エニユニエンの大樹
「まずは、新入生たちのために、この精霊の学舎について説明しておくかのう」
エニユニエンの大樹が、老人のような嗄れた声を発した。
だが、その声は顔のある大木ではなく、教室全体に響くように聞こえてくる。
教壇に位置するあの大木が、本体ではないためだろう。
その名の通り、奴はこの大樹の建物、精霊の学舎そのものだ。
つまり、俺たちはエニユニエンの大樹という精霊の体内にいる、ということである。
「ここでは、様々な精霊や、その歴史について教えておる。もちろん、それ以外にもありとあらゆる授業を設けているが、必修となるのはその精霊の授業じゃて」
落ちついた口調でエニユニエンの大樹は言う。
「一度このエニユニエンの大樹に入ったものは皆、精霊の学舎へ入学することとなる。そして、精霊の授業を受け、卒業するまで出ることはできはせん。勉強は継続が大事じゃからのう。衣食住はそろっておるから、その点は安心するがよい」
しかし、はた迷惑な噂と伝承もあったものだな。
精霊の学舎に迷い込んだら最後、卒業するまで出られない、と誰かが最初に考え、そして噂として広まっていったのだろう。
「また暴力により、他者を傷つけたり、拘束したりすることなどは禁止されておる。もしも、それに背いた場合、罰として、そうじゃな。今ならば、長き蛇エピテオの背中を踏破する試練に挑んでもらうことになろう」
ふむ。緋碑王は俺に攻撃させ、その罰を受けさせようと考えたわけか。
しかし、聞き覚えのない精霊だな。
「長き蛇エピテオとはなんだ?」
そう問うと、ふぉっふぉっふぉ、とエニユニエンの大樹が笑う。
「良い質問じゃのう」
大したことは聞いていないが、エニユニエンの声は弾んでいた。
質問されたのが嬉しい、といった風に見える。
「ならば、生徒たちに答えてもらおうかの。長き蛇エピテオについて、答えられる者はおるか?」
緋碑王、冥王、詛王が競い合うように手を挙げた。
「早かったのは緋碑王ギリシリスじゃな。答えてみよ」
緋碑王はすっと立ち上がる。
「長き蛇エピテオというのは、この世のなによりも長い蛇という噂と伝承から生まれた精霊だねぇ。生まれた当時は世界を一周するぐらいのサイズだったが、噂が噂を呼び、現在では約世界三三三周ほどの体長がある。あまりの長さから、この精霊の学舎にある魔法の沼の中でしか生息できなくなってしまった。時折、そこを通じて七つの海に頭だけを出すと言われているねぇ」
「うむ。正解じゃ」
エニユニエンの大樹が低い声で言った。
つまり、この精霊の学舎で暴力を振るえば、世界三三三週分の体長を誇る蛇の背を踏破しなければならないわけか。
今ならば、と言っていたが、その時々によって罰の内容は変わるのかもしれぬ。いずれにしても、エピテオを踏破するのと同じぐらいは厄介なことだろう。
面倒な話だな。
「さて。このようにわしは時折、精霊にまつわる出題をする。それに見事答えられた場合は、お主らの成績に加算されるのじゃ。無論、それ以外にも小テストや精霊の試練などを設けており、成績がつけられる仕組みじゃて。そして、優秀な成績を収めた生徒は晴れて卒業じゃ。記念として、卒業の印を授けてしんぜよう。それがあればアハルトヘルンを自由に出入りすることができる」
なるほど。
今回のようにいちいちアハルトヘルンの噂を見つけなくともよくなるというわけか。
「優秀な成績を収めるということだが、具体的にはどのぐらいだ?」
「そこは教育の大樹として、わしの長年の勘によって判断しておる。ただテストの点を取ればいいというものでもない。もちろん、点数を取るにこしたことはないがのう。これまで一番卒業が早かった者で二週間、最長じゃと五〇年はかかったのう」
明確な基準はないということか。
いや、その基準を探すのも授業の内なのかもな。
「卒業の印を手に入れた後も、授業を受けることはできるのか?」
「うむ。無論、可能じゃ。先に述べた通り、精霊の授業はあくまで必修じゃ。それ以外にも、ここでは様々な教育を施す用意がある。魔剣や魔法、料理に算術、はたまた精霊の躾方から、精霊を生み出す方法まで、どんな教えを授けることもできるのじゃ。わしは教育の大樹、エニユニエンじゃからの」
