誓いの言葉
大精霊の森、アハルトヘルン。
サーシャの視界には、シンとレノ、それから二人に対峙する勇者カノンの姿が映っていた。
「お断りします」
にべもなく告げたシンに、カノンは食い下がった。
「シン・レグリア。これは暴虐の魔王を、アノスを救うための手段だ。人間がなにを企もうと、確かに彼は歯牙にもかけないだろう。だが、魔王は争いを望んではいない。守るために剣を取り、そして敵さえも救おうとした彼に、再び人間を討たせるのか?」
無言で応じるシンに、カノンは続けて言う。
「人間は愚かな決断をした。だから、それを俺がこの身で贖う。今度こそ、平和を。誰よりも、それを願い転生した彼が、次に目にするのは、平和な世界であって欲しい」
「勇者カノン」
冷たい声で、シンは言う。
「どんな事情があれ、偽物の魔王を私が見過ごすとお思いですか?」
「……思わない」
「では、その私に偽者の右腕を演じろというのが、どういう意味かわかりますね?」
「魔王の右腕がそばにいれば、誰もがアヴォス・ディルヘヴィアを本物の魔王だと信じるはずだ。アノスのことを思うのならば、協力してくれないか?」
言葉と同時に、シンが抜いた鉄の剣がカノンの首筋に触れていた。
寸前のところで、勇者はその剣を素手でつかんでいた。
握った手から血が滲み、ポタポタと赤い水滴が地面に落ちる。
「手助けをしなければ、我が君が人間を滅ぼすしかないと考えるのは、侮辱に等しい。暴虐の魔王はそれほど弱くはございません。どの者がなにを企もうとも、すべてを上回り、すべてを成し遂げるでしょう。なにを失うことなく」
「確かに、彼はすべてを超越している。その彼でも、守れたものばかりじゃなかったはずだ」
「もう二度となにも失わないために、我が君は強くなられました。転生後もまた強くなり続けるでしょう」
「そうだとしてもっ! 俺は、人間が愚かなばかりじゃないことを、見せなければならない! 彼が強いからとすべてを彼に任せていいのか。そんなことを続けていたから、彼は強くなるしかなかったんじゃないか。暴虐と呼ばれるまでに、なにもかもを殺し、滅ぼし、抑止力となるしかなかった!」
勇者カノンが訴える。
魔族の味方として、切実な想いを込めて。
「あの強さに、孤高なまでの力に、君は悲劇を感じないのかっ? 俺たちが弱いから、争いをやめる覚悟も、憎しみをとめる強さもないから、彼は孤独な眠りにつくしかなかった!」
曇りのない純粋な眼で、カノンはシンを見つめる。
「確かに、偽者を演じることは魔王に対する侮辱だ。君たちにとって、魔王がどれだけ偉大で、侵されざるものなのか、今はよくわかっている。だから、俺は魔族の王に扮した罪を、この身をもって、死をもって贖う。架空の魔王アヴォス・ディルヘヴィアとして」
ぐっと鉄の剣をカノンは握り締める。
「……すまない。今すぐ、滅びるわけにはいかない。だが、二千年後、必ず……必ず、この命をもって、それに贖う。そのときは君が、俺を討ってくれて構わない」
シンは冷たい視線をカノンに向けたまま、やはり黙っている。
同じ言葉を二度言う必要はない。答えは変わらぬ、ということだろう。
それを悟ったか、カノンは剣から手を放した。
「約束をした。今度は生まれ変わるときは、友として会おう、と。俺は……」
カノンは、言い直す。
勇者を演じてきた彼ではなく、ありのままのカノンとして。
「……僕は、次に彼の前に立つときは、友として相応しい自分でいたい……」
じっと二人は見つめ合う。
シンは剣を引き、血を振り払って鞘に納めた。
「どうやら、勇者カノンは気が触れたようです。このディルヘイドで、架空の魔王の名を広めるなど、万に一つも成功するはずがありません。捨ておいても、問題はありませんね」
彼は踵を返し、背中越しに言った。
「私は転生します。生まれ変わるのは二千年後でしょう」
架空の魔王の名を広めることに協力はできない。しかし、カノンの邪魔はしない、という意味だろう。
