ただ一振りの剣の如く
カカカ、と精霊の森に笑い声が響く。
愉快で愉快でたまらないといった、子供のように無邪気で、それでいて気味の悪い声が、何度も何度も木霊する。
絶命したはずのエールドメードは、しかし、むくりと起き上がった。
魔法陣が現れなかったところを見ると、<蘇生>さえ使ってはいない。
「……いいねぇ。強い、さすがは魔王の右腕……この熾死王の見込み通りだ。そうでなくては嘘だろう」
エールドメードの周囲に黄金の光が漂う。
強い魔力がその根源から立ち上るように噴出していた。
びくっとレノが体を震わせる。彼女はその魔眼を、エールドメードの深淵へ向けた。
「神族の、力……?」
彼女が呟く。
「その通り。ノウスガリアが魔王アノスに手酷くやられたのは知っているな。早急に力が蘇るように、このオレの体を宿主として貸してやったのだ。しかし、奴め、話しかけても、一向に返事をしない。ならば、宿主が死ねばさすがに出てくるしかないと思ってね」
カッカッカ、と彼はまた愉快そうに笑う。
「睨んだ通りではないか」
うまくいったというように、エールドメードは語る。
彼の命は略奪剣によって奪われたままだ。その身に潜むもう一つの力を借り、熾死王は喋っている。
「どちらに転んでも計算尽くというわけですか?」
シンの問いに、熾死王は破顔した。
「大精霊レノが死にかければ、ノウスガリアが現れる。現れずに死ぬようならば、神の子が取るに足らぬ存在だとわかる。そして、シン、オマエがそれを防ぎ、オレを殺そうとすれば、やはりノウスガリアが現れる。奴がオレ諸共滅びるのならば、その程度の神だ。なにがどうなろうと、この熾死王の思う通りだ」
「最後の選択肢であれば、あなたは滅びていたようですが?」
「死を恐れているようでは、あの魔王の敵を作ることなど到底できはしないのだ。命欲しさに自ら抱いた大望を忘れるなど本末転倒」
エールドメードはぐっと空をつかむように、拳を握る。
「夢を追いかけない生など、すでに死んだも同然、この熾死王には我慢がならん」
キラキラと淀んだ瞳を輝かせ、少年のように彼は言った。
「さあ、もったいぶらずに、とっとと出てこい、ノウスガリア。オマエが魔王の敵に相応しいというのならば、その力を見せてみろっ! でなければ、その神の力、この熾死王がそっくりそのままもらいうけるぞっ」
熾死王が声を上げると、彼の左胸に空いた穴がみるみる塞がっていく。
略奪剣ギリオノジェスの呪いが強引に解かれ、その命が奪い返された。
「平伏するがいい、愚かな魔族よ」
厳かに、そいつは言った。
外見は熾死王のままだ。
しかし、先程までとは、魔力の桁が明らかに違う。
「神の言葉は絶対だ」
人格が入れ代わり、エールドメードの体の支配権をノウスガリアが握る。
発せられたのは神の魔力が込められた、奇跡の言霊。
不可能を可能にさえするその響きが、刹那、バシュンッと音を立ててかき消された。
略奪剣ギリオノジェスが音よりも速く煌めき、その声を斬ったのだ。
「恐れ入りますが、私が平伏する相手は我が君ただ一人。たかだか神如きに、頭を下げる謂われはありません」
言葉と同時、シンは一瞬にしてノウスガリアの間合いに踏み込み、略奪剣の切っ先を、その喉元に突きつけていた。
「熾死王と協力したつもりが、アテが外れましたか?」
「ははっ」
ノウスガリアは軽やかに笑った。
「すべては神の秩序に従い、動いている。神を敬い、そして恐れよ。神の計画は絶対だ」
草花がざわめく。木々の隙間から、銀色の影が数十体飛び出し、レノに襲いかかってきた。神獣グエンである。
「何匹いようと無駄なことです」