ふむ。なかなか使えそうだな。
「なら、たとえば、喋れない少女を喋れるようにする教育は可能か?」
「無論無論、可能じゃて。精霊には不思議な力があるからの。ただし、相応の努力は必要じゃがのう」
このエニユニエンの大樹はかなりの広さだ。
内部に長き蛇エピテオが生息する沼もあるということは、魔法空間にもなっているのだろう。
「一万人のゼシアを連れてくる場所としてはいいかもしれぬな」
「うんうんっ、ボクも今同じこと思ったぞ」
俺の呟きに、エレオノールが嬉しそうに同意した。
「ていうか、あなたたち、よくそんなこと考えてる余裕があるわね……。出たときのことを考えるより、まずどうやって卒業するかを考えた方がいいんじゃない?」
サーシャが呆れた表情を浮かべている。
「なんだ、サーシャ? 恐いのか?」
「べ、別に恐いわけじゃないわよっ。でも、あなたの配下が神隠しにあって、四邪王族だって、あんなに大人しくしてるでしょ。エニユニエンの大樹は、のほほーんとしたお爺さん声で和むけど、実際かなりやばいんじゃないかしら?」
隣で、ミーシャがこくこくとうなずいていた。
「なに、そう心配するな。良い成績を取れば、卒業できるとわかっているのだからな」
「アノスは精霊に詳しかったっけ?」
レイが訊いてくる。
「いや、さほどではないな。お前はどうだ?」
「魔族よりは詳しいかもしれないけど、元々、精霊っていうのはよくわからない存在だからね。残念だけど、知らないことの方が多いよ」
まあ、そうだろうな。
「呆れるわ。あれだけ自信満々だったのに、知らないわけ?」
サーシャが抗議するように言い、じとっと横目で睨んでくる。
「なに、知らないことはこれから勉強すればいい。そら、授業に集中しろ」
そう口にすると、サーシャは「あなたが先に脱線したんじゃない……」と呟く。
「ふぉっふぉっふぉ、話は終わったかの。授業を続けるぞい」
エニユニエンの大樹が言った。
さすが教育の大樹という噂と伝承でできた精霊だ。
多少の私語など気にも留めず、どっしりと構えている。
「さて、今後の予定じゃが、まず一週間、精霊についての座学を行う。その後に小テストじゃ。ここで落第点を取ると、神隠しにあってしまうので注意するといいのう。何度かの小テストの後、成績優秀者は精霊の試練へ進むことができるのじゃ。精霊の試練を突破した生徒は、精霊王との謁見がかなう。精霊王の試練に合格すれば、そのまま卒業ということもあるので、心してかかるがよいのう」
エニユニエンがそう口にすると、目の前の大木に文字が描かれていく。
「ではここでもう一つ出題じゃ。昼にしか現れぬ小熊のような、狐のような精霊の名をなんと言う?」
ふむ。知らぬな。
俺だけではなく、四邪王族もそれを知らないのか、誰も手を挙げようとはしない。
ノウスガリアならば、知っているような気もするが、見たところ、どうも居眠りをしているようだ。やる気がないのだろう。
「ふぉっふぉっふぉ、さすがにマイナーな精霊すぎたかのぉ」
「えっと、答えてもいい、かな?」
恐る恐るといった風に、手を挙げたのは情報屋の少女、リィナだった。
「よいぞ。して、精霊の名は?」
「妖精犬ガウイーレだよね?」
「うぅむ……正解じゃ」
緋碑王と冥王がリィナを振り返った。
答えを聞いてもわからなかったのか、正解したリィナをその魔眼で舐め回すように見ている。
「妖精犬ガウイーレについては、後々授業で説明するからのぉ。先にもういくつか出題をするぞい」
再び、大木に問題文が浮かんだ。
「壊れた盾と壊れた矛を手にした、精霊最強の剣士の名をなんという?」
手を挙げたのは、やはりリィナだけだった。
「矛盾剣士バブロアナかな?」
「正解じゃ。バブロアナは噂も少なく、滅多に出会うことのない稀少な妖精なのじゃが、よくわかったのう」
リィナは曖昧にうなずいている。
ふむ。情報屋で仕入れた噂なのか?
