優しい神
「知ってる人?」
壁面に刻まれた文字を見つめながら、そうミーシャが尋ねた。
「……ふむ。知ってはいるのだろうな。しかし、これだけでは誰なのかわからぬ」
すると、ミーシャはじーっと俺の瞳を覗き込んでくる。
俺の心中を計ろうとしているのか、しかし、どことなく咎めるような視線だ。
「……恋に落ちる……」
「そう書いてあるな」
「また」
淡々とミーシャは言った。
確かに、また恋に落ちる、と書いてある。
「二千年前も恋に落ちた」
「神話の時代に、珍しいこともあるものだ」
ミーシャは小首をかしげる。
「アノスを好きな人はいなかった?」
「さて、心当たりはない。この時代は、それどころではなかったからな。俺に恋心を抱くとは光栄な話ではあるが、恐らく言い出すことはできなかったのだろう」
「暴虐の魔王だから?」
俺はうなずく。
「平和ではなかったからな。自分の想いさえ、おいそれとは口にできぬ。内に秘めた想いを、人知れずここに記しておいたといったところか」
ゆるりと壁に近寄り、その文字にそっと触れる。
違和感を覚えた。
「どうかした?」
「魔法がかけられている」
一見して悟らせぬとは、相当の術者だろう。
俺は魔眼を働かせ、その文字に秘められた深淵を覗く。
「ふむ。なるほど。これは、夜まで待つ必要がありそうだな」
「先に熾死王を探す?」
「なに、もう日が暮れるまで時間もあるまい。しばらく、休むとしよう」
壁を背にし、その場に座り込む。
ミーシャは俺の隣に来て、ちょこんと座った。
「シンとレノは?」
「相変わらず、シンは振り回されているようだぞ。しかし、レノも苦労していると見える。なかなかどうして、お似合いではないか」
レイやサーシャたちと共有した視界から、アハルトヘルンにいるシンとレノのやりとりを眺め、喉を鳴らして俺は笑う。
「……シンは、愛を手に入れられる?」
「あの男が心から望むのならば可能だろう」
ぱちぱちとミーシャは目を瞬かせる。
「彼の根源は魔剣」
ミーシャが淡々と呟く。
「それでも平気?」
「魔剣だからと言って、人を愛せぬと思ったか」
俺の言葉に驚きを示すように、ミーシャは目を丸くする。
「真に心の底から願ったものが、手に入らぬというのなら、そんな世界は滅びてしまえばいい」
不安そうな顔をしたミーシャに、俺は続けて言った。
「創造神ミリティアは、そう口にした」
「……優しい世界を創った?」
「そうだな。彼女が創ったこの世界は温かく、愛と希望に満ちている。本来は、とても優しいものだった」
「変わったのは、どうして?」
「ノウスガリア然り、世界にはミリティアだけではなく、多くの神々が存在する。魔族の王が国を作ろうとも、その国は王一人の思い通りにはならぬ。世界もまた、多くの神族の意志により回っている」
こくこくとうなずきながら、ミーシャは真剣に俺の話に耳を傾ける。
「だが、根底にあるもの、この世界の根幹は、ミリティアの慈愛に満ちた秩序だ。心の底から願えば、彼女の創ったこの世界は必ず応えてくれるだろう。たとえ、どれほど荒廃しようと、どれほど争いが蔓延しようと」
ミーシャの優しげな視線が、俺の顔を撫でる。
「信じてる?」
「ミリティアは嘆いていてな」
そう口にすると、不思議そうにミーシャは首をかしげた。
「この世界には神々によって理不尽がもたらされ、悲劇が蔓延している、とな。悲しい世界を創ってしまってすまない、と彼女は俺に頭を下げたことがあった」
ほんの僅かに、ミーシャは微笑む。
「色んな神様がいる」
「そうだな。ミリティアと会うまで、神族というのは、魔族や人間、精霊のことなど考えぬものだと思っていた。どれだけ祈ろうと、奇跡など起こさぬものだとな。奴らは神にとって都合の良い奇跡だけを世界にもたらし、都合の良い秩序だけを守る。この世界で生きるものの事情など、おかまいなしに」
かつて、俺にとって、すべての神は理不尽そのものだった。
だが、そうではない者もいる。
「ミリティアは魔族のために、奇跡を起こした?」
「彼女の力は世界の創造。すでに創られたこの世界に対して、できることは限られている。世界を新しく創り直すことは、すなわち今この世界にあるものを壊すことと同義だ」
際限なく、新しいものを創造できるわけではない。
この世界がこの世界であるために、秩序と理を守るならば、なにかを手に入れるには、なにかを失う必要がある。
