涙花
エニユニエンの大樹が誕生後、レノはその中を案内してくれた。
教室やグニエールの階段、雲の回廊など、魔法の時代にあったものは、すでに大体備わっている。
大樹の一番上にあった小さな城は、レノの住まいとして使われるようだった。二千年後には精霊王がそこにいたが、このアハルトヘルンを統べる者が住む城なのかもしれない。
切り株の並べられた教室に戻ってきた後、彼女は言った。
「とりあえず、これで一通り見たかな? 広いから他にも色々お部屋があるけど、後はエニユニエンに聞いてみて。一応、この大樹の中は暴力を振るえないようにエニユニエンが魔眼を光らせているし、神獣が襲ってきても心配ないよ」
エニユニエンの大樹は、神族からの襲撃に備えて生まれた精霊だったわけか。
「大精霊レノは、自由に精霊を生むことができるのだな」
そう口にすると、俺と目線を合わせるようにレノはしゃがんだ。
「自由にってわけじゃないよ。さっき見てた通り、私の涙は、噂と伝承を精霊化するんだけどね。私が生まれてほしいって心から願った精霊じゃないと生まれないから。思ったのと違う精霊が生まれることもあるし、無意識の内に生まれるときもあるよ」
「んー? 心から願った精霊が生まれるんなら、自由に生めてるぞ?」
エレオノールが不思議そうに言った。
「あー、うん。そうだけど、そうじゃないんだよ。私の願いは、みんなの噂と伝承からできてるから。母なる大精霊として、私は相応しい子を生むんだ」
自身の願望さえも、噂と伝承に左右されてしまう、か。
なかなか、精霊というのも不自由なものだな。
「それに、精霊は私の涙とは関係なく、自然にひょっこり生まれることの方が多いから。リィナもきっとそうだよ」
確かに大精霊レノの涙でしか生まれなければ、レノがどうやって生まれたのか、という話にもなる。彼女が最古の精霊というわけでもないだろうしな。
愛の妖精フランは、レノが亡き後に自然に生まれた、と考えるのが妥当か。
詳しく訊きたいところだが、今この場にはリィナもいる。自分が愛の妖精だと気がついたら彼女は消えると言っていたしな。
また機会を改めるしかあるまい。
「アノシュたちは、しばらくアハルトヘルンにいる?」
「できれば、厄介になりたいところだ」
「うん、いいよ。さっき、シンとも相談したけど、特に怪しい魔族じゃなさそうだし。旅芸人なんて滅多に来ないから、みんなも喜ぶから。ここにあるものは、なんでも好きに使っていいよ」
「恩に着る」
レノはそう口にして、歩き出した。
「シン、一緒に来て」
シンは無言でレノの後についていった。
「さて」
切り株から俺は立ち上がる。
「レイ、ミーシャ。二人を見張っておいてくれ」
「ん」
ミーシャがうなずく。
「君はどうするんだい?」
「少々確認しておきたいことがあってな。他の者はしばらく好きにするといい」
教室のドアを開け、外に出た。
すると、後ろからとことこと足音が聞こえた。
ゼシアだ。
「一緒に来るのか?」
「……護衛……です……」
ゼシアが俺を守るように、ぴたりと隣についてくる。
これは? シンに影響を受けたのか?
