初夜
踊り、歌い、騒ぎ立てる――賑やかな精霊たちの婚姻の義が終わりを告げると、空には月が出ていた。
雲の上の小さな城、そのバルコニーに、シンとレノの姿がある。婚姻の正装を脱ぎ、今は普段着に戻っている。
二人はその場所から、雲の回廊を帰っていく精霊たちを見送っていた。
「ありがとね、シン」
レノが言う。
「騒がしかったでしょ、精霊の婚儀は。魔族たちは厳粛にやるから、びっくりしたんじゃないかな?」
「悪くはないものです」
いつになく柔らかい表情でシンは言った。
「レノ」
最後の精霊が雲の回廊から姿を消すと、シンは彼女の方を向いた。
「あなたとでなければ、きっと、私は生涯、どの者とも婚姻を交わすことはなかったでしょう。愛を知らず、空虚なこの身に、夢を見させていただいたこと、感謝します」
シンの言葉に、レノは頬を朱に染める。
彼女は、隣に佇む伴侶にぼーっと見とれていた。
「……あのね」
恥ずかしげに、レノは言った。
「知らないんじゃないよ。きっと、シンの心には小さな小さな蕾があって、それがいつか花を咲かせるから。まだ蕾でも、それは愛なんだよ」
レノはニコッと笑いかける。
なにも言わず、彼はそっと夜空を見上げた。
「いつまでも、見続けていられれば、よかったのですが」
淡く輝く満月に、シンの視線が吸い込まれる。
その横顔はどこなとなく、寂しさを感じさせた。
「この夢は、もう終わりでしょうか?」
「え……?」
疑問の表情を浮かべるレノに、またシンはゆっくりと視線を戻す。
「婚姻の義は、これでつつがなく終わりましたか?」
「あ、うん……」
僅かに、レノは顔を俯ける。
「……終わった……かな……?」
「では――」
と、シンが言いかけたそのとき、小さな妖精たちがどこからともなく、ふっと姿を現した。
「終わった?」
「終わってない?」
「ない気がするー」
「本番本番っ」
「初夜初夜ー」
きゃっきゃきゃっきゃと騒ぎ立てながら、彼女たちは「初夜初夜ー」を連呼しながら、二人の周囲を飛び回る。
「こっ、こらぁぁっ。ティティっ。変なこと言わないのっ。精霊同士じゃないんだから、そんなのしたって意味ないんだからっ」
一瞬、レノはシンをちらりと見て、かーっと顔を真っ赤にした。
「じゃなくてっ、じゃなくてねっ! い、意味があったからって、どうってわけじゃないからっ」
拳を振り上げ、「こらー」とティティたちを追いかけ回すレノ。妖精たちは脅えたように、シンの肩や頭に乗った。
「レノこわいー」
「こわいこわいー」
「精霊王さまー」
「レノ、宥めてー」
ぶるぶると、ティティたちは震えてみせる。むーとレノは彼女らを睨んだ。
「どのようにすれば?」
シンはがそう尋ねると、耳元でティティが言った。
「初夜初夜」
「婚姻の義の続きー」
「レノの機嫌直るよ」
「直る直る」
「一発で直るー」
そのとき、レノが飛ばした小さな水の球がティティたちの体を包み込んだ。彼女たちはごぼごぼと音を立てて溺れている。
「もうっ。変なことばっかり言って、シンが困――」
シンはレノにすっと手を差し出していた。
「……えっと……」
「まだ終わりではないのでしたら、今しばらくこの夢の続きを」
「あ……」
「あなたが望むのなら」
呆然とレノはシンを見つめる。
ティティたちはジタバタともがき、なんとか泳いで水の球から抜け出た。
「お邪魔虫」
「帰らなきゃ」
「急いで急いで」
「火は熱いうちに」
「ごゆっくりー」
キラキラと鱗粉を撒き散らしながら、妖精たちは城から去っていく。
レノは惚けたように、夜の空に描かれた光の線をぼんやりと眺めていた。
「中へ入りましょうか」
「……え、あ………………」
