遠い記憶
授業の終了を告げる鐘と鈴の音が鳴った。
「うむ。では今日はこれまでじゃ。なにか質問はあるかのう?」
エニユニエンの大樹が言う。
俺は手を挙げた。
「いくつか訊きたいのだが、まず精霊王とはどんな精霊だ?」
「ふぉっふぉっふぉ。精霊王様はこの大精霊の森、アハルトヘルンを治め、守ってくださる御方じゃて」
「ふむ。では、どんな伝承から生まれた?」
「それは、まだ言えんのう。精霊王様の事情は複雑じゃて。まずは基礎を勉強してからじゃ。お主には卒業の印を授けたが、この後も授業は受けていくかの?」
ここにシンたちがいる以上、外に出ても仕方がない。
「ああ、まだここで学ぶことがある。もう一つ尋ねよう。神隠しについてだ。俺の配下がここで神隠しにあっているはずだが、それは知っているか?」
「うむ。小テストで落第点を取った者たちじゃな。確かにこの精霊の学舎に入学しておる。落第点を取った者は、隠狼ジェンヌルによって、神隠しにあう。そこでは世にも恐ろしい補習が待ち受けておるのじゃ。ああ、心配せんでも、真面目にやっておれば大体、五年以内には元の学舎に戻って来られる」
五年か。さすがに待ってはいられぬな。
「神隠しというのは具体的にはなんだ?」
「さて、なにかのう? そういう噂と伝承があるのじゃ。この世の境目に隠されたとも、隠狼ジェンヌルに食べられ、その体内に隠されているとも言われておる。理屈はよくわからんのじゃが、まあ、ジェンヌルならば、隠された者たちをまたこの学舎に戻すことはできる」
噂と伝承を元にした精霊の奇妙な特性によるものか。
だとすれば、力尽くで取り返すのは骨が折れるかもしれぬな。
「精霊王に頼めば、神隠しにあった者を取り戻せると聞いたが?」
「うむ、その通りじゃ。隠狼ジェンヌルは精霊王様の番犬じゃからのう。精霊王様の命令があれば、神隠しから返してくれるじゃろう」
「精霊王に会うには、精霊の試練を受ける以外にないのか?」
「そうじゃのう。この学舎の決まりじゃて」
破れば、相応の罰を受けるということだろうな。
厄介なことだ。
「先程、精霊の試練を受けるには小テストを何度か受ける必要があると言っていたが、最短で何度受ければいい?」
「最短では、三回じゃて。平均八〇点以上とれば、精霊の試練に挑戦できる」
三回か。多いな。
「一回にしてくれ」
「は?」
素っ頓狂な声が響く。
「あまり時間がなくてな。一回にしてくれ」
「うむぅぅ。お主には卒業の印をやったが、精霊の試練となるとまた別じゃ。精霊王様に謁見ができる唯一の機会じゃからの。わしの裁量だけでは難しいものがあるのう」
「次の小テストで三回分まとめてやれば問題あるまい」
「小テストと言えども、その出題数は膨大じゃて。すぐには作れんからこそ、期間を空ける必要があるのじゃ」
「ふむ。そうは思えぬがな」
さりげなく言うと、エニユニエンの大樹は興味を示した。
「……どういう意味じゃ?」
「なに、教育の大樹とも呼ばれる精霊であれば、それぐらいは簡単だと思っただけだ」