「アノシュ君が小さくなったから、自分の方がお姉さんだと思ってるみたいだぞ」
エレオノールがやってきて、そんなことを宣った。
「ふむ。確かに体は小さくなったが、ゼシアに守られるほどでは」
「……ゼシア……お姉さん、です……!」
いつになく、ゼシアの表情が輝いている気がする。
「くすくすっ、普段は自分より大きい人しかいないから、張りきってるみたいだぞ」
「……アノシュ……ゼシアがいるから……安心です……」
ゼシアが俺の頭を撫でてくる。
やれやれ、仕方あるまい。
いつになく感情を主張しているのだ。無碍にはできぬ。
「頼りにしているぞ」
「……お任せ……ください!」
エレオノール、ゼシアと一緒にエニユニエンの大樹の中を進んでいく。二千年後にリィナに教えられた道順通り歩き、同じ場所を何度か通過した。
三叉路を右に入ると、通路に石像が見えた。
鎧を着た人型のカエルである。現代では真っ二つに切断された盾を持っていたはずだが、今はなにも手にしていなかった。
特に気に留めることなく先へ進み、ある扉の中へ入る。
小さな部屋だ。なにもない。振り返り、すぐに俺は扉を開けた。
そこには、広大な森があった。
本の妖精リーランがいる『本の森』である。
ざっと木になっている翠の本に視線を巡らす。
「ふむ。一〇〇冊ほどか」
「……探し物……しますか?」
「そう思ったのだが、恐らくないだろう」
「……ない……ですか……」
ゼシアは落ち込んだように目を伏せる。
「まあ、一応探してみるか。愛の妖精フランが載っている翠の本を探してくれるか?」
嬉しそうにゼシアがうなずく。
「……頑張り……ます」
ゼシアが森を駆けていき、翠の本を捕まえ始めた。
「一〇〇冊ぐらいしかないってことは、精霊がまだ生まれてないのかな?」
エレオノールが不思議そうに訊いてくる。
「恐らくそうだろうな。今ならば、ページも破られていないと思ったが」
そう口にすると、本の森中に嗄れた声が響いた。
「すまぬのう。まだ教育の準備が調っておらぬのじゃ。もうしばらくすれば、本の妖精リーランもすべて揃うはずじゃて。授業もそれからじゃ」
エニユニエンの声だった。
後々揃うというのならば、フランのことはそのときに調べればいいか。
「ゼシア、調子はどうだ?」
「……まだ……です……」
ゼシアは本を十数冊ほど頭の上に載せ、本の妖精リーランと追いかけっこをしている。本を落としそうになりながらも、絶妙なバランスを保っていた。
「別の場所へ行く用事があるが、どうする?」
ゼシアは困ったように、俺とリーランを交互に見た。
まだ本を集めたそうにしている気がする。
「では、お前にリーランを集める任を頼もう。極秘任務だ。誰にも言うな」
「……了解……であります……」
誰の真似なのか、ゼシアが可愛らしく跪く。
どうやら乗り気のようだな。
では、ここはゼシアに任せるとするか。
「ボクも見ておくから安心していいぞ」
エレオノールが人差し指を立てて、そう言った。
「なにかあったら報せろ」
「うん」
本の森を後にして、俺はミーシャに<思念通信>を飛ばした。
「シンたちは一緒にいるか?」
『いる。グニエールの階段の先にある、見えない階段を渡って、見えない扉の向こうに来た』
あそこか。俺はまた大樹の中を歩いていく。
二千年後では精霊の試練に使われていたグニエールの階段を上った後、目に見えない階段を進み、見えない扉を開けた。
目に飛び込んできたのは荒野だった。
二千年後には一面に花が咲いていたが、今は草も生えていない。
「はい、シン。これなーんだ?」
レノが手を広げてみせると、五本の花が浮かんでいた。彼女の髪と同じく、湖のような鮮やかな青である。
「わかりません」