戸惑ったようにレノがシンを見つめる。
彼がなにも言わず、じっと返事を待っていると、レノは恥ずかしそうに視線を逸らした。
「………………………うん…………」
か細い声で返事をして、レノはその手を取った。
シンにエスコートされるがまま、彼女は室内へ入った。
色とりどりの花々が飾られた部屋の中心に、大きな天蓋付きのベッドがある。
彼女はそこにちょこんと座った。
「あの、あのね」
しどろもどろになりながら、レノは言葉を紡ぐ。
「一応、婚姻の義には、初夜もあるんだけどね。だけど、寝るだけでも、大丈夫だからっ。大丈夫なんだよ」
自分に言い聞かせるように、レノは繰り返す。
シンは快くうなずいた。
「では、お休みになりますか?」
「あ……えっと、もう少し……」
一旦言葉を切り、レノはまた言った。
「……お話、しようよ」
シンはうなずく。
「なにを話しましょうか?」
「……えーと、じゃ、魔王アノスのことを、聞かせてくれる?」
僅かに、シンが目元を緩ませる。
「天父神が、言ってたよね。シンは魔王に拾われてから、人らしい心を持つようになったって。その話が、聞きたいよ」
レノは、ベッドの隣をそっと叩く。
「こ、ここ。座っても、いいよ……?」
「失礼します」
ゆるりと足を踏み出し、シンは彼女の隣に腰かけた。
「あまり面白い話でもありませんが」
そう前置きをして、彼はバルコニーの方へ視線をやった。
「……我が君に会ったのは、綺麗な月の出ている夜でした。ちょうど今日と同じような月です」
シンは空の向こう側に浮かぶ、綺麗な満月をじっと見つめる。
「大戦の中期頃だったでしょう。人間との戦いは小競り合いが多く、再び激化する前の過渡期でした。すでに体を得ていた私は、剣を手に、名だたる魔族に力比べを挑んでおりました」
遠い過去に想いを馳せるように、シンは静かに語る。
「神殺しの凶剣と呼ばれたこの身には、あらゆる敵が弱者に感じられました。しかし、それは当然のことだったのかもしれません。戦うために産み出されたこの根源を相手に、そうではない彼らが敵う術もない」
一旦言葉を切り、シンは数瞬まぶたを閉じる。
それが開いたとき、瞳には僅かに哀愁が宿っている気がした。
「彼らの根源には、愛がありました。それは優しさであり、憎しみであり、また悲しみでもあったのでしょう。それらは戦いには不要なもので、魔族たちは悉く、この手の剣に斬り捨てられていきました」
ぼんやりと過去を見つめながら、淡々と呟くようにシンは言う。
「愛がないからこそ、私には力があったのかもしれません」
冷たいその言葉は、どこか寂しげで、孤独を感じさせる。
それがレノにも伝わったか、彼女はきゅっと唇を噛んだ。
「私は胸に空虚を抱えていました。敗れていく彼らを羨ましいとさえ、思ったのかもしれません。この身は渇望していました。なにを、とその頃の私には知る由もありませんでした。わかったのは、ただ、ただ、この身を打ち負かしてくれる相手を求めているということ。敵を探し続け、凶剣の二つ名にふさわしく、ひたすら剣を振るっておりました」
戦い続けたシンは、いつしか千剣と呼ばれるようになった。
千の魔剣を操る、魔族最強の剣士、と。
「そうして、あるとき、私は魔王と対峙しました。いつものように剣を振るった私に、我が君は言ったのです。『話をしよう』、と」
「どうしたの?」
「もちろん、聞く耳ももたず、私は魔王に斬りかかりました。我が君は剣を防ぐ度、言葉を放ちます。様々な言葉が投げつけられましたが、結局言っていることは一つでした」
過去の言葉を思い出すように、シンは柔らかい表情で言った。