それは俺の忠臣として、シンにできる精一杯のことだ。
「ありがとう」
カノンは、シンの背中に深く礼をした。
しばらくして、シンが立ち去った後、カノンは頭を上げた。
目の前にいたレノに彼は軽く会釈をする。
「ちょっと変わったね、カノンは。いつも苦しそうな顔をしていたけど、今は吹っ切れたみたいに見えるよ」
「だとしたら、魔王アノスのおかげだろうね」
爽やかにカノンは笑う。
「彼が変わったのは、君のおかげかい?」
「え……?」
不思議そうにレノは目を丸くした。
「斬られる覚悟で来たんだ。以前までのシンだったら、鉄の剣ではなく、魔剣を抜いていたはずだよ。話さえ、まともに聞いてもらえなかったかもしれない。あんなに殺気のない彼は初めて見たよ」
「そうなんだ。愛を教えてる甲斐があったのかな?」
「……愛?」
カノンはきょとんとした表情を浮かべる。
それから薄く笑った。
「ああ、そうか。どうりで君も、いつもと違うと思った」
納得したように、カノンは言う。
「母なる大精霊は恋なんてしないと思っていた」
呆然とレノは、カノンを見返す。
たった今、なにかをはっきりと自覚したような表情を浮かべていた。
「世界は思ったよりも、愛に満ちているのかもしれないね」
眼差しに希望を宿しながら、カノンは振り返る。
そうして、アハルトヘルンから去っていった。
「恋……」
レノが呟く。
彼女の頬が朱に染まり、表情が緩む。
「……そっか、恋だ……」
もう一度、レノは繰り返す。
そうすることで、自分の心を確認しているかのようだった。
途端に、彼女は勢いよく踵を返す。
そうして、シンが去っていった方向へ全力で走った。
「……シンッ!」
すぐにシンの背中が見えた。
相手が勇者カノンとはいえ、あまり離れすぎないように、レノを待っていたのだろう。
「どうかしましたか?」
シンが振り返るよりも早く、レノは彼の背中に飛びついていた。
彼女はぎゅっと彼を抱きしめる。
「……わかった。わかったよ、シン。私、シンが好きっ。恋だったんだよ。シンのことが、好きなんだよっ」
呆気にとられた様子で、シンは彼女を見た。
「不思議だと思ってたよ。シンといると、いつもと違う気持ちになる。シンが愛を知らないって聞いたら、胸が苦しくて、シンがお花に水をあげてくれたら笑顔が溢れて、シンは私を、いつも違う私にしてくれる。母なる大精霊じゃない私にしてくれるのっ」
嬉しそうに、顔を輝かせ、レノは言う。
まるで無邪気な子供のようだった。
「あ……」
シンの視線に脅えるように、レノは彼から身を離した。
俯き、恐る恐るといったように、彼女は上目遣いでシンを見る。
「……迷惑、だったかな?」
長く、長く、アハルトヘルンに生きてきた、母なる大精霊。
けれども、今の彼女は、初めて恋を知った、一人の小さな少女に見えた。
「私に愛などありません」
その言葉に、レノは恐怖したように体を震わせる。
「……しかし、あなたは私の空虚を、ほんの少し埋めてくれました。精霊たちとの戯れも、涙花に水をやることも、これまでの私からは、考えられなかったこと」
嬉しそうにレノは表情を緩める。
「ここで過ごす日々は、まるで抜き身の剣だった私に鞘を与えられたかのよう。それが、愛ではないのだとしても、レノ、あなたに感謝します」
「うぅん、うぅんっ。そんなの、いいんだよっ」
ぶるぶると首を左右に振り、レノは笑う。
そんな彼女に、シンは静かに告げた。
「その日々も、今日で終わりです」
「え……?」
「神獣グエンを片付けました。潜伏しているノウスガリアも、半死半生の身。秩序としての力は殆ど残っていないでしょう。エニユニエンの大樹の中にいれば、あなたに手出しはできません」
呆然とレノは、シンを見つめた。
「転生するの?」
「我が君へ告げた言を、守らないわけにはいきません。まもなく、勇者カノンは架空の魔王の噂を広めるでしょう。それよりも先に、行こうと思います」
