神隠し
隠狼ジェンヌルはその口を天井に向け、遠吠えを上げた。
ドゴォォォンッと巨浪の体躯に雷が落ちたかと思うと、ジェンヌルはそれを纏った。
バチバチと迸る無数の雷は、あたかも奴を守る鎧のようだ。
触れれば、たちまち焼け焦げるだろう。
「無駄なことよ」
冥王イージェスは右手の爪を鋭利に伸ばす。
そして、自らの左胸を貫いた。
イージェスが右手を引き抜けば、夥しいほどの赤い血が溢れ出る。それは冥王の力の源。その根源から流れる魔力を、血液と混ぜ合わせることで、奴は魔槍を作り出す。
血が変化し、赤き槍が構築される。
次元を貫く槍、紅血魔槍ディヒッドアテムである。
「我が魔槍に貫けぬものなどありはせん。いかな鎧も、いかな速さも、ディヒッドアテムの前には無と知るがいい」
重心を落とし、穂先を標的に向けるようにして、どっしりとイージェスは槍を構える。
ジェンヌルとの距離は一〇メートルほど離れているが、すでにそこは冥王の間合いだ。
否、イージェスの魔槍に間合いなどという概念は存在しない。
「行くぞ」
イージェスがディヒッドアテムを突き出す。
槍の前半分が消え、それはジェンヌルが纏った雷の内側に現れた。
瞬間、稲妻のような速度でジェンヌルは真横へ飛んだ。
「ぬるい」
高速で駆けるジュンヌルを追うのは至難の業であろう。しかし、ディヒッドアテムの穂先はどれだけ隠狼が素早く動こうと離れることはなく、その巨躯に突き刺さった。
「ぬんっ!」
突きだした槍を、イージェスは思いきり振り上げる。
鮮血が溢れ出すとともに、ジェンヌルの体が真っ二つに割れた。
しかし、イージェスは油断なく、再び槍を構える。
彼の隻眼の魔眼が、隠狼の深淵を覗いていた。
「その体がまやかしであることは承知だ。真の姿を現すことよ」
二つに割れたジェンヌルの体が、魔力の粒子となり、霧散していく。
ヒビ割れた声がした。
「――我は隠狼ジェンヌル。決して姿を見られることなき、神隠しの精霊なり――」
地響きのように雷鳴が轟き、辺りの黒雲に無数の雷が走った。
それらがすべて、狼の形となり、大きな咆吼を上げる。
「ふむ。ざっと一〇〇はいるか」
リィナを守るように、俺は反魔法と魔法障壁を展開する。
「そこから動くな」
「う、うん」
雷鳴が轟き、狼と化した無数の雷が音よりも速く飛びかかってきた。
「何匹いようと同じことよ」
イージェスは魔槍の真ん中を支点にし、高速でそれを回転させる。
飛びかかった雷の狼は赤き槍に斬り裂かれ、後ろに控えていた残りの狼も瞬く間に消滅した。
だが、その直後、再び雷鳴が轟き、今度はその倍の数の雷狼が目の前に現れていた。
「隠狼ジェンヌルは神出鬼没、どこからともなく現れ、行方も知れずに、人をさらう。神隠しの精霊とはよく言ったものだな」
目の前にいる雷狼は、どれもジェンヌルの本体ではない。
とはいえ、翠の本にも、ジェンヌルの正体がどうなっているのかまでは、記載がなかった。
「では、雲がなくなればどうだ?」
俺は手をかざし、多重魔法陣を描く。
狙いは、この場にあるすべての雷雲だ。
「<風滅斬烈尽>」
風の刃が吹き荒び、雷雲という雷雲を欠片も残さず切り刻む。
雷雲が滅尽すると、辺りは無数の大樹の枝に覆われていた。
足場を作っていた雲が消えたため、俺は近くの枝の上に<飛行>で下りる。少し離れた枝へリィナを飛ばして、乗せた。
「さて、再び雲が現れるならば、それが本体に関係しているだろうが?」
言った途端、ボォッと、大樹の枝の一つが炎上する。
次々と枝が燃え始め、やがて、その炎は狼の姿を象り、遠吠えを上げた。
「ふむ。特に雷でなくとも良いらしいな」
炎狼たちは、辺りの枝という枝に突撃し、それらを燃やす。
すると、燃え移った炎は狼の形となり、また枝に突撃していく。
炎狼はみるみる内に数を増した。
「小賢しいことよ」
冥王イージェスが左手を握る。
自らの爪で傷つけ、その手に血が滴った。
「<血霧雨>」
血の霧雨がこの場いったいに降り注ぐ。
それが炎狼に付着すると、じゅわっと蒸発すると同時に消火した。
枝という枝についた炎が<血霧雨>の魔法によって、鎮火されていく。
炎狼は残らず消滅した。
だが、それも束の間、今度は降り注ぐ太陽の光が、その場に狼の姿を形作る。
無数の光狼が、枝の上で同じように遠吠えを上げた。
狼たちの全身が、間近で見る太陽の如く輝き、俺たちの目を暗ます。
瞬間、鋭い牙を剥き、光と見紛うまでの速度で一斉に飛びかかってきた。
「<四界牆壁>」
黒いオーロラを傘として、太陽を遮る。
光の狼はたちまち消え去ったが、今度は一陣の風が吹いた。
それらが竜巻のように渦を巻き、狼の姿を象る。
数百体もの風狼が、俺たちを取り囲んでいた。
魔槍を構えようとしたイージェスは、しかし、はたと気がついたように、隻眼の魔眼を辺りに巡らせた。
「……精霊の娘が…………?」
先程までリィナがいた枝の上には、誰もいない。
展開した反魔法も魔法障壁もそのまま残っている。
どこを見渡しても、リィナの姿は影も形もなく消えていた。
「ふむ。神隠しにあったというわけだ」
俺はリィナから一瞬たりとも魔眼を離さなかった。
にもかかわらず、彼女は消えた。
隠狼ジェンヌルの仕業に違いないだろう。
そのとき、風が吹いた。
同時に、風狼たちがその爪と、牙を向けて、飛びかかってくる。
「火でも風でも同じことよ」
イージェスがディヒッドアテムを突きだし、風の狼たちを悉く仕留めていく。
しかし、風はやまず、風狼は増える一方だ。
壁を作り、風を防げば風狼は消える。
だが、またなにか別の狼が生まれるだけだろう。
隠狼ジェンヌルはどこかにいる。
その証拠にリィナが神隠しにあった。
彼女の行動が、ジェンヌルの本体につながるヒントになるはずだ。
消える直前、リィナはなにをしていた?
