蘇りし愛
「ははっ」
乾いた笑いを漏らし、ノウスガリアがゆっくりと身を起こす。
「恐怖? 君が、恐怖を与えると? 神である私に」
その視線が静かに俺の方を向く。
「ああ、なんと無意味で、無価値で、無駄な言葉を吐くものだ、アノス・ヴォルディゴード」
殴り飛ばされたダメージなどまるでないといったかのように、奴は悠然とこちらへ歩いてくる。
「神は秩序だ。この世界に生きる魔族、人間、精霊、その他あらゆるものにとって、絶対なる存在。この世の理なのだ。君たちという生命はただ秩序に従い、生かされ、そして死ぬ。神に憤るというのは無意味なことだ。ましてや、恐怖を与えようなどと、無意味極まりない」
厳かに、ノウスガリアが両手を掲げる。
「蒙昧なる君に、知恵を授けよう。我々は何者でもない。怒りもなく、悲しみもない。神は不滅、よって生きてすらいない。ゆえに恐怖もなく、ただ、この世界の理であり続けるだけなのだ」
「ふむ。神というのは言葉を理解する頭もないのか」
傲慢な視線を向ける天父神に、俺は命ずるように言葉を発する。
「それを許さぬと言ったのだ」
「秩序がなにを恐怖すると? 君が言っているのは、ものが燃えることに対し憤り、燃焼という理が、脅えて竦むようにするということだ」
「その通りだ。俺の眼前で、火をつけたからといって勝手に燃えることは許さぬ。理だろうが秩序だろうが、恐怖を刻んでやるのが俺の流儀だ」
「ははっ」
ノウスガリアが再び乾いた笑いを発する。
「天に唾を吐く愚か者よ。秩序に背いた罰を受けろ。神の姿を仰ぎ見よ」
いつぞやと同じく、ノウスガリアが奇跡を起こす神の言葉を発する。
彼の体が目映い光に包まれ、魔力が桁外れに膨れあがった。
奴が乗っ取ったエールドメードの魔族の体が裏返るように、その姿が変わっていく。
黄金の髪と、燃えるような赤い魔眼。
その背には、魔力の粒子で構成された光の翼が出現する。
ド、ゴ、ゴ、ゴ、ゴォォォと地響きを立て、デルゾゲードが激しく震えた。
途方もない魔力が、ノウスガリアから溢れ出している。
それはただ存在するだけで、空気を混ぜ、城をも揺るがす。
ジェルガの魔法体に似ているが、それとは明らかに非なるものだ。
膨大な魔力が質量を持ったかの如く、真なる神の姿を、その神体を形作っていた。
「アヴォス・ディルヘヴィアは理滅剣を掌握できていない。だが、デルゾゲードに刻まれた立体魔法陣の術式は大半が書き換えられ、それは今、君の手中にもない。破壊神の力なしに、神を滅ぼすことは能わず」
泰然とその場に立ち、ノウスガリアは赤い魔眼を俺へ向けた。
「秩序の前に、すべては無駄と悟るがいい、アノス・ヴォルディゴード」
「なにを言っている」
そう口にすると、シンが俺の前に歩み出た。
「神も秩序も、我が前ではつまらぬ遊戯のルールでしかない。ノウスガリア、お前は俺に挑むどころか、この右腕にすら及びはせぬ」
シンは右手で空を切り、魔法陣を描く。
禍々しい魔力の奔流を纏わせながら、彼はその中心から斬神剣グネオドロスを引き抜いた。
「寛大なる我が君に、深き感謝を捧ぐ」
グネオドロスをゆるやかに構え、シンは言った。
「亡き妻の仇を、この手で討つ機会を賜りましたことを」
「心おきなく滅ぼせ。後のことなど気にせずにな」
ノウスガリアに向かい、シンは魔剣を片手で構えた。
「御意」
やらねばならぬことは、大きく二つ。
この世の秩序を滅ぼさずに、天父神ノウスガリアを滅ぼす。
ミサを滅ぼさずに、アヴォス・ディルヘヴィアを滅ぼす。
後方ではレイとアヴォス・ディルヘヴィアが対峙している。
だが、俺は加勢をせずに、二つの魔眼で、ノウスガリアの深淵を覗く。
注意深く、その根源に潜む、すべてを暴くかの如く。
「蒙昧なる魔王と、神殺しの凶剣に告ぐ」
高らかにノウスガリアが声を上げた。
「不遜な汝らに、神の滅びを」
奇跡を宿した声が、俺たちを襲う。
シンは左手で略奪剣ギリオノジェスを抜き、音よりも速く、神の言葉を切断した。
地面を蹴ったシンの姿は、次の瞬間には、もうノウスガリアの眼前に現れる。
奴がなにを言うよりも早く、斬神剣がその心臓を貫いていた。
しかし、ノウスガリアはまったく意に介しておらず、その体から血の一滴すら流していない。
「神の体は絶対だ」
その瞬間、シンの魔力が無と化した。
「斬神剣――秘奥が二、<死神>」
それは、神を殺し、秩序を破壊する刃。
波打つような魔力の粒子を纏い、赤黒く染まった斬神剣の剣身が、ノウスガリアの胸に押し込まれる。
「……ぐ、ふっ……」
奴の心臓から血が溢れ、その根源が<死神>に抉られていく。
「……神殺しの凶剣……愚かな男……哀れな魔剣よ……」
流れ出たノウスガリアの血が、床に滴る。
突如、それは黄金色に輝いた。
否、燃えていたのだ。
流れた血は黄金の炎となり、床から勢いよく立ち上る。
「神の炎に裁かれよ」
噴出した幾本もの炎は、シンにまとわりつき、その身を焦がす。
反魔法を纏ってはいるものの、神の炎を防ぎきることはできず、彼の漆黒の鎧が溶けていく。