略奪剣が煌めいたかと思うと、飛びかかってきた数十体のグエンがその場に伏した。足を斬られ、その動きを封じられたのだ。
「我々魔王軍は神など恐れはしません。いついかなるときも、魔族が畏れ、敬うのは、かの暴虐の魔王、ただお一人です」
レノのいる場所に<飛行>で後退したシンは、その場に魔法陣を描く。中心に左手を差し入れれば、禍々しい魔力がそこから溢れた。
「我が君の魔法を受けた手負いの体で、なにをなさるおつもりですか」
ニヤリ、とノウスガリアは笑った。
「神殺しの凶剣」
その言葉に、シンはぴくりと眉を上下させる。
「魔王に拾われ、ずいぶんと人らしい心を持つようになったようだが、その胸に空いた空虚は永遠に埋まることはない」
尊大な物言いで、ノウスガリアは言う。
「君の心には愛がない。ゆえに君は常に渇望し、空虚とともに生きている。転生を望んだのは、その穴を埋めたかったからか?」
シンは無言で、ただノウスガリアに鋭い視線を向けている。
「蒙昧な君に、神の知恵を授けよう」
高らかに、まるで神託を与えるかのように天父神は声を発する。
「何度生まれ変わろうと、どれだけ希おうと無駄な足掻きだよ。その根源からは、そもそも愛という感情が欠落しているのだから。君は永遠に空虚を感じるために生まれた。ただ斬ることでしか、外界とつながる術を知らない、憐れな凶剣だ」
そのとき、雷の矢がノウスガリアの顔面に直撃した。
反魔法を纏っていた彼は無傷。
<霊風雷矢>を放ったレノが、憤りを露わにするように言った。
「勝手なことを言わないでっ! シンは無愛想で、融通が利かない頑固者だけど、あなたよりはよっぽど優しいよっ!」
「ははっ」
ノウスガリアが嘲笑う。
「大精霊レノ。では、蒙昧な君に神の知恵を授けよう」
天父神は厳かに言う。
「彼の根源は本来、魔族のそれではない。魔剣なのだよ。神殺しの凶剣シンレグリア。遠い昔、魔族の先祖が神と戦うために生み出したものだ」
ふむ。それは初耳だな。
元々、シンは自分のことを語るような性格ではない。
俺も尋ねはしなかったからな。
「神々の伝承に曰く、神を斬り続けた魔剣は、次第にその意志を明確にしていった。一方で、シンレグリアの使い手であった古い魔族は、自らの力の限界に気がつく。神を滅ぼすことはできないとね。では、彼はどうしたと思う?」
愉快そうにノウスガリアが尋ねる。
レノは黙って、その続きを待った。
「シンレグリアに自らの力のすべてを与えたのだ。いつの日にか、その魔剣を使い、神を滅ぼす者が現れると信じ。そうして、古い魔族は消え、シンレグリアは魔族の体を手にしていた」
厳かに、尊大に、ノウスガリアは言葉を放つ。
「古い魔族にとっては、予期しないことだっただろう。数奇な偶然が重なり、そうして、神殺しの凶剣は魔族になったのだ。しかし、体を手に入れ、意志を持とうとも、所詮、魔剣は魔剣。戦うために生まれたシンレグリアに、愛が宿ろうはずもなかった。彼は、魔族の姿をした、一振りの剣。自らを使いこなすに相応しい主を選び、その命に従い、ただ戦場で敵を斬り続けた」
シンの忠誠心の高さは、元々の根源が持ち主を選ぶ魔剣であったからか。
確かにその手の魔剣や聖剣は、認めた主をそうそう裏切ることはない。
「半端な魔族となった君は、心の欠損を未来永劫持ち続け、空虚に苛まれるだろう。だが――」
ノウスガリアがニヤリと笑う。
そうして、祝福を与えるかのように、シンに言葉を発した。
「感謝するがいい、神殺しの凶剣。君に神の奇跡を授けよう。君が永遠に求め続け、決して手に入らぬ愛を、秩序の支配者たる我々ならば、与えることができる」
ノウスガリアがまっすぐシンに向かう。
