憎しみは過去に
「ふふ」
アヴォス・ディルヘヴィアが笑う。
「ふふふっ、あははっ、あはははははは。ええ、そうですわ、アノス・ヴォルディゴード。すべては思惑通り、わたくしは未だすべてを掌握していますの」
すっと白い指先を伸ばし、空を優しくつかむように彼女は手を握った。
「つまり、あなたたち二人の運命も、わたくしの手の中ということ」
「ほう。俺の噂と伝承から生まれたわりには謙虚さが足りぬな」
「あら? そうでもありませんわ。少なくとも、あなたよりはよっぽど謙虚ですもの」
微笑しつつ、彼女は言った。
「お話をしましょうか」
「ふむ。俺とて、有無も言わさず戦いを始めるほど狭量ではない。お前が全面降伏するという話ならば、一応は耳を傾けてやろう」
彼女はすっと手を上げて、<遠隔透視>の魔法を使った。
宙に水晶が現れ、そこに闘技場の様子が映っている。
「傲慢な口は、これをご覧になってから叩きなさいな」
<遠隔透視>の水晶に、大きく映し出されたのは、処刑台だ。
白服の生徒が一人、そこに乗せられ、<拘束魔鎖>で縛られている。
魔族に転生したイガレスだった。
「3回生アラミス・エルティモ。二千年前、イガレス・イジェイシカだった人物ですわ。ご存知ですわね?」
「かつて俺が助けた人間の子だ」
「けっこう。彼を今から、処刑いたします」
メルヘイスが魔法陣を描くと、<拘束魔鎖>に魔力が送られ、イガレスは処刑台に吊り上げられた。
「やってみるがいい。できるものならな」
「ふふ、大した自信ですわ。それは、あなたの配下が、そこに紛れこんでいるからですの?」
ねっとりとした視線が俺の体に絡みつく。
「さてな」
「あら、気がつかないと思っているのなら、可愛らしいことですわ」
嗜虐的にアヴォス・ディルヘヴィアは唇を歪める。
「彼を処刑から救うため、あなたの配下は姿を現さざるを得ません。そうすれば、その者たちは残虐な死を迎えることでしょう」
彼女は水晶に指先で魔力を送る。
『ぐ……ぅぅ……あぁ……』
『……助、け……』
『や……やめ…………ろぉ……』
口々に声を上げて白服の生徒たちが苦しそうに悶え始めた。
彼らの体から、その根源から、みるみる内に魔力が抜けていく。
同時に、闘技場にいる七魔皇老に、暗黒のヘドロがまとわりついた。
そのヘドロは、メルヘイスやアイヴィスよりも、遙かに禍々しく巨大な魔力を発していた。
「おわかりですか、<闇域魔王軍>の力が」
「ふむ。お前の魔力に、<闇域>で吸収した魔力を上乗せして、<魔王軍>の魔法効果を底上げしているというわけか」
偽の魔王がふっと微笑した。
「アノス・ヴォルディゴード。チェスは得意ですの?」
「さて、盤上の遊戯などルールも知らぬな。それでも、お前に負けるとは思えぬが?」
「では、勝負なさいな。あの闘技場をチェス盤に、配下を駒にしての知恵比べですわ。それとも、手駒が少ないから棄権なさいます? その場合、イガレスの命を救えませんけれども」
挑発するように、彼女は嫌らしい口調で言う。
「そんなに俺とまともにやり合うのが恐いか、アヴォス・ディルヘヴィア」
俺は目の前に手をかざし、この場に魔法陣を描く。
<幻影擬態>に反魔法をぶつけてやれば、玉座の間に所狭しと描かれた魔法文字があらわになった。
デルゾゲード魔王城を立体魔法陣とした場合の術式だ。そこには無論、術者である俺以外の制御を無効にする反魔法が幾重にも張り巡らされている。
その反魔法の術式が一つずつ突破され、記述された魔法文字が次々と書き換えられていく。魔眼を凝らせば、アヴォス・ディルヘヴィアが行っているものだと簡単にわかる。
完了するまでにはまだ幾分か時間がかかりそうだ。
「理滅剣を手に入れるまで時間を稼ぎたいならば、知恵比べなどという建前は捨てて、そう言うがいい」
「挑発がお上手なことですわ。では、棄権なさいますの? わたくしはそれでもよろしくてよ。不適合者のあなたが苦しむ姿を見るのを、わたくしはなによりも楽しみにしていましたの」
僅かに笑みを見せた後、アヴォス・ディルヘヴィアは言った。
「処刑を実行なさいな」
そう命令が下される。
ミーシャの視界に目を向ければ、黒服の生徒たちは等間隔に配置され、真ん中にある処刑台に体を向けているのがわかった。
さすがに生徒たちに紛れたまま、イガレスを救出するのは難しいだろう。
<破滅の魔眼>や<創造の魔眼>を使えば、自ずと正体を明らかにしてしまう。