「なっ……!?」
どうやら睨んだ通りだな。
エニユニエンの大樹の声には驚きと共に、隠しきれない嬉しさが滲んでいる。
褒めてやれば、その気になる質であろう。
「お前が本気を出せば、小テストの一〇や二〇、一晩もあればできてしまうものだと思っていたが、ふむ、俺の見込み違いか。今日の授業で、教育にかけては右に出る者はいないと確信していたのだが……?」
「うむぅぅぅぅ……」
教室が僅かに揺れる。
エニユニエンの迷いを表しているのだ。
もう一押しといったところか。
「魔王学院の教師ならば、それぐらいは融通を利かせるものだが、なに、無理は言わぬ。学舎にはそれぞれやり方というものがあるだろう」
話を打ち切るように俺は立ち上がり、そのまま出入り口へ向かった。
教室から出ようとすると、目の前のドアがぴしゃりと閉まった。
「よかろう。わしも教育の大樹と呼ばれた精霊じゃて。それぐらいはどうにかしてしんぜよう」
「そうか。それは助かる」
「だがの、魔王アノス。お主らはまだここに来て日も浅い。しからば、次回の小テストで九〇点以上を取った場合のみ、精霊の試練に挑む資格を与えよう」
「構わぬ」
「では、次の授業は二時間後じゃ。それまで自習に励むことじゃのう」
教壇の大木から、すうっと顔が消えていき、次第にエニユニエンの気配も消えた。
「フフフ」
緋碑王ギリシリスが不気味に笑い、俺のもとへ歩いてくる。
「これはこれは、ずいぶんと大きく出たものだねぇ。汝のその自分だけは特別だと思っているところが、どうも気に障る」
ジェル状の顔をぐにゅぐにゅと歪めながら、ギリシリスは俺を睨んでくる。
「この吾輩とて、精霊の試練に挑むのは一月要したのだがねぇ」
「ほう。ずいぶんと苦戦したようだな。お前らしくもない」
「覚えるだけならば容易いがねぇ。まず覚えるべき答えを探すのが、この精霊の学舎の特徴なのだよ。簡単にいくと思わない方がよい」
「では、賭けるか、緋碑王。一週間後の小テストで、俺たちは全員、精霊の試練に挑む資格を得る」
ギリシリスは不快そうな反応を見せる。
「全員だと? 汝だけでなくてか?」
「ああ、全員だ」
「この吾輩が、どこの馬の骨かもわからぬ魔族よりも劣ると思っているのか?」
「なにを言う」
フッと笑ってみせる。
「緋碑王。お前如きが、俺の配下に敵うつもりか?」
その言葉がかんに障ったか、緋碑王の顔に魔法陣の瞳が浮かぶ。
怒りをあらわにするように奴は俺を睨めつけた。
「面白いねぇ。どんな賭けを所望だ、魔王?」
乗ってきたか。
相変わらず、プライドの高いことだ。
「俺たち全員が精霊の試練に挑む資格を得れば、俺の勝ちだ。お前には、お前に命令した『上』とやらが何者なのか話してもらう」
まるで嘲笑するように、ギリシリスはぐにゅぐにゅと顔を歪める。
「いいだろう。吾輩が勝てば、汝の根源をもらう」
ふむ。ずいぶんとふっかけてくるものだな。
それとも、それほどまでに『上』のことを知られたくないのか?