レノと同じように、水面を歩いていた。
厳粛に、魔法のように、ノウスガリアは言った。
「君に愛を授ける。大精霊レノを母胎として産まれる、神の子を育てよ。魔王を滅ぼす、世界の秩序を」
その言葉を、シンは略奪剣ギリオノジェスで切断し、魔法陣から斬神剣グネオドロスを引き抜いた。
「残念ながら」
閃光が煌めく。
瞬きをする間もなく、ノウスガリアの首が飛んだ。
「あなたが言われたことです。所詮、魔剣は魔剣。私に愛など必要ございません。この身はただ一振りの剣の如く、未来永劫、我が君にお仕えいたします。この胸の空虚とともに」
ノウスガリアの首が地面に落ち、二回ほど跳ねた。
ごろりと転がり、こちらを向いたその目が、二人を睨めつけた。
「神の言葉は絶対だ。君たちは、秩序からは決して逃れられ――」
言葉を口にするより先に、斬神剣グネオドロスがその首を貫く。
魔力の粒子が霧散するかの如く、ノウスガリアの首が消滅した。
「……逃げられましたか……」
シンが視線を険しくする。
周囲を取り囲んでいた神獣たちの姿が、いつのまにか消えていた。
「申し訳ございません。神族はそうそう滅びませんが、しばらくは大した動きもとれないでしょう。残るはあの神獣のみ。ノウスガリアが力を取り戻すまで、これ以上数が増えることもないでしょう。まもなくここも、元のアハルトヘルンに戻ります」
「……うん……」
浮かない表情でレノはうなずく。
「どうかしましたか?」
「うぅん。帰ろ」
「先導いたします」
シンが前を歩き、エニユニエンの大樹の方へ向かう。
彼の後ろを俯き加減で、レノはとぼとぼと歩いていた。
彼女は何事かを考えているのか、視線を上に上げたり、首をかしげたり、また俯いたりしていた。そうして、エニユニエンの大樹が見えたところで、思いきったように、顔を上げた。
「シン」
レノが立ち止まる。
シンはそれに気がつき、彼女を振り返った。
「ありがとう、また守ってくれて」
「我が君の命でございます」
ゆっくりとレノは首を横に振った。
「ごめんなさい」
一瞬、シンは返事に詰まった。
「なんのお話ですか?」
「涙花の花畑のこと。もっと本気出してなんて言って、ごめんなさい」
涙花は愛情で育つ花だ。
しかし、シンにはその愛が欠落している。
「ご安心ください。傷つくことも、ありませんので」
「でも、シンは、空虚だって言ったよ」
俯き、悲しげにレノは言った。
「大したことでは――」
「空虚だって言ったよ! 私は大したことだと思うっ!」
レノはシンのもとへ足を踏み出し、その手を取った。
「私が、シンに愛を教えてあげるよ」
「……よく意図がつかめませんが?」
「だって、私を守らなかったら、シンは、愛を手に入れられていたんだよ」
静かにシンは言葉を発した。
「我が君の命です。あなたが気に病むことはありません。それに、あの神の言った通り、私の根源からは愛が欠落しております。なにをしようとも――」
「そんなことないよっ。私はシンにも、ちゃんと心があると思う。ただちょっと、それがわかりづらいだけ」
言い聞かせるようにレノは語り、笑顔を見せた。
「がんばってみるから、つき合ってよ。残りの神獣を見つけて、シンが転生するまででいいから」
「……それは、護衛への命令でしょうか?」
「命令じゃないけど、シンが言うことを聞いてくれるなら、命令ってことにするよ」
しばし、シンは考え、それから言った。
「わかりました」
「じゃ、行こっ。みんなとまたお花畑で遊ぼうよっ」
二人は並んで、またエニユニエンの大樹へ戻っていった。
レノがシンに教えてあげたい愛は、どんな愛なんでしょうね。