「私が、なんのために、戦っているのかということ」
レノが傍らで優しく相槌を打つ。
それが、シンにとって、なにより大事なことだったというのが、わかったのだろう。
「百の剣を繰り出しましたが、我が君を斬ることは決してかないませんでした。私は初めて、敵に興味を覚えました。そして、こう尋ねたのです。『なぜ、あなたはそんなに強いのですか』、と。思えば、魔族の身となって、初めて発した言葉でした」
「……アノスは、なんて言ったの?」
「『強くなければ救えぬ』、と。そして、次にこう問いました。『お前はなぜそれほど強いのか』、と」
シンは自らの手の平をじっと見つめる。
「『理由などない』と私は答えました。心などない、と。強くあるために、強くあった。私はただ一振りの剣でした」
彼は開いた手を静かに握り締める。
「すると、我が君は言ったのです。『俺の配下になれ。お前の剣が斬るに相応しい敵を俺が与えてやる』と」
シンの言葉に強く、力がこもった。
「……私は初めて気がつきました。ずっと、この身を、神殺しの凶剣を所有するに相応しい主が現れるのを、求めていたことを。結局、我が君はただの一度も魔法を放つことなく、言葉一つで、私の心を貫いていたのです」
一息つき、彼はレノに視線を向けた。
「『御身の剣となり、すべての敵を斬り捨てよう』、そう忠誠を示した私に、我が君はおっしゃいました。『ならば、お前の前に立ちはだかるすべての悲劇と理不尽を、この俺が滅ぼす』、と」
「……すごいな、アノスは……」
「すごい、というのは?」
「シンが本当はなにを求めていたのか、わかったんでしょ? それで剣を抜いたシンを一度も攻撃しなかった」
「……そうですね。それを尋ねたことはありますが、ただ飽きたのだとしかおっしゃいませんでした……」
「飽きた?」
「……戦うことに、だそうです。結局、そのとき、我が君が考えていたことは、私には計り知ることができません」
彼は、遙か遠くを見つめる。
あるいはそれは、二千年後に転生する主君に、想いを馳せているのかもしれぬ。
「確かなのは、空虚だった私に、戦う理由を与えてくれたということ。我が君は、一振りの剣にすぎなかった私を、偉大な器で持って、一人の魔族として迎え入れてくれました。その恩義に報いるため、私は魔王の右腕となったのです」
「……そっか……」
ぼんやりとレノは月明かりを眺める。
シンと同じ方向を。
「……ずるいなんて言ったけど、やっぱり勝てないなぁ、アノスには。シンが追いかけて、転生したいって思うのも、当たり前だよね……」
ほんの少し、落ち込んだようにレノは俯く。
けれども、すぐに思い直し、頭を振った。
「……あ、あのね、シン……」
恐る恐るといったように、彼女はベッドについたシンの手に、自らの手を重ねた。
勇気を振り絞るように、レノは言う。
「……やっぱり、寝るだけじゃ……」
唇を震わせ、レノは顔を紅潮させる。
途切れそうなほど弱々しく、微かな声を、それでもなんとか振り絞った。
「…………やだよ……」
そのまま静かにレノは顔を寄せ、そっとキスをした。
抱きつくように体重を預け、彼女は白い指先をシンの体に伸ばす。
その手を彼がそっとつかんだ。
「……だめかな……?」
一瞬の間の後、シンは言った。
「……傷つけるかもしれません……あなたが愛を、求めるなら……」
「大丈夫だよ」
シンの手に、レノは指を絡ませて、いつものようにニコッと笑った。
「教えてあげるから」
夜空には淡く、満月が輝いている。
窓から降り注ぐその光が、重なり合った二つの影を、そっと慈しむように照らし出していた。
シンにもきっといつか、愛がわかる日がくるのでしょう。