シンは斬神剣グネオドロスをノウスガリアから引き抜き、我が身を焼く黄金の炎を、斬り裂いてのけた。
再び神の体めがけ、閃光の如く走ったグネオドロスは、しかし、今度は空を斬る。
まるで瞬間移動でもしたかのように、離れた場所にノウスガリアが現れた。
「滅べ」
ノウスガリアの瞳が赤い輝きを発し、次の瞬間、シンの体が炎上した。
淡い白銀の炎である。彼の顔が僅かに歪む。
「神の炎は、罪人にこの世のすべての苦痛を授ける。汝が罪を悔い改めるための慈愛の火だ。一秒ごとに苦痛は増し、一分をもってその断罪を終える。待っているのは、根源の完全なる滅び、すなわち救済なり」
「ふむ。なるほど、呪いの類だな。その魔眼の視界に入る限り、神の炎に焼かれ続けるというわけか。呪いの完了まで一分かかるのを断罪とは、なかなかどうして、うまい言い訳を用意したものだ」
白銀の炎に身を焦がしながらも、シンが瞬く間にノウスガリアに詰め寄り、略奪剣ギリオノジェスを奴の魔眼に一閃した。略奪剣は、目を切れば視力を奪う。
だが、黄金の炎が立ち上り、盾になるかのように、その剣を阻む。
計算尽くと言わんばかりに、シンは更に一歩を踏み込み、右肘でノウスガリアの背中を引っかける。それも炎が阻んだが、同時にシンは奴の死角へ飛び込んだ。
しかし、シンの体についた白銀の炎は消えない。
「神の魔眼に死角はない。この断罪は絶対だ」
黄金の炎が、ノウスガリアの手に集い、それがシンの体を焼いていく。
そのまま炎は、剣の形を象り始めた。
「そして、神剣ロードユイエにて審判は下される。神殺しの凶剣、魔族最強の剣士の腕すら、神の剣の前には児戯に等しいことを思い知るがいい」
炎は、黄金に輝く神剣ロードユイエに変化した。
それは漆黒の鎧を容易く破壊するも、シンは寸前でその身を引き、刃を避けた。
僅かに飛び散った血とともに、破壊された礼装から、一枚の紙がこぼれ落ちる。
二千年前、レノが彼に渡した愛の妖精フランのページだ。
咄嗟にシンは、斬神剣を捨て、それに手を伸ばした。
神剣ロードユイエが真上からストンと落ちてきて、床にその手を縫い止めるように、串刺しにした。
「……くっ……」
シンの手の甲から血が滲む。
「ははっ」
床に落ちたそのページに視線を落とし、ノウスガリアは乾いた笑声をこぼした。
「かくも愚かな凶剣よ。それほどまでに愛が欲しかったか。哀れなことに、お前の愛は神の奇跡によるもの。アヴォス・ディルヘヴィアが生まれた時点で、その役目はとうに終わっている」
じっとシンの体を、その赤い魔眼で睥睨したまま、ノウスガリアは言った。
「まもなく断罪の時が終わる。懺悔しながら逝くがいい、神殺しの凶剣。君の罪は、その愛を神に感謝しなかったことだ」
残り数秒。
白銀の炎がシンの根源を燃やし尽くす――
その寸前で、彼の姿は忽然と消えた。
ロードユイエで縫い止めるように貫かれていたにもかかわらず、いとも容易くシンはそこから脱出したのだ。
「――愚かなんかじゃないよ」
声が、響いた。
ノウスガリアがゆっくりとそこへ目を向ければ、玉座の間の入り口に、フードを被った一人の少女が立っていた。
その傍らに、シンがいる。
彼は、その少女の姿を、呆然と見つめていた。
「奇跡なんかじゃなかったよ。ようやくわかった」
フードの奥に、琥珀の瞳が見えた。
いつかどこかで見た、古い大精霊の輝きが。
「私の夫は魔王の右腕。その剣は一度だって、あなたの言葉を斬り損じたことなんてない。シンにはあなたの言葉は届いてない。神の言葉なんか、一度だって聞いてないんだっ!」
淡い翠の光に包まれて、そのフードが、ふっと風にさらわれる。
あらわになった髪は、清んだ湖のように美しく、その背には六枚の羽がある。
穢れなき翡翠色のドレスを身に纏ったその少女は、今もなお伝承で語り継がれる母なる大精霊――
レノが、そこにいた。
「シンの愛はいつだって、その胸にあった。私が教えた、私と一緒に育んだ愛は、神の奇跡なんかに、汚されていない。間違えたのはあなただよ。奇跡なんかじゃなかったんだ!」
ノウスガリアがレノに視線を向ける。
怒りも悲しみもないと言った奴の瞳が、どこか暗い輝きを発したように見えた。
その魔眼の視線から、彼女を守るように、シンが立ちはだかった。
「……レノ……」
僅かに後ろを向いたシンに、レノはいつかのようにニコッと笑った。
「……約束、守りにきたよ、シン。ごめんね、二千年も待たせちゃった……」
静かに首を横に振り、シンは略奪剣を構えた。
「取り返しに行きましょう。ミサは神の子ではありません」
シンは笑い、そして言った。
「私たちの子です」
レノがうなずくと、シンは地面を蹴った。
彼女は両手を目の前にかざし、魔法陣を描く。
二千年の時を経て、愛を伝えに大精霊は蘇った。
傍らにはその伴侶、精霊たちの王がいる。
二人は脅えもなく、迷いもなく、目の前に佇む悲劇の元凶へと挑む。
かつて神に奪われた愛しい我が子を、その手に取り返すために――
あのときとは違う意味で、奇跡なんかじゃなかったと。