その宿命を断ちきるために
僅かに時は戻り、ちょうど、シンとノウスガリアが対峙した頃――
玉座の間の反対側で、レイはアヴォス・ディルヘヴィアと向かい合っていた。
レイは鋭い視線を発し、偽の魔王の一挙手一投足を警戒する。
彼女はふんわりと微笑した。
「どちらが相手でも構いませんわ。けれど、カノン、あなたにわたくしと遊べるだけの力が残っていますの?」
偽の魔王は、輝きを失ったレイの聖剣を指さす。
「霊神人剣エヴァンスマナは、神の祝福を受けた聖剣。天父神の言葉の前に、今、その剣は本来の力を失っていますわ。つまり、もうそれはわたくしの弱点ではなくなったということ」
僅かに顔をこちらへ向け、アヴォス・ディルヘヴィアは言った。
「アノス。あなたが手を貸してあげた方がいいのではなくて?」
「構ってほしいのはわかるが、あいにくと俺も忙しくてな。なに、心配するな。理滅剣を持たぬお前では、どのみちレイには勝てぬ」
言いながら、俺はシンと交戦中のノウスガリアの深淵を覗く。
深く深く、底へ潜るように魔眼を向ければ、奴に体を乗っ取られた熾死王エールドメードの根源がそこにあった。
ふむ。思った通りだな。
「アヴォス・ディルヘヴィア」
レイが静かに言葉を発する。
「ミサを返してもらうよ」
地面を蹴ったレイに、<聖愛域>の光が纏う。
ぐん、と加速した彼は一直線に偽の魔王へと駆けた。
「……はぁっ……!!」
<聖愛域>を纏ったエヴァンスマナをレイが上段から振り下ろす。
アヴォス・ディルヘヴィアは、右手に纏わせた<四界牆壁>を盾にそれを防ぐ。
聖剣が<四界牆壁>に触れた瞬間、それは跳ねるように軌道を変えた。流れるような動きでレイの体がくるりとその場で回転し、偽の魔王の左半身を薙ぐ。
それを、彼女は左手の<四界牆壁>で防ごうとする。
しかし、再び聖剣が跳ねて、軌道が変わる。
光速の刺突が、アヴォス・ディルヘヴィアの左胸に直撃する。
「その聖剣は力を失っていると言ったばかりですわ」
渾身の力を込めたエヴァンスマナは、しかし、アヴォス・ディルヘヴィアの左胸に刺さっていない。
その体の表面に薄く纏った闇のオーロラ、<四界牆壁>が、それを阻んでいたのだ。
「二千年前からあなたの戦い方は変わりませんわね、勇者カノン」
彼女は黒く染まった両手の指先を、そっと撫でるようにレイの両胸に沿わせる。そして、その体を同時に貫いた。
「……ぐぅ……」
「これで、二つ。先程の一つと合わせれば、合計三つ。分身に与えた根源はノウスガリアがすでに片付けました。あなたの根源は残り一つですわ」
<聖愛域>が、更に激しくレイの体から立ち上り、それが霊神人剣に集う。
だが、それでも、アヴォス・ディルヘヴィアを貫くことはできなかった。
「無駄ですわ。いくら勇者の奥の手でも、力の衰えた聖剣で斬れるこの身ではありませんもの。諦めなさいな」
「……約束、したからね……」
その言葉に、偽の魔王は視線を険しくする。
「なんの話ですの?」
「……もしも、彼女が、重たい運命を背負っていたら、絶対に力になるって。どこにいても、なにをさしおいても、助けに行くと僕は言った……」
それを耳にし、アヴォス・ディルヘヴィアは嗜虐的に微笑む。
「それなら、もう一度よく考えなさいな。あなたがわたくしのものになれば、きっとわかるはずですわ。ミサとわたくしは、溶けて混ざった水のようなもの。わたくしを滅ぼせば、あなたの目的は永遠に果たせなくなるでしょう」
「じゃ、君のものになるよ――」
偽の魔王が笑みを見せた瞬間、レイはくすりと笑った。
「――なんて言うと思ったのかな?」
一瞬彼女はまぶたを閉じる。
目を開けば、その苛立ちがはっきりとあらわになった。
「君は嘘をついている」
「あら? 心外ですわ。こんなにもあなたを求めているというのに」
ねっとりと絡みつくような言葉を、レイははね除けるように毅然と言った。
「僕に執着するフリをして、ただ時間を稼いでいるだけだ。理滅剣がなければ、君はアノスに勝てない。僕を倒したところで、君はただ滅ぼされるだけだからね」
冷たい視線を放つアヴォス・ディルヘヴィアに、レイは爽やかに微笑んでみせた。
「言いたいことはそれだけですの? ご覧なさいな。あなたはもう、<聖愛域>を使うだけの魔力も残っていませんのに」
