
後から放った刃が、因果を逆転させるかの如く、<天牙刃断>を斬り裂いた。
同時に、レイの胸元がぱっくりと斬り裂かれ、夥しい量の血が溢れ出す。
がくりと膝を折った彼は、霊神人剣を支えになんとか堪えた。
「先に斬った方が、早いとお思いでしたか?」
至近距離でレイを見下し、アヴォス・ディルヘヴィアは嗜虐的に微笑する。
彼女はそのまま彼にとどめはささず、まっすぐミサの元へ向かった。
「そこでじっと見ていなさいな。愛しい恋人が、今度こそ消えてなくなるのを」
ゆるりとアヴォス・ディルヘヴィアは歩いていく。
ミサは一歩後ずさり、ぐっと身構える。
その表情には決死の覚悟が滲んだ。
「さようなら。仮初めのわたくし」
彼女の手元に魔法陣が一門描かれ、そこに漆黒の太陽が出現する。
それを理滅剣で押し出せば、目にも止まらぬ勢いで<獄炎殲滅砲>が射出された。
ゴオオオォォォッッッと禍々しい音を立て、黒き炎が燃え上がる。
まともに食らえば、骨も残らぬほどの火力だろう。ミサは一瞬の内に灰になり、その根源を吸収される――
まともに食らえば、の話だがな。
「ふむ。ようやく本気を出したか、アヴォス・ディルヘヴィア」
黒き炎が弾け飛ぶ。
アヴォス・ディルヘヴィアの視線が捉えたのは、ミサの前に立つ俺の姿だ。
「だが、少々遅かったな、あちらは決着がついた」
偽の魔王は俺の言葉で、視線を僅かにずらした。
宝剣エイルアロウで、封印されたノウスガリアの宝石が床にあった。
ふふ、とアヴォス・ディルヘヴィアが笑声をこぼす。
「ふふっ、あはは、あははははははっ。決着? 遅かった? なにを血迷っているのかしら? 天父神が封印されれば、もうそれで終わりだとでもお思いでしたの?」
彼女はヴェヌズドノアを俺に向け、言った。
「残念ながら、魔王はわたくしですの。アノス・ヴォルディゴード。チェックメイトには、気が早いのではなくて?」
「言ったはずだ。あいにく俺はチェスのルールなど知らぬ」
「あら、そうですの」
ゆっくりとアヴォス・ディルヘヴィアは俺のもとへ歩いてくる。
「すべての理が滅ぶ、理滅剣ヴェヌズドノア。あなたを暴虐の魔王たらしめている、最大にして最強の魔剣は今この手に」
嗜虐的な微笑を浮かべ、彼女は言う。
「最初に申し上げたはずですわ。あなたはすべてを奪われたのです。名を奪われ、配下を奪われ、城を奪われ、そして今、あなたの力の象徴さえも奪われました」
ぴたりと立ち止まり、彼女は理滅剣を下段に構える。
「ただのアノス・ヴォルディゴードが、暴虐の魔王であるわたくしに、勝てるとお思いですの?」
「棒きれ一本手中に収めた程度で、大層な自信だな、アヴォス・ディルヘヴィア」
アヴォス・ディルヘヴィアは余裕の笑みで応じた。
「あら? あなたこそ、自信があるのでしたら言葉ではなく、力で示しなさいな」
その魔眼が、俺を鋭く睨む。
「一瞬で終わらせてさしあげますわ」
ゆるりと前へ歩を刻み、俺は軽く言った。
「試してみよ」
互いに<破滅の魔眼>を向け合い、視線と視線を交錯させる。
文字通り、視線の火花が散っていた。
魔力が極限まで高まり、噴出されるその余波で、ガタガタとデルゾゲードが震撼している。
睨み合うだけで、玉座の間の柱が吹き飛び、天井が崩落する。
壁という壁に穴が空き、崩れた天井の大きな塊が、俺と奴の間に落下した。
視界が塞がる。
その瞬間、魔王と偽の魔王は、同時に一歩を踏み出していた。
奴が放った<獄炎殲滅砲>を、同じく<獄炎殲滅砲>で迎え撃つ。
天井の巨大な瓦礫と共に、二つの漆黒の太陽は相殺され、続いて放たれた<魔黒雷帝>を<四界牆壁>で弾き返す。
反射し、自らに向かってきた黒き稲妻をアヴォス・ディルヘヴィアは<破滅の魔眼>で打ち消し、なおも奴は前進する。
周囲に魔法陣が浮かび、出現した<獄炎鎖縛魔法陣>が俺の四肢を縛ろうとするも、それを<森羅万掌>でつかみ、引きちぎる。
ゆるりと歩を進めた俺と奴は、互いの手が届く距離まで接近を果たした。
互いに手を漆黒に染め、<根源死殺>の突きを繰り出す。
俺がアヴォス・ディルヘヴィアの指をつかみ上げたそのとき、理滅剣ヴェヌズドノアが振りかぶられていた。
それに魔眼を向け、振り下ろされた刃をわしづかみにする。
ニヤリ、と勝利を確信したかの如く、アヴォス・ディルヘヴィアが笑った。
「<破滅の魔眼>を使えば、防げるとお思いでしたの?」
理滅剣に魔力が集中し、その刃がすべての理を滅ぼしていく。
<破滅の魔眼>も、<四界牆壁>も、ヴェヌズドノアの前には、薄い紙ほどの守りにすらならぬ。
ただ滅べ。
それこそが、かの魔剣、かの魔法に刻まれた、唯一にして絶対の理。
「……が……は……ぁ……」
呻き声が漏れた。
漆黒に染まったこの手が、<根源死殺>の指先が、アヴォス・ディルヘヴィアの根源を貫いていたのだ。
「……………………………………な、なぜ………………」
苦しげに、奴は声を発した。
「……なぜ……ですの……?」
血を吐きながらも、疑問で仕方がないといった風に。
「ヴェヌズドノアは、確かに……この手に、掌握し――」
「理滅剣を掌握すれば、俺に敵うと思ったか」
アヴォス・ディルヘヴィアが、滅紫に染まった俺の魔眼を見つめる。
その深淵の底を、深く、深く――
「……どうして……見えませんの……。あなたの底が……。わたくしは、暴虐の魔王ですのに……」
「それが答えだ。所詮は噂と伝承にすぎぬ」
黒き滅びの右手にて、奴の根源を握り潰す。
がくん、とアヴォス・ディルヘヴィアの力が抜けた。
「お前は贋物だ、アヴォス・ディルヘヴィア」
理滅剣とて、滅ぼせない理がある――