<闇域魔王軍>の暗黒ヘドロを纏った七魔皇老たちは、俺の配下がどこから飛び込んでくるか、辺りを警戒し、その魔眼を光らせている。
黒い法衣を纏ったニヒドが、一歩前に出る。
彼はイガレスを処刑するため、魔法陣を一門描いた。
「先生っ! やめてぇっ! どうして? アラミス君はなにも悪いことをしてないっ。お願い、先生っ、正気に戻って。いつもの優しい先生に戻ってよぉっ!」
白服の女子生徒が、魔力を吸収される苦痛に耐えながらも、必死に叫んだ。
しかし、ニヒドはまったく意に介さない。
「イガレスと名乗ったな。勇者ジェルガの親族よ。せめてもの情けだ。最後になにか、言い残すことはあるか?」
ニヒドを睨み、イガレスは毅然と言葉を発した。
「アヴォス・ディルヘヴィアは偽者ですっ。僕は本物の魔王を知っています。あの方は優しく、強く、決して差別をしない人でしたっ。あなた方の中に、二千年前の彼を知る人がいるのでしたら、どうしてそれを忘れてしまったのですかっ?」
イガレスの訴えに、けれどもその場にいた誰も耳を貸さなかった。
「それが遺言か?」
ニヒドが問うと、イガレスはぐっと押し黙った。
「……僕は使命を果たしました。悔いはありません」
まるで俺に伝えているかのように、イガレスはそう口にした。
「必ず、本物の魔王様が、アヴォス・ディルヘヴィアを倒してくれると信じています……そして、きっと、人間と魔族が手を取り合える、本当の平和を築いてくれるはずです……」
「そうか。それは――」
魔法陣から漆黒の太陽が出現する。
それは彗星の如く尾を引いて、イガレスに迫った。
彼は目を逸らさず黒い太陽を睨む。
撃ち出された<獄炎殲滅砲>は、しかし、僅かに狙いを逸らし、彼を縛る<拘束魔鎖>を焼き切って、処刑台の向こう側にいたメルヘイスに突っ込んだ。
「な――っ! ぐ……」
メルヘイスの体が炎に包まれ、黒く燃え上がる。
「私も同感だ。イガレス。お前をここから逃がしてやる」
ニヒドが言った。
「……これはこれは、困ったものでございます……」
メルヘイスが魔力を込め、暗黒のヘドロから黒い泥を発する。それはまとわりついていた<獄炎殲滅砲>を飲み込み、瞬く間に消火した。
「皇族派のあなたが、裏切るのですか、ニヒド。アヴォス・ディルヘヴィア様への反逆は、死を意味することをお忘れではないでしょうね?」
「裏切る? ニヒド? なにを言うのだ」
一歩、歩を刻み、彼は大きく声を上げた。
「私の名はデビドラっ! 我が君は、後にも先にも、アノス・ヴォルディゴード様ただ一人である。貴様こそ、アノス様に命をもらったことを忘れたか、メルヘイスッ!」
デビドラが地面を蹴り、腰に提げた魔剣を抜く。
メルヘイスに振り下ろしたその剣撃は、寸前のところで暗黒のヘドロが防いだ。
「……二千年前の魔族は皆、アヴォス・ディルヘヴィア様に忠誠を誓っているはずでございます……なぜ、あれほどの人望を持った御方を裏切るなど……」
「いい加減に気がつくのだな、メルヘイス。アヴォス・ディルヘヴィアの無茶な洗脳のおかげで、あちこちに綻びが出て、矛盾が生じている」
デビドラは二千年前の魔族だが、転生した者はその根源を残し、まったくの別人となる。二千年前の配下と言い切ることができないため、アヴォス・ディルヘヴィアの洗脳も弱まるようだ。
「……一人味方が増えたところで無駄なこと。ガイオス、誰でも構いません。白服を処刑なさいっ……!」
巨大な体躯を持ったガイオスが、極大魔剣グラジェシオンをその手に握る。
「フーム。では、その逆賊には、アヴォス・ディルヘヴィア様に背いた罰として、教え子の死を見せてやるとしよう」
「……や、やだ……」
白服の女性徒が脅えた眼差しを見せる。
「死ぬがよい」
問答無用で、山をも断つグラジェシオンが闘技場の地面に振り下ろされる。
ドゴォォォンッとけたたましい音を立て、そこにクレーターの如く穴が空いた。
「跡形も残らぬか」
呟いたガイオスの後ろから、声が響く。
「やだ。少し速く動いただけで、もう見失ったの?」
「な、に……!?」
ガイオスが振り向く。
彼の背後に先程まで脅えていた白服の女性徒がいた。
「<獄炎殲滅砲>」
彼女の目の前に魔法陣が描かれ、漆黒の太陽が三つ出現する。
それは一瞬にしてガイオスを飲み込むと、ゴオォォォォッと激しく炎上した。