「うーん、もうちょっと古めの精霊だったら、ついていけるんだけど、答えを聞いても全然わからないぞ」
エレオノールがお手上げといった風に言った。
「ふぉっふぉっふぉ、では、有名な精霊の出題をしてしんぜよう。サービス問題じゃて」
教壇の大木に今度は字ではなく、三つの絵が浮かんだ。
しかし、それはあまりに稚拙な出来映えだ。
一つは棒人間。
一つはミミズがのたくったようななにか。
一つはただの黒丸に毛が生えているだけだ。
そもそも絵と言えるのかどうかすら怪しい。
「さて、この絵は三人の有名な精霊を描いたものじゃ。名前はなんじゃ?」
答えられて当然といった風にエニユニエンの大樹は言うが、誰も手を挙げなかった。
「リィナちゃんもわからないんだ?」
エレオノールが訊くと、彼女はこくりとうなずいた。
「……だって、あれ、絵心全然ないよ……いくら有名な精霊でも、無理だよ」
リィナはぼそっと呟く。
すると、まるで地震でも起きたかの如く、教室が揺れた。
「なんじゃとぉぉぉっ!!!!?」
怒りに震えるように、エニユニエンの大樹は揺れている。
「このわしの教育がぁ、教育の大樹とまで呼ばれたわしの教育にぃぃっ、ケチをつける気かぁぁぁぁっっっ!!!」
エニユニエンの怒声が、教室中に響き渡った。
並の者ならば、耳が痛むほどの爆音だ。
「これはこれは。まずいねぇ。エニユニエンは授業にケチをつけられると、よく癇癪を起こすのだよ」
緋碑王ギリシリスがジェル状の顔をこちらへ向ける。
「ふむ。鎮める方法は?」
「さっきの質問に正解するしかないねぇ。そうしないと、全員の成績が〇点になっても不思議ではない」
「では、答えたらどうだ?」
緋碑王は大げさに肩をすくめる。
あんな絵心のない絵から精霊を当てるなど不可能と言わんばかりだ。
「驕ったな、魔王。だから、貴様は慢心が過ぎるというのだ」
冥王イージェスが隻眼を光らせて言った。
「そういう貴様も答えられぬようだが?」
「わかるものかよ。あの棒人間の正体がわかるなど、川の水が下流から上流に流れるようなものよ。物事には道理というものがある」
吐き捨てるようにイージェスは言った。
「ふむ、道理か。ならばとくと見るがいい」
俺はすっと手を挙げ、立ち上がった。
そうして、大木に描かれた棒人間を差す。
「棒人間の六枚の羽は、あらゆる精霊の母、大精霊レノを表している」
次に、ミミズがのたくったようななにかを差す。
「周囲にある無数の点は霧雨、すなわち水の大精霊リニヨン」
最後に、ただの黒丸に毛が生えている絵を差した。
「このつぶらな瞳は、間違いなく妖精ティティだ」
ピタリ、と教室の揺れが止まった。
エニユニエンの怒りが収まったのだ。
「うむ。大正解じゃ。アノス・ヴォルディゴード、お主に卒業の印を授けてしんぜよう」
俺の制服に光が集い、妖精の羽を模した勲章がつけられる。
これだけで卒業とはな。
なかなかどうして、いかに教育の大樹とはいえ、現金なところもあるものだ。
まあ、これも噂と伝承による性格なのだろうが。
「……なぜあの棒人間が……大精霊レノだと……?」
訝しげに冥王イージェスが呟く。
「……ミミズが這いずった跡にしか見えないあれが、リニヨン……?」
心底疑問だと言わんばかりに、緋碑王ギリシリスはジェル状の顔を歪める。
「言っておくが、まぐれではないぞ」
呆然とした様子の二人に俺は言った。
「この程度のこともわからぬから、貴様らは俺に一度として勝てなかったのだ」
この教育の大樹とかいう教育者、大丈夫なんですかねぇ……。