「どうやら条件を飲めないようだねぇ。それでは吾輩も賭けには乗れない」
「いいや、それで構わぬ」
一瞬、ギリシリスは絶句する。
まさか根源を賭けるとは思わなかったのだろう。
「正気かね? それとも、吾輩を侮っているのか?」
「お前が言いだした条件だ。なにを怖じ気づいている?」
ギリシリスは俺をじっと睨みつけた。
「いいだろう。交渉成立だねぇ。後悔するがいい、魔王」
奴は俺の横を通りすぎ、教室を出ていく。その最中、互いに<契約>に調印をした。
「お前たちは相変わらずよ」
そう呟き、冥王イージェスが去っていく。
「冥王。お前もなにか賭けておくか?」
「相も変わらず、戯れ言を口にするものよな。余がそなたの口車に乗ったことがあったか?」
「確か二度ほどな」
「あれは必要に迫られてのことよ。今とは状況が違う」
そう言い残し、冥王は去っていった。
教室に視線を戻すと、詛王の別人格ジステがいなくなっていた。
来た時同様、黒い靄となって消えたのだろう。
「勝算があるのかい?」
レイが訊いてくる。
「なに、これから考える。勝ち目が見えるまで悠長に構えていては、一向にシンたちには近づけぬことだしな」
「それはそうかもしれないけど、負けたら、どうするつもりよ? 根源をとられるのよ? 死んじゃうじゃない」
サーシャがじとっと俺を睨んでくる。
「負けはせぬ」
「……負けたらの話をしているのに、答えになってないわ」
「ありえぬ話をしても仕方あるまい」
そう口にすると、不服そうにサーシャは唇を尖らせた。
「自習する?」
感情に乏しいミーシャの瞳が俺を見つめる。
「ああ。一週間しかないことだしな」
「……お勉強は……苦手、です……」
ゼシアがしょんぼりとした顔で呟いた。
「大丈夫だぞ。ゼシアにはちゃんとボクが教えてあげるから」
エレオノールがゼシアをよしよしと撫でる。
少し元気を取り戻したが、相変わらず彼女は浮かない表情をしていた。
「でも、自習っていっても、どうしよっか? アノス君もそんなに精霊のことには詳しくないんだよね?」
「ああ。だが、詳しそうな奴がそこにいるだろう」
俺が目をやった方向へ、全員が視線をやった。
リィナが一旦後ろを振り返った後、誰もいないことに気がついた。
「もしかして、私のことかなっ?」
「緋碑王たちが知らぬ精霊の名をお前は見事に言い当てた。詳しいのではないか?」
俯き加減になり、リィナはうーん、と頭を悩ませる。
「情報屋をやりながらね、アハルトヘルンのことを調べるついでに、精霊のことも調べたんだけど、実はそんなには見つからなくて……」
まあ、そうだろうな。
精霊の噂というのはそうそう見つけられるものでもない。
噂や伝承があったからといって、それが本当に精霊化しているかどうかは、実際にその精霊に会わなければわからないのだからな。
情報屋をやっているだけでは、それほど精霊について詳しくはなれぬということだ。
「あれ? じゃ、どうして珍しい精霊の名前は知ってたんだ?」
エレオノールが尋ねると、浮かない表情でリィナは答えた。
「……知らなかったはずなんだけど、ここにいたら、なんだか急に思い出したんだよ……」
「記憶を失う前は、精霊のことをよく知っていたのだろう」
「……そうなのかな?」
「確かめてみるか?」
不思議そうな顔でリィナは俺を見る。
「どうやって?」
「記憶を蘇らせる魔法ならば、いくつか使える。精霊のことを思い出したなら、勉強を手伝ってくれると助かる」
リィナは俺の顔を見たまま、考え込むような表情を浮かべた。
「魔法じゃ、だめな気がするよ」
「なぜそう思う?」
「わからないけど……なんとなく……」
ふむ。おかしなことを言うものだ。
「……でも、試してみてもいいかな? もちろん、精霊のお勉強のことは手伝うよ。私も、精霊王に会わなきゃいけない気がするし……」
「それもなんとなくか?」
「うん、そう」
そのわりに、リィナはどこか確信めいた顔をしている。
まあ、考えていても仕方あるまい。
「できるだけ、なにも考えぬようにするがいい」
トン、と指先をリィナの額に触れる。
彼女の頭に魔法陣を描き、<追憶>の魔法を使った。
できれば、<時間操作>で時間も戻してやりたいのだが、彼女の起源がわからぬ。
とはいえ、普通の記憶喪失ならば、<追憶>で十分のはずだ。
「あ……」
と、リィナは声を上げる。
なにかを思い出したのだろう。
やがて、<追憶>の魔法は終わり、輝いていた魔法陣の光が消えた。
「どうだ?」
「……精霊のことは、沢山思い出したよ……」
リィナは浮かない表情をしている。
「でも、自分のことは、やっぱり思い出せない……」
ふむ。ただの記憶喪失ではなかったか。
リィナの謎が増えていくのです……。