その言葉通り、いつのまにか、レイの体に纏った<聖愛域>の光が消えていた。
しかし、それでもなお、彼は言う。
「違うというなら、喋っていないで早く僕を滅ぼせばいい。根源を一つしか持たず、霊神人剣の力を失った勇者。本物の暴虐の魔王が相手なら、僕はもう一〇度は滅びているだろうね」
レイの挑発に乗るかのように、彼女の魔力が激しく揺れた。
デルゾゲードがガタガタと音を立てて震動する。
「でしたら、お望み通り、その根源、欠片も残さず、滅ぼしてさしあげますわ」
更にレイの体の奥深くへ、<根源死殺>の指を抉り込もうと、アヴォス・ディルヘヴィアは腕に力を入れる。
だが、彼女が腕を押し出したのと寸分違わぬ距離を、レイは後退した。
後退した、というのは正しくないかもしれない。押し出された指の力を、彼は完全に殺したのだ。
その<根源死殺>の指が、彼女の魔力が、あと数ミリでも届けば、彼の根源は滅ぶ。
死と隣り合わせの状況下で、レイは偽の魔王の攻撃を完全に見切っていた。
先程までの肉を斬らせて骨を断つ、勇者カノンの戦法ではない。
それはシンと剣を交わす内に、身につけた見切りの極意だった。
「その過去はもう消えてしまったけれど――」
レイの魔力が完全に無と化した。
彼が根源を滅ぼさせたのは、これが狙いだ。
七つの根源を持つレイは、それゆえ、自らの魔力を無とするのが困難である。
だからこそ、あえて滅ぼし、一つにした。
「ミサ。これは君のお父さんが、きっと君を救うために僕に授けてくれた技だと思う。たとえ彼にその意図はなくとも、彼の運命が君を救おうとしていた」
呼びかける。
その心が、彼女の意識が、より明確にアヴォス・ディルヘヴィアと分かれるように。
「だから、戻っておいで」
そうして、レイの根源が霊神人剣エヴァンスマナの根源をつかむ。
「霊神人剣、秘奥が一――」
どくんっ、と魔力の鳴動が轟く。
それは、霊神人剣の鼓動。聖剣の奥底に秘められし、途方もない魔力を持った根源が目覚め始める。
ノウスガリアの神の言葉が、拒絶される。
「……これは、神の――?」
アヴォス・ディルヘヴィアが目を丸くし、地面を蹴ろうとする。
だが、数瞬遅い。
エヴァンスマナに純白の光が集い、それは剣身を補強するかの如く刃と化す。
その切っ先から目映い光線が発せられた。
「……うっ……ぁっ……!」
<四界牆壁>の薄膜を、エヴァンスマナの光線が貫き、アヴォス・ディルヘヴィアの体に風穴を空ける。
彼女の姿が真っ白な光に包まれた。
「――<天牙刃断>」
一呼吸の間に、無数の光の剣閃が、アヴォス・ディルヘヴィアの体を同時に斬り裂いた。
剣を振るうまでもなく、その剣撃を無数に打ち込み、宿命を断ち斬る。
それが、霊神人剣、秘奥が一、<天牙刃断>。
アヴォス・ディルヘヴィアの体が神々しい光に包まれていた。
そして、その輝きが、<天牙刃断>によって、二つに切断されたのだ。
球状の二つの光が、星のように激しく瞬いている。
「君を解き放つ、暴虐の魔王という悲しい宿命から。そう、霊神人剣は教えてくれた」
ゆっくりと純白の光が収まっていき、やがて完全に消える。
片方の光の中からはアヴォス・ディルヘヴィアが、そして、もう片方の光の中からはミサが姿を現した。
水のように溶けて混じり合った二人の根源。
決して戻れぬという宿命を断ちきるが如く、それは霊神人剣が秘奥にて、完全に分けられた。
「ミサッ……」
すぐさま、レイが手を伸ばす。
彼女ははっとしたような表情で、走り出していた。
「……レイさんっ……!」
ミサが、レイに飛びついた。
霊神人剣を携えたまま、彼は左手でミサをぎゅっと抱きしめる。
「返してもらったよ、アヴォス・ディルヘヴィア。君の根源は二つに分かれた。魔族と精霊のものにね。ミサが持っていた魔力はそれほど多くはなくても、半分だけの根源は長くは生きられない」
うっすらとアヴォス・ディルヘヴィアの体が透明になっていく。
彼女にはまだ十分な魔力が残っているにもかかわらず、その存在が維持できないといったように、薄れていくのだ。
精霊病と似たような現象だった。
「噂と伝承通り、勇者カノンの霊神人剣で君は滅びる。君の負けだ、アヴォス・ディルヘヴィア」
ミサを片手に抱いたまま、レイはその切っ先をまっすぐ偽の魔王へ向けた。
やはり、アヴォス・ディルヘヴィアは、噂と伝承に抗えない様子です。