「涙花って言ってね、私の涙を吸ったお花なんだよ。ほら、さっき、エニユニエンの大樹を生んだお花があったでしょ。これは、その残りの涙から生まれたお花」
「精霊のもとということですか?」
「もとかもしれないし、そうじゃないかもしれないよ。涙花が枯れずに実を結べばそれは噂と伝承を精霊化する。枯れちゃったら、私の涙も消えちゃうから」
花畑の中央に、レノは魔力で涙花をそっと下ろす。
たちまち、五本の花は大地に根を下ろした。
「枯れないように、涙花には愛情を込めてあげるんだよ。こうやってね」
レノの手の平に、薄い水の球が現れる。
花に水をやるように、彼女は水球から小雨を降らす。
すると、涙花はすくすく成長し、大きな花びらをつけた。
みるみる内に、地面から新しい芽が生え、涙花の数を増やしていく。
あっという間に荒れ地の半分が、花畑になっていた。
「まだこれぐらいが限界かな。シンもやってみてよ」
ニコッと笑い、レノは言った。
仏頂面でシンは彼女を見返す。
「私がですか?」
「うん。えっとね」
魔法陣を描き、レノはその中に手を入れる。
取り出したのは鉄のじょうろだった。
「はい。帰るときに買ってきたんだよ」
「……なぜ、私が?」
「シンはね、もうちょっと生き物とか、生命と触れ合うといいと思うんだよ。そうしたら、きっと楽しいよ」
シンは腰に提げた鉄の剣をそっと抜き、その剣身を見つめながら言う。
「生き物との命の触れ合いならば、数え切れないほど」
「そういうんじゃないよぉっ!」
レノは声を上げたが、シンは真剣そのものだった。
「おっしゃる意味がわかりませんが」
シンは鉄の剣を鞘に納める。
「やってみればわかるよ。やってみよー」
レノはシンにじょうろをぐいと押しつける。
彼女は魔法を使い、じょうろの中に水を入れた。
ニコッとレノは笑う。
「仕方がありませんね」
母なる大精霊の笑顔に押し負け、シンがじょうろで辺りの花々に水をやる。
すると、ものすごい勢いで花が枯れ始めた。
「待って待って、だめだよ、シンッ。涙花を育てるには愛情、愛情が大事なんだよ。そんな殺伐とした気持ちで水をやったら、あっという間に枯れちゃうんだから」
「どうすればいいのですか?」
「笑ってよ。まずは笑顔っ、それが愛情なんだから」
シンは無表情と言っても過言ではないぐらいの笑顔を見せる。
「こうですか」
先程よりも、花の枯れる速度が加速した。
「もーっ、だから、愛情だってば、愛情ぉっ。もっと本気出してよ」
「愛など知りません」
「あー、そういう意固地な態度、よくないよ。だって、シン、魔王アノスのことは好きなんでしょ?」
驚いたように、シンは僅かに目を丸くする。
「それは愛だよ、愛。だから、魔王を好きな気持ちで水をあげればいいんだよ」
レノが無邪気な顔で詰め寄った。
「我が君には好意を抱くことさえ畏れ多くございます。私がお仕えしたのは、愛ではなく、恩義によるもの。かの魔王は、剣にすぎないこの身を救った、ただ一人の御方です」
「それ、どういうこと?」
「どうかお気になさらずに。面白い話ではありません」
レノは不服そうにシンを睨んだ。
そのとき、クスクス、と笑い声が聞こえた。
「仲良し」
「こよし」
「レノと」
「剣のオジサン」
現れたのは妖精ティティたちである。
「いいな」
「羨ましい」
「遊びたいな」
「ティティも遊びたいっ」
妖精たちはシンの周りを飛び回りながら、口々に言う。
「遊んで遊んで」
「ねえ、遊んで」
「剣のオジサン」
「遊びましょっ」
シンは少々戸惑ったように彼女たちに視線をやる。
レノはあははっと笑った。
「さっき助けてあげたから、懐かれたんだよ。遊んであげたら?」
「遊びなど知りません」
そう言って、シンは踵を返す。
「じゃ、鬼ごっこー」
「鬼ごっこしよ」
「精霊鬼ごっこ」
「剣のオジサンが鬼ー」