「大きな奇跡を起こすことで、別の大きな奇跡が失われる。なにかを創造すれば、なにかが破壊される。殆どの場合において、創造神ミリティアにできたのは、世界を見守り、願うことぐらいだった。すでに創られたこの世界が、優しい道へ進むように」
ミーシャは考え、そして言った。
「なにもしないことが、最善だった?」
「そうなるだろうな。神の力というのは、この世の秩序そのもの、世界のルールそのものだ。それゆえ、奇跡を行使すれば、自らの持つ秩序自体に歪みが生じる。それはこの地に生きる人々へ理不尽という形になって降りかかる。それでも、他の多くの神族たちは構わず力を使ったが、ミリティアはそうしなかった」
創造神は奇跡を行使することによって、自らの秩序が歪むのを恐れた。
創造の秩序が狂えば、世界へ与える影響は甚大なものとなる。
ミリティアには、なにもできなかったのだ。
なにもしないことが、彼女の精一杯の抵抗だった。
「彼女と一つ、約束を交わした」
「どんな約束?」
「どうにもならぬ悲劇と理不尽を、他の神々がもたらすというのなら、俺がそれを滅ぼしてやる、と」
ふふっ、とミーシャは笑った。
「優しい」
「大それたことではあるがな。優しく、慈愛に満ちた健気な神に、俺はどうしても教えてやりたかったのだ。彼女の創ったこの世界は、この世界から生まれた俺は、決して理不尽などには負けはしないと」
彼女の創った世界は優しいのだと証明したかった。
それは神ならぬこの身だからこそ、できることだ。
「だから、壁を作った?」
「理由の一つだ。俺とて平和が欲しかった」
ミーシャが静かに首を傾け、俺の肩に頭を預ける。
「アノス」
「なんだ?」
「世界は平和になった?」
「昔よりはな。だが、どうやら、まだ足りぬようだ」
俺に体重を預けたまま、ぼんやりとミーシャは窓に視線をやった。
暮れかかった太陽の光が、塔の内部を照らしている。
夕焼けを見つめながら、俺たちはしばし休息を取り、時が過ぎるのを待っていた。
やがて、日が完全に沈み、月が地上を照らし出す。
ぼんやりとした冷たい光が、塔の中に降り注いできた。
「頃合いだな」
俺とミーシャは身を起こし、壁面を見つめた。
魔法の仕掛けられた窓を通り、反射した月の光は、壁面の文字に降り注ぐ。
すると、刻まれていた文字が変化していった。
魔王アノスへ
熾死王エールドメードは、
戦死者を祀る墓地の館にいる。
腐死の魔法で、扉は開かれる。
それから――
暴虐と呼ばれるまで戦い続けた
優しい魔王の未来に、
どうか平穏が訪れるように。
わたしはいつもそばで、
見守っている。
最期のときまで、
ずっと。
「……不思議……」
ミーシャが壁面の文字を呆然と見つめながら、そう口にした。
「アノスが<時間遡航>を使うことを知っていないと、この文字は書けない……」
「恐らく、ミリティアだろうな。彼女は世界を見ている。俺が現代からこの時代に<時間遡航>でやってくることに気がついたのかもしれぬ」
「理滅剣は……?」
「ミリティアの仕業かもしれぬが、どうだろうな。神と言えど、なんでもできるわけではない。破壊神の力を秘めたヴェヌズドノアを操ることは、創造神には不可能だと思っていたが……?」
しかし、俺とて、神のすべてを知っているわけではないからな。
少なくとも、このメッセージを創造神以外に送ることができたとは思えぬ。
送る理由もないことだしな。
「創造神は、ここにいない?」
「ああ。デルゾゲードにいて、<時間遡航>のことがわかっているなら、俺に会いに来るだろう。元々、神族は自らの秩序に従い、地上に姿を現すものだからな。会いに来られないということは、今は神界にいるのだろう」
「……残念?」
ミーシャが不思議なことを言う。
「なぜだ?」
じっと考え、彼女は言う。
「そんな気がした」
「旧友に会えるのならばそれに越したことはなかったが、十分すぎるぐらいの置き土産をくれた。これ以上望んでは罰が当たるというものだ」
理滅剣と、エールドメードの居場所。まあ、理滅剣は定かではないが。
確かに、ミリティアの想いは受け取った。
「行くぞ」
<逆成長>でまた六才相当まで体を縮め、そのサイズの衣服を用意して纏う。
塔を後にし、俺たちは戦死者を祀る墓地を目指した。
ミリティアのことが少しだけわかりました。