神隠しにあったのは、飛びかかってきた無数の光狼を、<四界牆壁>で消すその間際だ。
光狼に食われたわけでもない。
にもかかわらず、彼女は消えた。
その理由は――
「ふむ。そういうことか」
呟くと、イージェスから<思念通信>が送られてきた。
『なにかつかんだかよ、魔王』
『ああ。今から、隠狼ジェンヌルを捕まえてみせよう。奴の体内に神隠しにあった者たちがいるはずだ。どういう理屈かはわからぬが、魔法空間の類に違いはない。お前の魔槍ならあらゆる次元を貫ける。入り口を作れるはずだ』
とはいえ、ジェンヌルも黙ってやられるとは思えぬ。
悟られぬようにやらねばなるまい。
『チャンスは一瞬しかあるまい。しくじれば逃げられて終わりだ』
『一瞬あれば十分よ。そなたが本当に捕まえられるのならばな』
手をかざし、その場に魔法陣を描く。
奴も俺も、相手が失敗するなど微塵も考えてはおらぬ。
互いにその力は、百も承知だ。
俺たちはかつて敵であり、そして味方だったのだ。
『風を止め、音を聞け』
「<血球体>」
冥王は左手から血を撒き散らし、それらがこの広大な空間を覆う薄い球と化す。
内部は無風の空間となり、風狼たちが消えていった。
同時に<四界牆壁>を消すと、頭上から太陽の光が降り注ぎ、再び光狼たちが姿を現す。
もう一度、魔眼を凝らして見てみたが、やはり、こいつらが隠狼ジェンヌルを出現させる条件ではないようだ。
では、なぜリィナが神隠しにあったのか。
あのとき、襲ってきた光狼は目映いほどの光を放っていた。それにやられ、リィナは反射的に目を閉じたのだろう。
決して姿を見られることなき、神隠しの精霊。
隠狼ジェンヌルの言葉をその通りに捉えれば、奴の姿を見ることはできない。
裏を返せば、ジェンヌルは奴の姿を見ていないときにのみ、姿を現す。
それもどういう理屈か、目を閉じた本人の前だけに。
目に見えないのではなく、目を開けている間は本当に存在しないのである。
恐らくそれが、神隠しの精霊の特性だ。
俺は肉眼と魔眼を閉じる。
音もなければ、気配も感じぬ。
だが、今、確かにそこにいるはずだ。
俺を神隠しにあわせようと、襲いかかってきているだろう。
<森羅万掌>の手を目の前に伸ばし、そして確かに掴んだ。
この瞬間、奴は実体化し、存在している。
ヒビ割れた声が頭に響く。
「――決して見ることの適わぬ我を捕まえるとは、見事だ。通るがいい、アノス・ヴォルディゴード――」
扉の開く音が聞こえ、<森羅万掌>の手から隠狼の感触が消える。
目を開ければ、そこに隠狼ジェンヌルの姿はない。
イージェスが立っていた。
『どうだ?』
と、<思念通信>を送る。
『しくじるものかよ。あの犬コロに気がつかれぬよう、神隠しの空間に穴を空け、そこに目印を置いた。<転移>で移動できようぞ』
魔法空間に穴があるなら、助け出すのは容易い。
ディヒッドアテムで貫かれたものはそうそう直すこともできないだろう。
『あの精霊の娘とそなたの配下は任せておくがいい』
イージェスは融通の利かない性格ではあるが、ギリシリスと違い、約言を違えるような男ではない。
卑劣な手段は、冥王の最も忌避するところだ。
『お前と戦うことがなければいいがな』
『それは成り行き次第よ。今回は目的が一致したまでのこと』
イージェスをその場に残し、俺は扉の向こうへ向かった。
その途中、レイの視界に目を向ける。
精霊王の姿が見えた――
ギリシリス(スライム)とイージェス(眼帯)の人格者格差問題……。