きゃっきゃっと騒ぎながら、ティティたちが飛び回る。
「みんなおいでー」
「ジェンヌルー」
「ギガデアスー」
「セネテロー」
精霊たちが花畑に集まってくる。
シンに助けられた恩返しをしようと思ってるのか、皆、彼の方をじっと見つめ、遊びたそうにしている。
「アノシュたちもやる?」
レノが訊いてくる。
「いや、遠慮しておこう。長旅で疲れていてな」
「そっか。じゃ、精霊たちみんなで鬼ごっこだね。みんなー、シンから一分逃げ切れたら、シンがなんでも言うことを聞いてくれるって」
レノがそう言うなり、精霊たちは一斉に逃げ出していく。
「私も遠慮しておきます」
シンが背を向け、去っていく。
すると、レノが悪戯っぽい表情を浮かべた。
「へえー。魔王アノスの右腕は私たちを捕まえる自信もないんだ。そうなんだぁ」
ぴたりとシンは足を止める。
「聞き捨てなりませんね」
シンは振り返りながら言う。
目が据わっていた。
「じゃ、やろうよ。準備はいい?」
シンはうなずく。
彼の全身から殺気が漂う。
本当に鬼ごっこだとわかっているのか、怪しくさえあった。
「一分だからね。いくよっ。みんな、逃げてー」
「恐れ入りますが」
シンがそう声を発した途端、彼の姿が消えた。
「きゃうっ」
ティティが、なにかに当たったようにびくんっと震える。
次々と、他の妖精たちも同じような反応を見せる。
「タッチされたー」
「はやーい」
「剣のオジサン、はやーい」
楽しそうに、ケラケラとティティたちは笑う。
ギガデアスもセネテロも、目に見えぬほどの速度で走り回るシンに、あっという間に捉えられていく。
「せめて一〇秒でなければ、鬼ごっこにもなりません」
シンは立ち止まり、目を閉じる。
ジェンヌルを捕まえるためだろう。目に見えぬ神隠しの精霊が花畑を駆ける。しかし、彼はそれを気配のみで容易く捉えた。
「あなたは、なかなかの速度ですね」
ジェンヌルの頭にシンは手を置く。
まるで主人に可愛がられる犬のように、ジェンヌルは嬉しそうに尻尾を振った。
「しかし、我が君であれば、この半分以下の時間で全員を捕まえたことでしょう」
「そのまま撫でてあげてよ」
レノが言う。
シンは目を閉じたまま、彼女の方に顔を向ける。
「ジェンヌルと一緒に走り回れる人なんて滅多にいないから」
目を閉じなければ存在できぬジェンヌルと走り回れる者は、確かにそうはいないだろうな。
「これでよろしいですか」
シンがジェンヌルの頭を撫でる。
巨大な狼がその場に座り込み、猫のように大人しくなった。
「シンは精霊みたいだよね」
「どういう意味でしょうか?」
「愛を忘れた、剣使いの精霊。いそうだと思って」
シンは興味を示さず、無言だった。
「ねえ、シン。鬼ごっこに負けたことある?」
「あまりしたこともありませんが、賊を取り逃がしたことはありません」
「じゃ、今日は初めての負けだよね」
シンが疑問の視線を彼女に向ける。
「精霊たちみんなで鬼ごっこだよ。私だって精霊なんだから」
すでに一分が経過した。
鬼ごっこはレノの勝ちと言えなくもない。
「ちょっとズルをしたけど、勝ちは勝ちだよ。あ、もちろん、魔王の右腕がすごいっていうのはわかったけど」
シンの扱いを心得たように、レノは言う。
「言い訳はいたしません」
「じゃ、シンにはなにをしてもらおうかなぁ?」
と、そのとき、この場所に嗄れた声が響いた。
「――レノ、客人が見えておる。そなたと、シンに用事があるようじゃて――」
レノは途端に真剣な表情を浮かべた。
客人ということは、精霊ではないのだろう。
「誰?」
「熾死王エールドメードと名乗っておる。神族のことで話したいことがあるそうじゃ」
とうとう熾死王、登場することができるのでしょうか。
まともな人だといいですよねぇ。