「いつ?」
「これから、ディルヘイドへ向かいます」
レノは小さく唇を噛む。
「だって、私、ようやく気がついたのに……」
悲しげに、レノは呟く。
それを見て、シンは困ったように口を閉ざす。
二人はしばらく無言で向かい合っていたが、やがて彼は言葉を発した。
「申し訳ございません。二千年後に我が君が待っておられます」
俯いたレノの顔が、悲しみに染まる。
今にも泣き出しそうだったが、彼女はぐっと涙を飲んだ。
そうして、無理矢理笑った。
「ずっ、ずるいよ」
「……ずるい、とは?」
「だって、魔王はシンとずっと一緒にいたんでしょ。私はこないだ会ったばかり。それじゃ、絶対に、勝てないよ」
泣かないように、泣かないように、彼女は必死に笑顔を作る。
なにか口にすれば、瞳から今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
あるいはそれが、シンにもわかったのかもしれない。
我が君が待っているとの言葉を、彼は繰り返さなかった。
「では、あなたへの礼に、不公平のないよう、月日の代わりになるものを差し上げましょう」
「……なにを、くれるの?」
「なんなりと。ここに留まれと言うのなら、それを守りましょう」
悲しい涙を流さないといったレノの言葉を守るためか、これまでの彼からすれば、意外な提案をシンは口にした。
レノはじっと考え、
「……じゃ、シン……あの、私と……」
恥ずかしげに、今にも途切れそうなか細い声で、彼女は言う。
「結婚して」
遠くから、その様子を窺っていたサーシャが「いきなりっ!?」と声を上げた。幸いにも、レノはそれどころではなく、聞こえていないようだ。「絶対、玉砕だわ……」とサーシャは小さく呟く。
「かしこまりました」
再び小さな声で「いいんだ……」とサーシャが呟く。
神話の時代は恋をせずとも、様々な事情を鑑み、結婚することは多かった。二千年後に生きるサーシャの価値観では、理解できぬのだろう。
「じゃ、いってらっしゃい、シン」
レノは心からの笑み見せる。
「二千年、ここで待ってるから。ずっと、シンが帰ってくるまで。そうしたら、今度は必ず、シンに愛を教えてあげるから」
引き止めたかったわけではない。
レノは約束が欲しかったのだろう。
二千年後にもう一度、シンに会うための。
「レノ」
シンは彼女の前にすっと跪いた。
レノの手を取ると、彼は言った。
「ディルヘイドとアハルトヘルン、どちらの流儀に?」
「え、えーと……?」
言っている意味がわからない、といったように彼女は戸惑いを見せる。
「婚姻の儀です。精霊にはありませんか?」
きょとんとした表情でレノは言った。
「行かなくていいの?」
「我が君は、結婚した者は必ず婚姻の義を執り行うように、と配下に仰せになりました。それを果たさず、転生するわけには参りません」
ふむ。そういえば、そんなことも言ったか。
結婚が必ずしもめでたいものではなかったが、戦時中だからと自粛する者が多かった。
とはいえ、いつ終わるやもしれぬ戦いに気を使っていても仕方がない。せめて、祝い事のときぐらいは、派手にしようと思ったのだ。
「じゃ、アハルトヘルンのでいいかな? ほら、みんなは、ディルヘイドの婚姻の義とかよくわからないから」
シンはうなずく。
「こちらは、ディルヘイドのものになってしまいますが」
彼はじっとレノを見つめ、言った。
「偉大なる魔王の御名に誓います」
顔を伏せ、レノの手の甲に、シンはそっと唇を寄せる。
驚いたように、彼女は目を丸くしていた。
「汝、大精霊レノを妻として迎え、死が二人を分かち、滅びが二人を分かち、宿命が二人を分かとうとも、心は永久に、共にあり続けることを」
神話の時代、ミッドヘイズで用いられた婚約の言葉であった。
あ、愛をすっ飛ばして、結婚してしまいました……。