「……う、ぐおぉぉ……!? こんな……こんな馬鹿なっ……!!」
暗黒のヘドロを纏った極大魔剣を振り払い、ガイオスは反魔法で黒き太陽をかき消した。
「……白服の分際で、<獄炎殲滅砲>を三発同時だと……!?」
「初めまして、ガイオスさん。二千年前は挨拶できなかったわね。わたしはネイト・アーメルカ。アノス様の忠実なる配下。そして――」
彼女が手を上げると、二人の白服の生徒と、三人の黒服の生徒が、それぞれ、<獄炎殲滅砲>を残りの七魔皇老五人に放った。
「ぐおっ……!!」
「……馬鹿、な……」
それぞれ、二千年前から転生したであろう俺の配下が、七魔皇老と対峙する。
「無駄なあがきというものでございますよ、デビドラ殿。いかに二千年前の魔族と言えど、<闇域魔王軍>の影響下にある今のわしには、到底敵いますまい」
デビドラが放った<獄炎殲滅砲>を反魔法で弾き返し、メルヘイスは起源魔法<魔黒雷帝>を放った。
バチバチとけたまましい音を立てて膨れあがった漆黒の雷が、闘技場のすべてを吹き飛ばさんばかりの勢いで、デビドラを襲った。
「ぐぅ……おおぉぉぉ……!!」
デビドラの反魔法を<魔黒雷帝>が突破する寸前――
「ったああああぁぁっ!!」
メルヘイスの死角から、イガレスが思いきり体当たりし、至近距離で<大覇聖炎>の魔法を放った。
それを防ぎきることができず、メルヘイスが身じろぎする。
<魔黒雷帝>は明後日の方向へ飛んでいき、観客席の一部を粉々に破壊した。
「……ぬぅっ……!!」
たまらず、メルヘイスはイガレスを振り払うように飛び退き、距離を取った。
「魔剣は、ありますか?」
イガレスが訊くと、デビドラは魔法陣から魔剣を抜き、彼に渡した。
彼は剣を構え、デビドラと肩を並べた。
メルヘイスを睨みながら、デビドラは言う。
「……なぜ、助けた? 二千年前、私がお前にした仕打ち、忘れたわけではないだろう」
すると、イガレスは笑った。
「あなたも、二千年前に人間がしたことを、忘れたわけではないんでしょう?」
デビドラは一瞬押し黙り、それから魔法陣を描いた。
「……憎しみは、二千年前においてきた……!」
<獄炎殲滅砲>を発射し、イガレスと二人で、デビドラはメルヘイスに肉薄する。
かつて、イガレスを処刑しようとしたデビドラが、今度は彼を救った。
そして今、二人は肩を並べ、平和のために戦っているのだ。
確かに、過去は変わった。
変えられたのだ。
「小賢しいことでございます」
同じくメルヘイスは<獄炎殲滅砲>を放ち、それを相殺。続く起源魔法<魔黒雷帝>で、イガレスとデビドラを撃ち抜いた。
だが――
確かに彼らに直撃したはずの黒き稲妻は忽然と消滅していた。
「……これはっ……!?」
咄嗟にメルヘイスが上空を見上げる。
そこにサーシャが飛んでいた。魔法障壁を突破し、闘技場全体を視界に入れる高みから、<破滅の魔眼>を放っている。
「……逆賊の配下……とうとう姿を現しましたなっ……!!」
メルヘイスがぐっと地面を蹴り、サーシャへ向かう。
「氷の猫」
無機質な声が響く。
メルヘイスの魔眼が向けられたのは、遙か上空だ。
城がある。
デルゾゲード魔王城の空に、もう一つ、魔王城が浮かんでいた。
<創造建築>で創られたデルゾゲード、擬似的な神の力が、そこに顕現していた。
「創造の――っ」
メルヘイスが気がついた頃には、すでに手遅れだった。
現れた二千年前の魔族に気をとられた七魔皇老、そして、アヴォス・ディルヘヴィアの洗脳を受けた者たちは、ミーシャの<創造の魔眼>によって、なす術もなく氷の猫に姿を変えた。
すぐに処刑予定だった白服の生徒たちが、ミーシャたちの手によって解放されていく。
ミーシャの視界から魔眼を離し、俺は玉座の間を見た。
闘技場の様子を、アヴォス・ディルヘヴィアは冷めた瞳で、水晶越しに見つめていた。
サーシャが<破滅の魔眼>を使い、彼女たちへの<闇域>の影響を遮断している。
最早、この闘技場での決着はついただろう。
「兵法の基本は、多数をもって少数を制す。なかなか教科書通りの戦いをするものだな」
こちらに視線を向けたアヴォス・ディルヘヴィアに、俺は言った。
「しかし、駒がとられることはないと踏んでチェスを指していたつもりだったのだろうが、あいにくと俺はルールを知らぬ。たとえチェスだろうと、力尽くで駒を奪うぞ」
ルールは知らないと言いながら、チェスで駒を奪えないことは知っているアノス……。